涸れない水
アナヒドが銀壺の蓋を開けた。
銀の水瓶──アナーヒターの巫女に代々受け継がれる祭具。銀の表面に刻まれた水紋の文様が、蓋を開けた瞬間に微かに発光した。淡い青白い光が文様に沿って走り、同心円を描きながら銀壺の全体に広がっていく。光は水面に触れて散り、透明な水の中に溶けた。銀壺の中には聖水が湛えられている。普通の水ではない。アナーヒターの加護を受けた治癒の水。水面が微かに揺れ、焚き火の光を受けて金色に煌めいた。銀壺を傾けると、水が指先を伝い、透明な雫が糸を引くように零れ落ちた。水に触れた指先が微かに光る。光は水の中を走り、指先から手首へ、手首から肘へと伝播していく。冷たくて温かい。矛盾する二つの感覚が同居している。
アナヒドの指先がキアンの喉に触れた。水を含んだ指が、灼けた皮膚の上を滑る。冷たさと温かさが同時に染み込んだ。矛盾する感覚が皮膚の表面から奥へと浸透し、代償の灼熱感が僅かに和らいでいく。灼けた喉に冷たい泉の水が流れ込むような感覚。焦げた粘膜が潤い、痛みの層が薄くなっていく。完全にではない。代償そのものを消すことはできない。力の本質に刻まれた対価は、外からの治癒では根本を変えられない。だが一時的に灼熱感の鋭さを丸くすることはできた。声を出しても刃で切られるような痛みが──鈍い熱に変わる。呼吸が楽になる。嗄れた声でも、以前より少しだけ明瞭に話せる。水の力が喉の内側を覆い、薄い膜のように灼熱から守ってくれている。
「世話を焼くな」と言いたかった。喉の奥で言葉が形を成しかけて、灼熱感が走った。嘘だ。世話を焼くなと思っていない。むしろ──安堵している。水の冷たさに。指先の温もりに。誰かが自分の痛みに手を差し伸べるということに。だがそれを認めることは、嘘つきの自尊心が許さなかった。嘘をつけば喉が灼ける。本音を言えば自分が壊れる。どちらも選べず、言葉は喉の奥で灰になった。
黙って受け入れた。目を逸らしたまま、アナヒドの指先が喉から離れるのを待った。水の冷たさの残滓が、しばらく皮膚の上に留まっていた。指先が離れた後も、触れられた場所にほのかな温もりが残る。治癒の水の効果か、それとも──人の指の温もりか。どちらでもよかった。以前の自分なら「余計なお世話だ」と軽口で返していただろう。嘘で距離を取り、相手の好意を茶化して無力化する。それが嘘つきのやり方だった。だが今は嘘をつけば喉が灼ける。軽口すら代償の引き金になる。だから黙って受け入れるしかない。黙っていることが、今のキアンにできる唯一の誠実さだった。
エワルは美しい器だった。銀の表面が焚き火の光を受けて橙色に輝き、刻まれた水紋の文様が光の角度によって浮き沈みする。古い器だ。何代もの巫女の手を経て、銀の表面に微かな擦り傷が無数に刻まれている。だがその傷すら器の一部になっていた。時間を纏った美しさ。蓋の裏側にはアヴェスター語の銘文が刻まれている。キアンには読めなかったが、祈りの言葉であることは感じ取れた。
夜が更けていた。焚き火の炎が低くなり、薪の芯だけが赤く燃えている。砂漠の冷気が足元から這い上がり、吐く息が白く凍りかける。空には星が無数に散り、天の河が荒野の上に弧を描いていた。アタルは少し離れた岩の上で静かに座っている。老人の周囲だけ、空気が微かに揺らいでいる。陽炎のように。いつものことだ。
「アナーヒターの声が……最近、遠くなる瞬間があるのです」
アナヒドが呟いた。治癒の後の水を布で丁寧に拭いながら、焚き火の残り火を見つめている。声は穏やかだったが、どこか不安を押し殺しているような硬さがあった。普段の流れるような語り口とは違う。言葉を選んでいる。声の震えを抑えている。三つ編みの先端を指で弄る癖が出ている。不安なときの癖だ。キアンは気づいていた。嘘つきの観察眼は、相手の癖を見逃さない。
「以前は常に感じていた導き──アナーヒターの加護が、時折途切れるような。ほんの一瞬だけ、接続が消えるのです。水の流れが止まるように。川の水が一瞬だけ凍りつくような──そういう瞬間があるのです。気のせいだとは思うのですが」
キアンの真実視が、アナヒドの「気のせい」を視た。赤く灼けている。嘘だ。気のせいではない。アナヒド自身も、それが気のせいではないことを知っている。加護の途切れを体感している。水の流れが止まる瞬間を、体の芯で感じている。だが認めたくない。認めれば巫女としての存在が揺らぐ。アナーヒターの加護を失うということは、アナヒドにとって自分の存在理由を失うことに等しい。巫女である自分から巫女を引けば、何が残るのか。その問いに向き合うことを、アナヒドは恐れている。だからこそ「気のせい」という嘘で蓋をしている。
キアンは黙っていた。
修練で学んだ「保留」の技術。視えた嘘を暴かない。箱に入れて蓋を閉じる。だが今回は技術ではなかった。あの母親の嘘を暴かなかったのと同じだ。アナヒドの「気のせい」は優しい嘘だ。自分自身に向けた優しい嘘。恐怖を和らげるための嘘。暴けば、アナヒドの不安が剥き出しになる。それは──暴くべきではない。嘘つきとして培った「知っていて黙る」技術が、ここでは優しさとして機能していた。皮肉だ。嘘つきの技術が人を守っている。
治癒が終わった後、アナヒドがエワルを腰に戻した。銀壺の蓋を閉じるとき、指先が微かに震えていた。そのことにアナヒド自身は気づいていないようだった。キアンは気づいていたが、口にしなかった。銀壺を腰帯に結びつける動作は手慣れているが、以前よりも一呼吸分だけ遅い。疲弊が蓄積している。
「水はまだたくさんあります」
アナヒドが微笑んだ。穏やかな微笑み。巫女としての落ち着きが戻っている。疲弊の影を隠すように、いつもの温かさを纏い直している。だがキアンの目には、その言葉が微かに赤みを帯びて視えた。温かい赤。優しい嘘。「たくさん」は──嘘だ。
たくさんは、ない。エワルを傾けたとき、水面が以前より低い位置にあった。わずかな差だが、キアンの目は誤魔化せない。治癒のたびに水を使い、その水は戻らない。聖水は有限だ。
だがキアンは何も言わなかった。水が減っていることも、アナーヒターの加護が揺らいでいることも。優しい嘘は、暴かなくていい。そう決めた。視えている。わかっている。だが口にしない。保留する。箱に入れて蓋を閉じる。蓋の上に「開けるな」と書いておく。アナヒドの水が有限であること。アナーヒターの加護が揺らいでいること。二つの不穏な事実が箱の中で重なり合っている。だが今夜はその蓋を開けない。焚き火の温もりと、喉に残る水の冷たさと、アナヒドの微笑みの温かい赤──それだけを受け取って、眠りにつく。夜空の星が白く瞬いていた。嘘のない光だ。




