痛い沈黙
キアンが日々痩せていくことに、アナヒドは気づいていた。
街道を歩く背中が、ひとまわり小さくなった。肩甲骨が衣の上から浮き出し、首筋の腱が以前より目立つ。旅装束の腰紐を二度巻きしても余るようになった。歩くたびに衣の裾が足首に絡み、痩せた脛が見え隠れする。軽口が減った。目を合わせなくなった。食事の量が減り、干し肉を一切れ口に入れては残りをそっとアナヒドの分に戻す仕草を、キアンは気取られないようにしているつもりだろうが、アナヒドの目は──いや、目よりも先に、共感力がそれを捉えていた。以前は「まずい飯だな」と軽口を叩きながら人の倍は食べていたのに。嗄れ始めた声で必要最低限のことだけを口にし、それ以外は黙っている。以前の饒舌で弁の立つ少年の面影が、日ごとに薄れていく。目の下に深い隈が落ち、琥珀色の瞳に宿る光が鈍くなっていた。嘘つきの少年の最大の武器は言葉だった。その言葉が枯れていくことが、キアンの内側で何かが壊れかけていることを、これ以上ないほど雄弁に告げている。
共感力がキアンの苦痛を受信し続けていた。嘘を視ることの苦しみが、潮のようにアナヒドの中に流れ込んでくる。嘘をつけないことへの焦燥。暴走への恐怖。代償の灼熱感。それらが重なり合い、混じり合い、アナヒドの神経を絶えず引き搔いていた。特に辛いのは、キアンの嘘だった。「大丈夫だ」と嗄れた声で言うとき、その嘘の裏にある孤独が──剥き出しの傷口のように痛む。共感力は慈悲の力だと教えられた。巫女としての恩恵だと。だがキアンの傍にいるとき、慈悲は拷問に近かった。他者の苦痛を引き受けることが自分の存在意義だと信じてきたが、キアンの苦痛はアナヒドの容量を超えかけていた。夜、寝返りを打つたびにキアンの苦悶が波のように押し寄せ、自分の夢と相手の夢の境が曖昧になる。朝、目覚めたとき、喉が灼けているような錯覚を覚えることすらあった。キアンの代償が、共感力を介してアナヒドの身体に影を落としている。
キアンの傍にいることは──痛かった。
だが離れることはもっと痛い。その確信がどこから来るのか、アナヒド自身にもわからなかった。任務だからか。巫女としての使命感か。それとも──別の何かか。考えるたびに、答えが霧の中に逃げていく。答えを掴もうとすると、共感力が他者の感情をまた運んでくる。自分の感情か他者の感情か、区別がつかなくなる瞬間が増えていた。
街道の休憩地で、アナヒドはアタルに相談した。枯れた樹の根元に腰を下ろし、銀壺を膝の上に置いて、言葉を選ぶ。乾いた風が砂粒を運び、唇が渇いた。水袋から一口含み、乾いた喉を潤す。遠くの街道を行く旅人の影が、陽炎に揺れていた。キアンは少し離れた岩陰で目を閉じている。眠っているのか、真実視を遮断しようとしているのか。その背中に日光が当たり、旅装束の埃が白く浮かんでいた。あんなに細い背中だっただろうか。アナヒドは視線を落とし、銀壺の冷たい表面を指で辿った。
「キアンの力は──封じるべきでしょうか。本来、私の任務はそれです。力が危険であれば封じる。でもキアンの力は、キアン自身を最も傷つけています。封じるべきか、制御を助けるべきか……」
アタルは焚き火に枝をくべながら答えた。枝の先が赤い炎に呑まれ、乾いた音を立てて爆ぜる。老人の指は火の近くにあっても怯まず、むしろ炎が手に馴染んでいるように見えた。
「おまえ自身が決めよ」
淡白な返答だった。だがアタルの言葉には色がない。嘘とも真実とも判別できない透明な声。導き手はいつもそうだ。答えを与えず、問いを返す。アナヒドは唇を噛んだ。自分自身の判断。任務としての判断ではなく、アナヒドという個人の判断。それを求められている。神殿の命令に従うのは楽だった。巫女として定められた役割をこなすだけでよかった。だが今、目の前にあるのは命令書に記されていない選択だ。封じるか、助けるか。そのどちらを選ぶかは、巫女としてのアナヒドではなく、一人の人間としてのアナヒドが決めなければならない。銀壺の表面に映る自分の顔が、焚き火の光で歪んでいた。疲弊した顔だ。目の下に隈があり、唇が乾いている。キアンと同じだ、と思った。
夜営中、焚き火を挟んでキアンとアナヒドが座った。無言の時間が流れた。薪が爆ぜる音だけが、二人の間を埋めている。炎が揺らぐたびに影が伸び縮みし、キアンの痩せた顔の輪郭が明暗を繰り返す。乾いた空気に煙の匂いが漂い、夜の冷気が足元から這い上がってきた。頭上には星が広がっている。白い光だ。嘘のない光。アナヒドは銀壺の蓋を指先で撫でながら、キアンの横顔を見つめていた。嘘つきの少年は焚き火の炎を見つめ、何かを考え込んでいる。額に浮かぶ汗は炎の熱のせいか、それとも真実視が映し出す色彩の重圧のせいか。
長い沈黙の後、アナヒドが呟いた。声は自分でも驚くほど小さかった。
「私も、見たくないものを見ることがあります」
キアンが顔を上げた。琥珀色の目が、焚き火の光を映して揺れている。
「他者の苦しみが……流れ込んでくるのです。感じたくなくても感じてしまう。止められない。共感力は恩恵だと教えられましたが……時々、呪いのように思えます」
声が僅かに震えた。普段の穏やかさの奥にある、剥き出しの痛み。他者の痛みではなく、自分自身のもの。こんなことを口にしたのは初めてだった。神殿では弱音を言えなかった。巫女は他者を支える存在であり、支えられる側ではない。だがこの焚き火のそばでは、言葉が自然に零れた。
キアンは焚き火の炎を見つめた。アナヒドの言葉は白かった。真実だ。嘘を含まない、率直な告白。巫女の建前でも、任務の報告でもない。アナヒドという人間の、生の声だった。見たくないものを見る。感じたくないものを感じる。嘘を視る力と、苦痛を感じる力。形は違うが、構造は同じだ。どちらも自分の意志では止められない。
「……あんたも、見たくないのに見えるのか」
アナヒドが頷いた。黒髪の三つ編みが肩の上で揺れ、深い青の瞳に焚き火の炎が映っている。答えはそれだけだった。言葉は要らなかった。
沈黙が、少しだけ温かくなった。焚き火の炎が二人の間で穏やかに揺れ、薪が静かに崩れた。煙が天に昇り、星空に溶けていく。夜風が砂の上を走り、焚き火の灰を微かに舞い上げた。灰が闇の中で一瞬だけ赤く光り、消える。何も解決していない。痛みは消えない。力は止まらない。だが──独りではないという感覚が、胸の奥の鉛を僅かに軽くしていた。見たくないものを見る者が、もう一人いる。その事実は、言葉よりも確かな慰めだった。少し離れた場所でアタルが杖を杖代わりにして座り、二人を見守っている。老人の表情は穏やかで、焚き火の光が深い皺の影を揺らしていた。




