あなたの嘘は痛い
旅の中で、アナヒドの共感力がキアンの苦痛を受信し続けた蓄積が、限界に近づいていた。
表面上は穏やかだった。巫女としての落ち着きは崩さず、旅の準備も食事の支度も淡々とこなしている。朝は誰よりも早く起き、焚き火の灰を始末し、水袋の残量を確かめ、干し肉を均等に三等分する。その所作に乱れはない。三つ編みは毎朝きちんと編み直され、白地に青い刺繍の巫女装束は砂塵に汚れながらも整えられている。だがキアンの観察眼は変化を見逃さなかった。嘘つきの目は他者の些細な変化を捉えることに長けている。目の下の隈が深くなっている。食事の量が減っている。水を飲む回数が増え、そのたびに唇の渇きを拭う。銀壺を持つ手が、微かに震える瞬間がある。水を注ぐときに指先が揺れ、一滴が銀壺の縁から零れて砂に吸い込まれる。アナヒドはそれを素早く拭ったが、キアンは見ていた。以前は澄んでいた深い青の瞳が、どこか曇って見える。歩く速度がわずかに落ちている。足を引きずるほどではないが、以前の流れるような歩調が重くなった。
「大丈夫か」と聞きたかった。何度も。喉まで出かかった。朝の支度をするアナヒドの背中を見るたびに。水を注ぐ手の震えに気づくたびに。だが聞けなかった。相手の嘘が視えるからだ。「大丈夫です」と返ってくるのが──白でないことが、わかってしまう。アナヒドは嘘をつくだろう。優しい嘘を。あの母親と同じように。その嘘が赤く灼けて視えることが──聞く側にも残酷だ。嘘だとわかっている答えを引き出すための問いは、問い自体が暴力になる。だから聞けない。真実視を持つということは、他者に「大丈夫?」と聞くことすら奪われるということだった。日常の些細な気遣いが、力によって封じられていく。嘘つきは言葉で生きてきた。言葉が武器であり盾であり、唯一の生存手段だった。なのに今、最も伝えたい言葉が口にできない。
聞けない。答えが嘘だとわかっている問いは、聞く側にも残酷だ。「心配している」と言いたい。だがそれは嘘を含まないか。心配しているのは本当だ。だが「心配している」の裏に「自分のせいで」という自責がある。自責を隠して心配だけを伝えようとすれば、それは──嘘にならないか。嘘と真実の境界で、言葉が凍る。かつては言葉が溢れ出して止まらなかった。嘘と冗談と皮肉で場を支配し、相手の心を操ることが得意だった。今は一言を発するのに、嘘が含まれていないかを確認しなければならない。嘘つきが言葉を恐れるようになる。皮肉だ。
夜、焚き火のそばでキアンが珍しく先に口を開いた。声が嗄れていて、最初の一音が喉に引っかかった。乾いた咳をひとつして、唾を飲み込み、もう一度。焚き火の炎が揺れ、二人の影が砂の上で踊っている。アタルは少し離れた場所で横になっている。老人の寝息は規則正しく、焚き火の爆ぜる音に紛れていた。
「……あんたに聞きたいことがある」
アナヒドが顔を上げた。焚き火の光が深い青の瞳を照らしている。三つ編みの端が肩から前に垂れ、火の光を受けて黒く艶やかに光っていた。疲弊した顔だ。隈が深い。それでも、キアンの声を聞いた瞬間に目に光が戻る。他者の痛みに応答することが、この巫女の本能なのだと思った。
「俺の傍にいると痛いのか」
長い沈黙が落ちた。薪が爆ぜる音だけが闇に響く。遠くで砂漠の風が低く唸り、焚き火の煙が横に流れた。星が瞬いている。白い光だ。嘘のない光。アナヒドの唇が僅かに動き、何かを言いかけて止まり、また動く。逡巡しているのではない。答えを選んでいるのだ。嘘をつくか、真実を言うか。
「はい」
白──真実。迷いのない一語。アナヒドは嘘を選ばなかった。
「あなたの嘘は、とても痛いのです」
アナヒドの声が僅かに震えていた。だが目を逸らさなかった。焚き火の光を正面から受けて、深い青の瞳がキアンを真っ直ぐに見つめている。共感力で受け取ったキアンの苦痛を、今度はアナヒド自身の言葉で返している。受信ではなく発信。受容ではなく告白。
「嘘の裏にある……孤独が、痛いのです。あなたが嘘をつくたびに、その嘘で覆っている孤独が──私の中に流れ込みます。嘘そのものが痛いのではない。嘘の奥にある、あなたの痛みが──痛いのです」
キアンの思考が止まった。自分の嘘が相手に「痛みを与えている」という認識。嘘は武器であり盾だった。自分を守るためのものだった。他者を遠ざけ、傷つけられる前に傷つける。あるいは自分の弱さを隠し、見透かされないようにする。それが嘘の役割だった。だがそれが他者に痛みを与えていた。しかも嘘そのものではなく、嘘で隠している本音──孤独が、共感力を通じてアナヒドを灼いていた。嘘は盾のつもりだったのに、盾の裏側から刃が突き出ていたのだ。知らなかった。知るつもりもなかった。嘘つきは嘘の効果だけを計算する。嘘が相手に与える二次的な痛み──嘘の裏にある感情が相手を傷つけること──は、計算の外にあった。
「じゃあ離れりゃいいだろ」
喉が灼けた。代償の灼熱感が喉の奥を焼き、声が途中で嗄れた。灼ける。嘘だったからだ。離れてほしくなかった。
キアンは自分の本音に動揺した。離れてほしくない。なぜだ。監督者だろう。見張りだろう。任務で傍にいるだけの巫女だろう。いつから「離れてほしくない」と思うようになった。あの焚き火の夜──「見たくないものを見る」共通点を知った夜からか。それとも、もっと前からか。嘘つきの自分が、自分自身に嘘をつけなくなっている。代償のせいだ。嘘をつけば喉が灼ける。他者への嘘だけではなく、自分への嘘すらも。
アナヒドが微笑んだ。苦しそうな、だが離れるつもりのない微笑み。焚き火の光が頬を照らし、涙を堪えているような目の光が揺れている。
「離れるほうが、もっと痛いですから」
白──真実。アナヒドの微笑みの裏にある痛みは本物だ。だがそれでも傍にいることを選ぶという意志もまた、紛れもない本物だった。白い真実が、焚き火の光の中で静かに灼けている。
キアンの声が震えていた。嘘で返したことも、その嘘が灼けたことも、アナヒドにはわかっている。二人ともそれを知っている。嘘の裏の本音も、本音の裏の恐怖も、すべてが透けて見えている。それでも言葉にしない。言葉にしなくても、わかっている。
キアンは黙って焚き火を見つめた。炎の白が、二人の沈黙を照らしていた。薪がまた一つ崩れ、火の粉が夜空に舞い上がった。赤い光が星空の中で一瞬だけ瞬き、消えた。アナヒドの銀壺が膝の上で微かに光っている。水の力で喉の灼熱感を和らげてくれるあの水。だが今夜はキアンから求めなかった。求めれば嘘が要る。「痛い」と言えば真実だが、アナヒドが自分を責める。何も言わなければ──何も言わないことが、今はいちばん正直だった。




