癒せない傷
街道沿いの小さな村に立ち寄ったのは、偶然だった。
水を補充しようと井戸を借りに寄った村で、老人が病に倒れていると聞いた。熱が引かず、三日も床に伏しているという。村の者が困り顔で語る言葉を聞いたアナヒドは、迷わず「診させてください」と申し出た。
巫女としての使命感──それは、力が衰えていても消えるものではなかった。むしろ力が弱まっているからこそ、使命感にしがみついているようにも見えた。キアンの真実視に映るアナヒドの色が、申し出の瞬間だけ──微かに白く輝いた。「誰かを助けたい」という願いは嘘ではない。巫女としての核にある、本物の光だった。
老人の家に通される。石と土で固めた壁の狭い部屋に、薬草の匂いが充満していた。苦い草の煎じた匂いと、汗に濡れた寝具の匂いが混じり合い、部屋の空気を重くしている。窓は小さく、差し込む光も弱い。老人は青白い顔で横たわり、額に汗が浮いていた。頬は痩せ、唇は乾き、呼吸のたびに胸が浅く上下している。その傍に家族が不安げに座っていた。妻と、若い息子。二人の目がアナヒドを見上げた。巫女の衣装と銀の水瓶を目にして、妻の目に希望の光が灯る。
キアンの真実視がその希望の色を視た。白い光。純粋な──だが脆い希望。巫女が来てくれたのだから治るはずだ、という。
アナヒドは水瓶を開けた。銀の蓋を外す手は落ち着いていた。巫女としての所作に一点の乱れもない。だがキアンには見えていた──水瓶を開けた瞬間、アナヒドの指先が微かに強張ったことを。
聖水を指先に取り、老人の額に当てる。かつてなら、この一滴で十分だった。アナーヒターの力が水を通じて患部に流れ込み、熱を鎮め、病の根を断つ。何百回とそうしてきた。水が触れた箇所から清浄な光が広がり、病を蝕む闇を押し退け、身体を内側から浄化していく。そのたびにアナヒドの手は温かく、聖水は淡い青の光を放っていた。
水が老人の額に触れた。微かに光る。淡い──あまりにも淡い光が、水滴の周囲にぼんやりと灯った。だが──光はすぐに消えた。蝋燭の火が風に吹かれるように、一瞬で。
熱は少し下がった。老人の呼吸が僅かに楽になった。額の汗が引き、苦しげに歪んでいた顔がわずかに緩んだ。だが病は治らない。根が残っている。熱の原因である病そのものは、聖水の力が届かない深い場所に潜んでいた。アナヒドの手が震えた。指先が──微かに、だが確かに。
もう一度。聖水を取り、額に当てる。光が灯り──消える。水瓶の中の聖水が、一滴分また減った。
もう一度。水を指先に取る手が、今度は少し遅かった。躊躇いが指先に宿っている。それでも巫女の手は老人の額に触れ、祈りの言葉を唱えた。光は──灯らなかった。
効果が出ない。
部屋の中に、アナヒドの祈りの声だけが響いていた。声は正確で、巫女としての所作に一点の曇りもない。だが力が応えない。器は正しく祈り、水は正しく捧げられ、言葉は正しく唱えられている。足りないのは技術でも信仰でもなく──神の力そのものだった。
「申し訳ありません……」
アナヒドが頭を下げた。声は穏やかだったが、その奥に──かすかな震えが混じっていた。唇が微かに歪み、すぐに元に戻る。巫女としての外殻が、感情を押し留めている。
老人の妻が手を合わせた。皺の深い手が、祈るように胸の前で重ねられた。
「いいえ、巫女様。来てくださっただけで──ありがとうございます」
感謝の言葉だった。キアンの真実視がその言葉を視る──白い。嘘ではない。本心からの感謝だった。だがその白の奥に──微かに灰色が滲んでいた。感謝は本物だ。だがアナヒドの目には──隠しきれない失望が映っていた。期待していたのだ。水の巫女が来てくれたのだから治るはずだと。その期待が裏切られた落胆を、感謝の言葉で覆い隠している。優しい嘘ではなく、無意識の防衛だった。
若い息子は何も言わなかった。ただ父親の枕元に座り、青白い顔を見つめている。その沈黙の中に──怒りはなかった。あるのは疲弊だけだった。
家を出た。
土壁の家の戸口をくぐり、陽光の下に出る。眩しかった。狭い病室の暗さから、一気に白い光の中に放り出されたような感覚。アナヒドが目を細め、足元の地面を見つめた。
キアンは少し離れた場所に立っていた。木陰に背を預け、腕を組んで、アナヒドが出てくるのを待っていた。木の幹のざらついた感触が背中に伝わり、頭上の葉が風に揺れて影がちらつく。
真実視が、アナヒドを捉えた。
内面に渦巻く感情が色として視える。恐怖の灰色。自責の黒い染み。「もっと上手くやれたはずだ」「力があった頃なら」「巫女として失格だ」──声にならない言葉が色になって、アナヒドの輪郭を覆っていた。灰色と黒が渦を巻き、まるで嵐の雲のようにアナヒドの内面を覆い尽くしている。
だが、その奥に──微かに残る白い光があった。
消えかけているが、確かにある。「それでも誰かを助けたい」という願い。嘘ではない、本物の白。アナヒドの核にある、どんな喪失にも消されない光。灰色の嵐の中心に、小さな、だが確かな白が──まだ灯っていた。
キアンの胸が──痛んだ。
理由がわからなかった。自分の代償でもない。真実視の暴走でもない。ただ、アナヒドが苦しんでいることが──キアンの胸を、内側から締め付けていた。息が詰まるような圧迫感。名前のつかない痛みが、心臓の裏側を押している。この感覚を何と呼ぶのか、キアンは知らなかった。知りたくもなかった。知ることが怖かった。
村を去る。四人は再び街道に戻り、南へ歩き始めた。砂塵が風に舞い、午後の陽光が白く大地を照らしている。
アナヒドが一度だけ振り返った。老人の家の窓に灯りが見える。薬草を煎じる煙が、小さな窓から細く立ち上っていた。治せなかった。
巫女として、初めての明確な敗北だった。
アナヒドは前を向いた。背筋は真っ直ぐだった。だがその背中に──キアンの真実視は、灰色の翳りが一層深くなっているのを視ていた。




