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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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水瓶の底

 朝の光が野営地に差し込む前に、アナヒドは目を覚ましていた。


 空はまだ紺色を残し、東の地平線だけが薄い橙に染まり始めている。乾いた空気が肌を撫で、昨夜の焚き火の残り香が微かに鼻を突いた。灰になった木片が白く散らばり、その傍で丸まっていた毛布を押しのけ、アナヒドは身を起こした。


 銀の水瓶を取り上げる。毎朝の儀式。水の巫女としてアナーヒターに祈りを捧げ、水瓶の力を確かめる。手のひらに銀の冷たさが伝わり、指先に──かつては神の力の脈動があった。水瓶に触れただけで、アナーヒターの息吹が指先を通じて腕へ、胸へ、全身へと広がっていった。巫女であることの証が、毎朝この瞬間に確認されていた。


 今は冷たさだけが指を包む。銀の硬い感触と、夜気に冷やされた金属の冷たさ。それ以外に何もない。


 水瓶を掲げた。祈りの言葉を唱える。声は穏やかで、抑揚は正確だ。巫女として幾千回と繰り返してきた所作に、一点の乱れもない。唇が祈祷の言葉を紡ぎ、声が朝の静寂に染み込んでいく。かつてはこの声に呼応するように水瓶が光を放ち、内側から温もりが溢れ出した。水面が揺れ、光が銀の壁に反射し、祈りの言葉ひとつひとつに応えるように脈動した。


 だが水瓶は──微かにしか光らなかった。


 銀の表面を、薄い燐光が走る。かつての鮮やかな輝きとは比べようもない、蝋燭の残り火にも似た頼りない光。それすらも一瞬で消え、水瓶はただの銀の器に戻った。


 蓋を開ける。水位を確かめる。瓶の半分以下。目に見えて減っている。つい十日前までは三分の二はあったはずだ。水面が銀の壁に映す光は弱く、揺れるたびに影が瓶の底を這った。アナヒドの手が──祈りの途中で、止まった。指先が蓋の縁に触れたまま動かない。瓶の中を覗き込む目が、水面に映る自分の顔を見つめていた。


 蓋を閉じる。その音がやけに大きく響いた。銀と銀がぶつかる乾いた音が、朝の静寂の中を走り抜けていった。まだ眠っている他の三人に届いただろうか。アナヒドは一瞬だけ周囲を見回したが、アタルもスラオシャもキアンも、毛布の中で身じろぎもしていなかった。


 南方への街道を歩く。日が昇り、空が白く明るくなると、景色が変わり始めていた。聖火の大神殿がある中央部に近づいているため、道は石畳で整備され、ヴァラの間隔も狭い。商隊の往来が増え、街道沿いの宿場が連なっている。石壁の門柱に聖火の紋章が刻まれ、街道の要所に火守の見張り台が建っていた。繁栄と信仰が息づく地域であることが、建物の一つ一つから伝わってくる。


 だが各地の聖火は弱まっていた。ヴァラを通り過ぎるたびに、聖火台の上で揺れる炎がいつもより小さく見えた。以前はヴァラの外壁まで届いていたはずの光が、今は火台の周囲だけをかろうじて照らしている。聖火台の前で祈りを捧げる人々の姿が増えていた。不安が人を祈りに向かわせるのだ。


 キアンの真実視には、この地域全体に薄い灰色の霧がかかっているように映っている。キアン自身はそれを口にしないが、表情に僅かな緊張が読み取れた。琥珀色の目が街道の先を見据え、時折すれ違うヴァラの聖火台に視線を走らせている。その度に、わずかに眉が寄る。真実視が捉えている灰色の靄が──アナヒドの水瓶の衰退と同じ原因から来ていることを、キアンはまだ知らない。聖火も水の力も、この世界を支えていた力の一部だ。その力が──衰えている。


 スラオシャの鈴が微かに鳴る。風に揺れたのか、それとも何かを聴き取ったのか。スラオシャは首を傾げたが、何も言わなかった。聴く者の耳に──この地域の空気が何かを囁いているのかもしれない。だがその囁きの内容を、スラオシャは共有しなかった。鈴の音色がいつもより硬いことだけが、何かの変化を物語っていた。


 アタルは先頭を歩きながら、時折道端の石碑に目を留めていた。古い石碑だ。文字は風化して読めないものもあるが、聖火の紋章と祈りの言葉が刻まれている。この街道を何百年も前から旅人が行き交い、聖火の加護を祈ってきたのだろう。アタルの目がその石碑を見る時の表情には──懐かしさとも哀しみともつかない、複雑な色が浮かんでいた。


 四人の旅路は静かだった。言葉は少なく、足音と風の音だけが街道に流れている。それぞれの内に渦巻くものを押し込めたまま、南へ向かう。石畳を踏む四つの足音が、不揃いなリズムで重なっていた。陽光が高くなるにつれ、影が短くなり、乾いた熱気が足元から立ち上ってくる。


 夜営地で、アナヒドは一人になった。


 焚き火から離れた場所で、水瓶の蓋を開ける。焚き火の光が届かない暗がりの中、銀の瓶がわずかに月の光を映していた。聖水を少しだけ──ほんの数滴を、手のひらに出した。貴重な水だった。減り続けている聖水を使うことへの躊躇いが、指先にこもった。だが確かめずにはいられなかった。


 水に触れた瞬間、一閃の記憶が蘇った。


 川の流れ。雨の匂い。大地を潤す水の歌。傷を癒す光。アナーヒターの力が水を通じて脈打ち、世界を浄化していたあの感覚が──指先に、一瞬だけ甦った。温かかった。懐かしかった。巫女として生きてきた全ての日々が、手のひらの水滴に凝縮されていた。水を通じて繋がるすべての命。泉の底で歌う声。雨粒の一つ一つに宿る祈り。それらが掌の上で一瞬だけ輝き──


 だが一瞬で消えた。


 手のひらの水はただの水に戻った。温もりは失せ、力の記憶は指先からこぼれ落ちた。残ったのは水の冷たさだけだった。夜気に晒された掌の上で、水滴が光を失い、ただ皮膚の窪みに溜まっている。指を傾けると、水は重力に従って地面に落ちた。乾いた土が一瞬だけ黒く染まり、すぐに吸い込まれて消えた。


 アナヒドが小さく息を吐いた。吐息が夜の冷気に白く煙った。


「……減っている。確かに」


 声に出した。声に出したことで、それは現実になった。曖昧なまま留めておくことがもうできない、確定した事実として。自分の声が自分の耳に届き、その言葉の意味が胸の中に沈んでいく。認めたくなかった。だが認めないことはもうできなかった。


 水瓶の蓋を閉じ、膝の上に置く。水面に月が映っていた。揺れる月が──泣いているように見えた。銀の縁の中で月光が歪み、アナヒドが息をするたびに微かに揺れた。静かな夜だった。虫の声すら聞こえない。アナヒドと水瓶だけが、月の光の下に在った。


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