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嘘つきは真実を灼く ~七つの聖火と嘘喰いの孤児~  作者: 蒼月よる


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涸れゆく泉

 朝、アナヒドが水瓶を開けた。


 銀の水瓶──エワルと呼ばれる祭具──の蓋を外す手が、微かに震えていた。キアンはそれを見ていた。十歩ほど離れた場所から。距離を取る癖が、もう身体に染みついている。


 水位がこれまでで最も低かった。銀の内壁が底近くまで露出し、かつては瓶の半ばまであった聖水が、今は指二本分ほどしか残っていない。朝の光が瓶の口から差し込み、わずかな水面を照らした。以前なら、水は光に触れるだけで淡い輝きを放っていた。アナーヒターの力が宿った聖水は、太陽の光に応えて銀色に発光する。だが今朝の水は──ただの水のように、鈍い反射を返すだけだった。


 アナヒドが治癒の力を使おうとした。掌に水を掬い、意識を集中する。キアンの真実視が、その試みを色として視ていた。アナヒドの内面から力が水に向かって伸びる──薄い青白い光の筋。だが水に触れた瞬間、光が散った。接続できない。水が微かに光る──だがすぐに消えた。光を帯びない。ただの水として、掌の上に留まっている。


 何度か試みた。二度目は光の筋すら見えなかった。三度目でようやく、ほんの微かな光が水面に浮かんだ。弱い。以前の十分の一にも満たない輝き。かつてはアナヒドが触れるだけで水が歌うように光っていた。水源の神アナーヒターの力が、水を通じて巫女に流れ込んでいた。今はその流れが──細い糸のように痩せ、途切れかけている。


 アナヒドの表情が初めて明確に歪んだ。口元が震え、深い青の瞳に恐怖が走った。一瞬だった。すぐに穏やかな表情に戻した。自分の恐怖を他者に見せないように──いつものように──感情を表面の下に沈めた。だがキアンの真実視は見逃さなかった。歪みの色。暗い紫が一瞬だけアナヒドの内面に走り、すぐに穏やかな白に塗り替えられた。上手い嘘だ。だがキアンには視える。


 昼過ぎ、街道で怪我をした旅人に出会った。荷馬車の車軸が折れ、その拍子に腕を切ったらしい。深くはないが、砂塵が傷口に入り、炎症を起こしかけていた。アナヒドは迷わず駆け寄った。巫女としての行動だ。水瓶の水を指先に取り、傷口に当てる。光が微かに灯り、傷が塞がり始める──だが半分で止まった。傷口が完全には閉じない。肉が盛り上がりかけて、途中で力を失ったかのように止まる。以前なら一息で塞がった程度の傷だ。


 アナヒドの指先が震えた。もう一度試みた。水を追加し、集中を深める。光がちらつき──消えた。傷は半分だけ塞がった状態で、それ以上は動かなかった。


「ありがとう」


 旅人が礼を言った。半分しか治っていないが、旅人にはそれが十分だったのだろう。炎症は収まり、出血も止まった。完全には塞がっていないが、命に関わる怪我ではない。


 アナヒドが微笑んだ。穏やかな、巫女としての微笑み。


 キアンの真実視が、アナヒドの内面を視た。恐怖の色が渦巻いていた。暗い紫。「力が──消えていく」という認識が、アナヒドの内面で嵐のように渦を巻いている。巫女としての存在の根幹が崩れていく恐怖。アナーヒターの力を失うことは、アナヒドにとって水を失うことと同じだ。水の巫女から水を奪えば、何が残る。治癒の力がなくなれば、傷ついた者を救えなくなる。共感力で他者の痛みを感じても、それを癒す手段がなくなる。痛みだけが流れ込み、応えることができない。それは──地獄だ。


 旅人が去った後、アナヒドは何事もなかったかのように歩き始めた。水瓶を腰帯に挟み、背筋を伸ばし、前を向いて。だがその歩幅が以前より狭くなっていることに、キアンは気づいていた。


 夜になった。


 焚き火の傍で、アタルとスラオシャが静かに話していた。橋の状態について、聖火の衰退について。低い声が夜風に溶けている。キアンは焚き火から少し離れた岩の上に座り、夜空を見上げていた。星は白い。嘘をつかない。天体は人間ではないから。


 その視界の端で──アナヒドの影が動いた。


 焚き火の光が届くか届かないかの境界。アナヒドは一人で水瓶に耳を当てていた。岩陰に座り、銀の水瓶を両手で包むように抱え、目を閉じ、耳を傾けている。アナーヒターの声を聴こうとしているのだ。


 かつては水に触れるだけで感じた神の力の脈動。水のざわめきの中に響く、女神の導き。泉の底から湧き上がるような、低く温かい振動。それが今は──微かにしか聴こえない。消えかけている。水瓶の中の水が少なくなるのと同じように、女神の声も薄れていく。


 アナヒドの唇が動いた。声にはならない。ただ唇の形だけが、祈りの言葉を紡いでいる。巫女として毎日繰り返してきた祈祷の文句だろう。だが応える声はない。水瓶は沈黙している。銀の表面に月光が反射しているだけで、内側からの光は──ない。


 アナヒドの目に涙が浮かんだ。


 一筋だけ。月光に照らされた褐色の頬を伝い、顎の先から一滴、落ちた。銀の水瓶の縁に落ちた涙は、水面に小さな波紋を作り──消えた。


 だがすぐに指先で拭い、穏やかな表情に戻した。深呼吸を一つ。震える息を吐き、もう一度吸い込んで。そして水瓶の蓋を閉め、腰帯に挟んだ。何事もなかったかのように。キアンには見せなかった。見せるつもりがなかった。自分の弱さを、自分の恐怖を、他者に──キアンに──背負わせたくなかったのだろう。共感力で他者の痛みを引き受けてきたアナヒドは、自分の痛みだけは自分の内側に閉じ込める。


 だがキアンには見えていた。離れた場所から。真実視で視たのではない。ただ──目で見えていた。月光の下で涙を拭う横顔が。震える指先が。それを隠そうとする所作が。


 何かが、キアンの胸の奥で動いた。名前のない感情だ。怒りではない。悲しみとも違う。ただ──アナヒドが泣いている、ということが、キアンの内臓を掴んで捻り上げるような感覚を与えた。


 助けたいのか。守りたいのか。慰めたいのか。わからない。だが「わからない」では済まされない何かが、胸の底で燃え始めていた。小さな火だ。アタルが灯す火とは違う。自分自身の中から生まれた、名前のない炎。


 水瓶の中の水面が──月光を反射して揺れていた。残り少ない水が、銀色に光る。


 美しかった。


 そして哀しかった。


 キアンは岩の上から動かなかった。駆け寄ることも、声をかけることもしなかった。それが正しいのかどうかもわからなかった。ただ、月光の下で水瓶を抱えるアナヒドの姿を、目に焼きつけていた。真実視ではない。ただの目で。嘘も真実もない、ただの景色として。


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