聴こえない声
数日が経っていた。南方への街道を四人で歩きながら、キアンはアナヒドの背中を見つめていた。
いつもと変わらない歩き方。黒髪の三つ編みが肩で揺れ、青い刺繍の帯が砂塵を纏った旅装束の腰で微かにはためいている。スラオシャが後方で静かに歩き、アタルが先頭で杖を突いている。乾いた街道に四人の足音が重なり、散り、また重なる。砂埃が靴の先から立ち上がり、風に攫われて背後に流れていった。陽光は高く、地平線から吹く風はほこりの匂いを運んできていた。
だが朝、野営地で目を覚ましたアナヒドの手つきが──いつもと違っていた。
銀の水瓶を掲げ、祈りを捧げる。それはアナヒドが毎朝欠かさず行う儀式だった。アナーヒターへの祈り。水の巫女としての日課。瓶を両手で掲げ、空に向けて祈祷の言葉を唱える。声は正確で、抑揚も乱れない。千回以上繰り返してきた所作に淀みはなかった。朝靄がまだ地面を這い、空気は冷たく、水瓶の銀が薄い朝光を反射して鈍い光を放っていた。
だが水瓶を掲げたアナヒドの手が──途中で止まった。
まるで何かを待っているように。応えを待つように、長い沈黙のなかで水瓶を空に掲げ続けた。微動だにせず、目を閉じたまま。祈りの姿勢だけは完璧に保たれている。だがその完璧さが、かえって不自然だった。本来ならば応答がある場所に、何もないからこそ、動きが止まっているのだ。風が三つ編みの毛先を揺らし、朝靄が足元を通り抜けていく。祈りの言葉を唱え終えてなお、アナヒドは水瓶を掲げ続けていた。応答を待っている。返事を待つ子どものように、両腕を空に差し伸べたまま。
応えは、来なかった。
かつてはどうだったのだろう。キアンは知らない。アナヒドの祈りに応えていたアナーヒターの声がどんなものだったのか、水を通じて伝わる力の脈動がどのような感触だったのか、キアンには想像もつかない。だがアナヒドが水瓶を下ろしたとき、その肩が微かに──ほんの僅かに落ちたことに、キアンの目は気づいていた。巫女としての外殻は完璧に保たれている。だが肩が落ちる一瞬だけ、その殻に罅が入った。わずかな吐息が唇から漏れ、それは朝の冷気のなかで白く煙って消えた。
銀の蓋を閉じる音が、やけに大きく響いた。朝の冷えた空気の中で、銀と銀がぶつかる乾いた音が鳴り、それが消えた後の沈黙が──不自然に長く感じられた。野営地を片付ける物音も、遠くの鳥の声も、その沈黙の前では薄い膜の向こうの出来事のようだった。
街道を歩きながら、キアンは真実視を意識した。見たくなくても見えてしまうこの目に映るアナヒドの色が──以前より暗かった。
穏やかな白の中に、灰色が滲んでいた。恐怖の色。不安の色。かつてのアナヒドは白の中に淡い青が混じる清浄な色をしていたが、今はその青が褪せ、灰色の靄が代わりに広がりつつある。アナヒドの内面を覆い始めている灰色は、キアンがこれまで見てきた嘘の色とは異なっていた。これは嘘ではない。アナヒド自身がまだ受け入れていない真実の、反射のようなものだった。真実を認めたくないという抵抗が、灰色として滲み出している。視界の端で、その色が揺れるたびに、キアンの胸の奥がざわついた。
「おまえ──何かあったか?」
キアンは声をかけた。嗄れた声が、乾いた街道の空気に溶ける。代償で痛む喉から搾り出す声は、以前よりも掠れが増していた。風に紛れそうなほど細い声が、それでもアナヒドの耳には届いたらしい。
アナヒドが振り返る。穏やかな微笑み。いつもの微笑みだ。唇が弧を描き、目が細まり、相手を安心させる完璧な表情。巫女として何千回と繰り返してきた所作。だがキアンの目には、その微笑みの裏に灰色の影が揺れているのが視えていた。
「いいえ。何も」
黒い染みが走った。
嘘だ。アナヒドの言葉に、小さな──だが確かな虚偽の色が灯った。キアンの真実視がそれを捉え、喉の奥で微かな灼熱が疼いた。視た真実に関する嘘が近くにあると、代償が反応する。だがこの灼熱はキアン自身の嘘ではなく、アナヒドの嘘への反応だった。他者の嘘に対しても、真実視は容赦なく色を示す。
だが、追及しなかった。
嘘つきの直感が告げていた。アナヒドが自分から話すまで待て。無理に暴くな。嘘を暴くことが正しいとは限らないと、キアンはこの旅で嫌というほど知っている。ドゥルジ・ナスとの出会いで、嘘には守るための嘘があることを学んだ。アナヒドの「何もない」は、自分を守るための嘘だ。それを暴く権利はキアンにはない。
だからキアンは視線を前方に戻した。アナヒドの背中を見つめながら、口を閉じた。街道の砂塵が風に巻かれ、四人の影が西に長く伸びている。乾いた空気が頬を撫で、陽光が大地を白く焼いていた。
アナヒドの背中を見つめたまま歩く。胸の奥で、何かが──名前のつかない感情が芽を出していた。この巫女が苦しんでいるなら、何かしたい。苦しみを取り除くことはできないが、せめて一人で抱えなくていいようにしたい。その衝動は言葉にならなかったし、行動にも変換できなかった。嘘つきのキアンは言葉を操ることに長けているはずなのに、本音になると途端に言葉が見つからなくなる。だが胸の中に、確かに芽生えていた。小さく、脆く、だが確かに。
夜。焚き火を囲む四人から少し離れた場所で、アナヒドが銀の水瓶を膝に抱えていた。焚き火の橙色の光が水瓶の銀を染め、揺れる炎に合わせて光の反射が明滅している。夜の闇が四方から迫り、焚き火の届かない場所は漆黒に沈んでいた。乾いた夜風が運んでくるのは砂と枯れ草の匂いだけで、遠くに獣の声すら聞こえない静寂だった。
スラオシャが近づいた。鈴の音が微かに鳴る。聴く者の存在を告げる、小さな音。乾いた闇の中にその音色だけが澄んで響き、焚き火の爆ぜる音と重なって消えた。
「アナヒドさん」
スラオシャの声は柔らかかった。聴く者の声。三千年の間、善と裁かれた魂も悪と裁かれた魂も、等しく聴いてきた者の声。押しつけがましさがなく、ただ静かにそこに在るだけの響き。
「……はい」
「水の声が──小さくなっています」
アナヒドの肩が強張った。一瞬だけ、微笑みの殻が揺れた。スラオシャの聴く力は、アナーヒターの力の脈動すらも聴き取る。水に流れる神の音色を、彼の耳は拾い上げることができる。彼が言うなら、それは真実だ。
「聴こえなくなることの恐怖は──僕にも想像できます」
スラオシャはそれだけ言った。押しつけがましくない。ただ知っていると伝えるだけ。聴く者同士の、静かな理解。三千年間あらゆる声を聴いてきたスラオシャにとって、聴こえなくなることは存在の核を失うことに等しい。その恐怖を、スラオシャは自分の中に持っているからこそ、アナヒドの恐怖を理解できた。
焚き火の向こうで、キアンが横目でその光景を見ていた。真実視に映る二人の色が、微かに──共鳴するように揺れていた。灰色の中に、淡い光が混じる。恐怖の色と理解の色が触れ合い、互いの輪郭を少しだけ和らげている。
アナヒドが水瓶を胸に抱きしめた。銀の冷たさが、両腕を通じて心臓まで伝わってくる。かつてはこの冷たさの中にアナーヒターの温もりがあった。水の女神の声が銀を通じて流れ込み、巫女の心を満たしていた。今は冷たさだけが残っている。銀と肌の間に、何もない。空白だけがある。
「アナーヒター様……どこにいらっしゃるのですか」
囁きは小さかった。焚き火が爆ぜる音にかき消されるほどの声量。キアンの耳には届かなかったかもしれない。スラオシャの耳には届いたかもしれない。だがどちらにせよ──神には届かなかった。
誰にも、届かなかった。




