第十五話: ウルセーうちん○ 【前編】
もしかするとこの物語は、15歳未満の読者にはあまり適していないかもしれません。
無規制の暴言や過激な描写、いわゆる大人向けの内容が含まれているわけではありませんが、テーマが少し……なんと言えばいいでしょうか……重たい、というか、含みのあるものかもしれません。
まあ、とにかく、15歳未満の方はおそらく楽しめないと思います。
(とはいえ、15歳以上であれば必ず楽しめる、という保証もありませんが。
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「本当にいいのか、大和くん? 君は『ピンク・グレートピース』というペンネームを失うことになるんだぞ。分かっているのか?」
編集長は、この十分にも満たない間に五度目――いや、六度目だろうか――そう言った。
もう説明するのも少々うんざりしていた。
ああ、分かっていますとも。その意味は理解しています。
ああ、自分で考え、自分で作り、十年近く使い続けたペンネームを失うことも。
ああ、そのペンネームを巡ってあなたと何度もやり合ったことも。
ああ、そのペンネームのおかげで大学を卒業できたことも。
ああ、おそらく他社で記者として雇われることもないだろうということも。
そして、ああ、自分の懐事情が、どんな仕事でも選り好みできるほど余裕のあるものではないことも。
「うん」
私はそう答えた。
会社は社員のおよそ四分の三を解雇し、フリーランス契約も期限未定で停止していた。
彼らは生成AIに置き換えられる。
当然、その中には私も含まれていた。
だが編集長曰く、私には断れない提案があるらしい。
「社長との交渉は本当に大変だったんだよ、大和くん。だが私は社長と取締役会を説得してね。君だけは例外として、解雇を撤回することになったんだ」
「その代わり給料は減る、と」
「おいおい。無給よりはマシじゃないか。少しは会社の立場も考えてくれたまえ。こちらだって楽じゃないんだ。利益は過去最低なんだから」
「それでも利益は出てるんですよね?」
「皮肉はよしたまえ、大和くん……。経済情勢は非常に厳しいんだ……。もう少し感謝というものを――」
「はいはい、どうもありがとうございます。心の底から感謝しております」
そう言いながら、私物を詰めた段ボールを閉じた。
「もし気が変わったら、その……うちの扉はいつでも開いているからね……」
「その代わり給料は減る、とね」
私が編集部を出ようとしたとき、編集長が呼び止めた。
「待って。悪いけど、これも会社の規則なんだ。それは会社員として手に入れたものだから、法的には会社の資産になる。俺個人としては持って帰ってもらって構わないんだけど、ルールを決める立場じゃないからさ……」
そう言って、彼は私の『キャンディ・ハニー・スクールデイズ』の主人公フィギュアを没収した。
まあ、乙女ロードに行けば千円くらいでまた手に入る物ではあったけど……。
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「本当にいいのかい、大和さん? 保証金ぁ返ってこなくなるんだよ? ちゃんと分かってんのかい?」
大○さんは、この十分にも満たない間に五度目――いや、六度目だろうか――そう言った。
もう説明するのも少々うんざりしていた。
ああ、解約通知書がなければ、契約満了まで○賃を払い続けなければならないことも。
ああ、契約を途中で打ち切る以上、違約金を支払うことになることも。
ああ、その件で保証会社と揉めれば、面倒なことになるだろうということも。
ああ、この近辺どころか、都心まで一時間以内の他の地区でも、新しい住まいを見つけるのは容易ではないだろうということも。そして、それが仕事探しをさらに難しくすることも。
ああ、各種の公的登録を変更し、両親にも知らせなければならないことも。
そして、ああ、自分の懐事情が、どんな住処でも選り好みできるほど余裕のあるものではないことも。
「うん」
私はそう答えた。
「よいしょ」
私はそう唸りながら、自分の荷物を詰めた最後の段ボール箱を持ち上げた。
「どっこい」
私はそう唸りながら、段ボール箱を抱えて階段を下りた。
「どっこいしょ」
私はそう唸りながら、段ボール箱をルナちゃんの車に積み込んだ。
「終わった? じゃあ行こう。みんなが待ってるよ」
ルナちゃんは、私が車に乗り込むとそう言った。
「ど、どうも……本当に……助けて……ありがとう……」
息を整えながら、どうにかシートベルトを締めた。
車が動き出すと、私は最後にアパートを振り返った。
予想より、ずっと寂しい光景だった。
大○さんでさえ、いつもより少しだけ人当たりが良く見える……いや、違うな。きっと酸欠によるせん妄だ。
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「なんなの、この重たい箱。ほとんどガラクタじゃない……」
カオルちゃんは息を切らしながら文句を言い、その箱を床に下ろした。
「まさに『ある人の宝は別の人のゴミ』ってやつだね」
ルナちゃんがコメントする。
「えぇ? これ全部ゴミ置き場から拾ってきたの、撫子お姉ちゃん?」
ミキちゃんはそう言いながら、箱の中身を勝手に漁り始めた。
私は彼女の頭に軽く手刀を落とした。
「あうっ! 結構痛いんだけど!」
ミキちゃんが抗議した。
「いや、今のはちょい軽くだから」
私は答えた。
「ルナちゃん、撫子お姉ちゃんにそんな危ない格闘技なんて教えちゃダメだよ」
ミキちゃんがぶつぶつと文句を言った。
「いやいや、自衛くらいはできないと。撫子ちゃんがああいうオタク関係の世界に関わるって聞いたとき、面倒な男を避ける方法くらい教えておかなきゃって思ったんだよ。なんだかんだで男社会だし」
「また大げさなんだから、ルナちゃん。確かに男性は多いけど、女の子だってたくさんいるよ。それに、あの界隈の男性って大抵は穏やかだし、むしろ紳士的ですらある。企業勤めの人たちの方がよっぽど危険だよ……」
私がそう言うと、ミキちゃんは自分の経験を思い出したのか、少しだけ表情を曇らせた。
「それでも、備えあれば憂いなし、だよ。時々、男性ファンが女性アイドルを襲ったというニュースを目にすることがある」
ルナちゃんはそう言った。
私は沈黙したまま、カオルちゃんに抱きしめられた。
「ルナさんは撫子お姉さまと知り合いで、そのまま友人になったんだ……いや、撫子……ああもう、本当にごめんなさい、撫子お姉さま……」
「気にしないで、豊ちゃん。撫子でもいいよ」
私は従妹を軽く宥めた。
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「それでルナさんは、大学で撫子お姉さまと出会ったんですか?」
「うん。日本大学江古田キャンパスで行われていた大学間スポーツ大会に参加していてね。私は空手の出場者だったんだけど、次の試合まで少し時間があったから、女子1500メートル走を見ていたんだ。そこで彼女――撫子ちゃんがいた。他の選手の中でも、かなり目立っていたよ」
「本当に? 1位だったんですか?」豊ちゃんとミキちゃんが声を揃えた。
「いやいや。彼女はトラック競技の中で、唯一と言っていいくらい……その、体格がいい選手でね」とルナさんはくすくす笑いながら言った。
「へぇ、じゃあ本当にアスリートだったんですね」と豊ちゃんが感心したように言う。
「違うわね。あなたのお姉さんは、単にちょっと太っていただけよ」とカオルちゃんがあっさり言い放った。
「え〜、お姉様って昔は太ってたんですか? 意外です」
「そうだよ。でもそれは1年生の頃までで、2年生からは今みたいに痩せてたよ」
ルナちゃんがそう答えた。
「でも今は痩せすぎじゃないのがありがたいかな……痛っ」
ミキちゃんはそう言いかけて、私の上腕の一部をつまんでいた手をやめ、頭をさすり始めた。
「それって陸上のせいなんですか?」と豊ちゃんが尋ねた。
「いや、違う。原因はタバコだ」と私が答えるのと、カオルちゃんが息を吸い込むのは同時だった。
「痩せるために煙草を吸い始めたの?」
豊ちゃんが問い返した。
「まさか。そんな馬鹿なことはしない」
私は即座に否定した。
「もっと馬鹿な理由だった……不安よ」
カオルちゃんが言葉を引き取った。
「学費のことが心配だったの。アルバイトはしていたけど、それだけじゃ足りなかったんだよ」
ルナちゃんが説明した。
「日美子伯母さまに頼ればよかったのに……」
「無理」
私は豊ちゃんの言葉を遮った。
「その時はもう、男児くんの高校の学費も払ってたから」
私はそう補足しつつ、母に頼らなかったもう一つの、より大きな理由には触れなかった。
「でも大丈夫だったよ。別のアルバイトを見つけたから。記者としてね……」
「オタク雑誌で……信じられなかった。追い詰められると人って本当に妙なことをするものね。撫子ちゃんほどオタクと縁遠いタイプはいないのに」
ルナちゃんが言った。
「まあ、その理屈で言えば、あんたが花バカだなんて、誰が思う――痛っ」
ルナちゃんの手刀が、私の頭に容赦なく落ちた。
「あっ、そうだったね。月影さんは、お花とか生け花に詳しいんだった……」
豊ちゃんがルナちゃんに向かって言った。
「そうそう。全部豊ちゃんのお姉ちゃんのせいなんだよ。空手を教えてあげてたら、そのお礼だとか言って花道まで習わせたんだから。武士道を補う芸術だ、とか何とか言ってね」
「私はただ、最低限の作法を身につけてもらおうとしただけだよ……」
私は反論した。
「えぇ、そうだったんだ……」
豊ちゃんはそう言った。
それからカオルちゃんの方へ向き直った。
「朝香さんも、撫子お姉さまと知り合ったのは大学だったんですよね?」
「その通りよ。同じ大会に参加していたの。剣道部の仲間たちとキャンパスを歩いていたら、この人が書を壁に掛けているのを見かけてね。一目惚れだったわ」
カオルちゃんは、相変わらず私を抱きしめたままそう言った。
「勘違いを招くような言い方はやめてほしいな。ほら、ミキちゃんなんて目を見開きすぎて、今にも目玉が飛び出しそうじゃないか。豊ちゃんも、そんなに真っ赤にならなくていいから。この人が言ってるのは、ただ私の書が気に入ったって話。剣道部に飾る掛け軸を書いてほしいって頼まれただけだよ」
私はそう説明した。
カオルちゃんは私を解放すると、口元の端から少しだけ舌をのぞかせながら、いかにも意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「みんな、熱いから気をつけてね」
未遥ちゃんは、お茶の入ったお盆を持って部屋に入ってきた。
5
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男児くんの車のエンジン音が、外で唸りを上げていた。
「いつもお世話になって、本当にありがとうね」
蜩川さんがそう言った。
「いえいえ、とんでもないです。見送りに来てくれてありがとう」
私は答えた。
もっとも、子供たちも成長してきたので、彼らの面倒を見る必要は以前ほどなくなっていた。
小芳ちゃんはもう八歳だ。
十五歳になった佳春くんや、十三歳の優広くんがいれば、必要になっても大抵は妹の面倒を見られる。
男の子たちは友達と遊びに出かけていた。小芳ちゃんはというと、十五分ほどの間、何も言わずに私にしがみついていた。
蜩川さんは、そっと小芳ちゃんを引き離した。
「だめだよ。撫子お姉さんはもう行かなきゃいけないの」
「いつ帰ってくるの!」
私が車へ向かうのを見て、小芳ちゃんが叫んだ。
「ああ、すぐ帰ってくるよ。1年半か、2年くらいでね……」
「えぇ〜、そんなに長いの?」
「あっという間に……」
小芳ちゃんは、納得できないように何度も「あっ、あっ」と繰り返し始めた。
「うそつき……」
「……それに、電話でもメッセージでも、ビデオ通話でも話せるからさ」
ドアを閉めると、未遥ちゃんが車の方へ近づいてきた。
「気をつけて行ってね、みんな。それと撫子、帰ってくるまで部屋はきれいにしておくから」
「○賃の私の分は送るよ」
「あなたの収入は安定してないし、あちこちでアルバイトを探さなきゃいけないんでしょ。無理しないで。この○、三部屋あるとはいえ、新宿のワンルームより安いんだから、私ひとりでも払えるわ」
「それなら、俺に頼ってくれてもいいんだぞ」と男児くんが言った。
「あら、大丈夫よ、大和さん。あなたにはもう○族がいるでしょう」
未遥ちゃんはそう言ってから、豊ちゃんの方へ向き直った。
「撫子のこと、お願いね。それと、もし東京にあそびに来たくなったら、いつでも泊まれる部屋は用意してあるから」
「かしこまりました。これまで本当にありがとうございました、山岸先生」
「未遥でいいよ」
「おみやげ、たくさん持って帰るのね」と小芳ちゃんが、意地悪そうに笑いながら言った。
「うん」
「やくそくだよ」
彼女は泣きながらそう言った。
「うん」
そして車は、男鹿へ向けて出発した。だがその前に、もうひとつだけ小さな寄り道があった。
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「えっ? 本当にここなんですか? お墓には見えませんけど……」
豊ちゃんが小さな声で言った。
「正確には、納骨堂だよ」
受付で全員が記入と署名を済ませた後、私はICカードを受け取った。
エレベーターへ向かう私たちの足音が、静かな館内に反響していた。
目的の○族用区画は三階にあった。
私はICカードをパネルにかざした。
木製の扉が静かに開き、その奥には墓石が姿を現した。両脇には新しい花が供えられた花立てが並んでいる。
位牌は三基。
そのうちの一つには、領斎慈恵と記されていた。
彼女の遺骨は、もうそこにはなかった。韓国へ移されていたからだ。
それでも、彼女の位牌だけは兄の○族によって今もそこに祀られていた。
私たちは黙って手を合わせた。
――領斎さん。私は、あなたに許しを請うつもりはありません。私がしたことは、到底許されるものではないでしょう。あなたに対してだけではなく、それ以上に、賢子に対しても。それでも、もし一つだけ願いを口にすることが許されるなら。どうか、賢子をお守りください。そして、あなたが私に示してくださった数々の優しさに、心の底から感謝していることだけは、どうか知っていてください。
涙は、抑えようとしても止まらなかった。
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私たちは常磐自動車道に入り、最初の休憩地としてひたちなかに立ち寄った。
コキアは、秋の鮮やかな赤から黄金色を帯びた茶色へと変わっている。
国営ひたち海浜公園の植物の大半は花の時期を終えていた。それでも、グラスハウスから人工湖越しに眺める花壇には、まだわずかに咲き残ったチューリップの姿が見えた。
「わぁ、きれい……」
豊ちゃんが感嘆の声を漏らす。
彼女は新潟経由で東京へ来ていた。そして今度は仙台を経由する太平洋側のルートで戻ることになる。
だから、この景色はテレビやその他の媒体で見たことがあるものを除けば、ほとんどが初めて目にするものだった。
次に立ち寄ったのは仙台だった。
豊ちゃんは、うみの杜水族館に行こうと提案した。
「男鹿にはガオがあるだろ。それに今回は、軽く食べたり飲んだりして、足を伸ばす程度の休憩だ」
男児くんが言った。
「じゃあ……あそこ!」
豊ちゃんが叫び、欅並木を指差した。
木々はすっかり葉を落としていて、細い枝が空へ向かってまっすぐ伸びている。
私たちは、あのジョジョ立ちみたいな青銅像の近くのベンチに腰掛け、買ったばかりの熱々のひょうたん揚げを頬張った。
私と豊ちゃんは、冷え切ったベンチにお尻が触れた瞬間に身を震わせる。
その様子を見て、男児くんは大笑いしていた。
だが、ひょうたん揚げと熱いお茶のおかげで、身体はすぐに温まった。一方の男児くんはというと、特大サイズのブラックコーヒーを飲んでいた。
やがて日が沈み始めた。すると、欅の枝に巻き付けられた透明なLEDのコードが一斉に光り始めた。
気がつけば私たちは、光のトンネルの中にいた。
そして、再び道路に戻った。
私たちは国道4号を北上し、金ケ崎から国道46号へ入った。
そこから秋田へ向かい、さらに国道7号を通って大久保へ。
そして最後に、秋田県道104号を走って男鹿へ向かった。
途中で立ち寄ることはなかった。
豊ちゃんは金ケ崎を過ぎたあたりから、○に着くまでずっと熟睡していた。
白状すると、私も時々うとうとしてしまった。
幸いなことに、男児くんは最後までしっかり目を覚ましていた。
運転手が居眠りをするような旅では、さすがに楽しい旅路とは言えないだろう。
8
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豊ちゃんを○まで送り届けた後、私たちは実○へ向かった。
お風呂。夜食。睡眠。目覚め。身支度。朝食。そして、お墓参り。
私は墓石に刻まれた父の名を拭き清めた。黄色い蠟梅を花立てに供え、香炉に線香を立てた。それから立ち上がり、目を閉じて手を合わせた。
私は、時間というものの意味が失われるまで、黙したままでいた。
やがて踵を返し、実○への道を歩き始めた。
玉砂利が足元で絶えず音を立てた。遠くで尾白鷲の鳴き声が響いた。
風が吹いていた。潮風が。冷たい潮風が。
日本海から絶え間なく吹きつけ、唸るような音を立てていた。
あちこちに、小さな雪の塊が点々と積もり始めていた。
やがて、あたり一面の景色は完全にまっ白に覆われることになるだろう。誰かが何かを書き殴るのを待つ、無限の白紙のように。
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「お母さん、大げさだよ」と、私は言った。
「でも北海道でしょう」
母はそう言いながら、私の鞄にさらに冬物の上着を押し込んだ。
「だって春だよ」
「でも北海道でしょう」
「いいじゃないか。たまにはお母さんに甘やかされておけば」
襖のところに立ったまま、男児くんが言った。
「甘やかしじゃないわよ。撫子はとっくに子供じゃないもの。もう数十年も立派な大人なんだから。ただ、お母さんをしているだけよ」
――数十年、というのは少し意地が悪い言い方だな。母なら、もう少し言葉を選ぶだろう。私は心の中でそう思った。
「へえ、んだあ? へば、おめだばお母さんどご言葉選び下手だなだと思ってあんだな」と母が言った。
男児くんは片手で口元を隠しながら、くすくすと笑っていた。
「まあ、とにかくね。あんたがこれからやろうとしていることは大したものよ。でも、その分だけ危険でもある。天気もある。転倒もある。熊もいるし、蜂もいる。車やトラックだってある。それに――人もね。強盗、殺人犯、痴漢……ろくでもない人間なんていくらでもいる。特に女の人は狙われやすい。だけど、あんたはもう大人だもの。私は止めないし、止めるつもりもない。できることと言ったら、気をつけなさいと言うことと、旅の間ずっと無事を祈ることくらいよ」
「お母さん……」
母の目がきらりと光った。
――あれは涙だったのだろうか。
私は両腕を大きく広げた。抱きしめてもらうつもりで。
そして――
母は私の上着の襟を整えただけだった。
「行きなさい」
母はそう言った。
「うん」
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「ミュートになってるよ」
スピーカーから慶太くんの声がはっきりと聞こえてきた。
私は三分ほど熱心にしゃべり続けていたのだが、未遥ちゃんのクラスのみんなには、ウポポイや国立アイヌ民族博物館についての私の説明は一言も届いていなかったらしい。
「今は聞こえる?」
「はーい!」
子供たちが声を揃えて叫んだ。
館長自らが案内役を務め、展示の基本資料を示しながらアイヌの歴史や文化について説明してくれた。
子供たちが最も興味を示したのは、イオマンテの再現展示だった。ヒグマの子熊を犠牲にするのは残酷だ、と感じた子も少なくなかった。だが館長は、まず子供たちにこう尋ねた。
「みんな、ハンバーガーは好きかな?」
全員が元気よく「好き!」と答える。
「そうだよね。現代の日本の主流文化は、何千頭、何万頭もの牛を食べることを社会の営みの一部として取り込んでいる。イオマンテは、私たちの祖先の残酷さを示すものではないんだ。むしろ、神々や自然に対する深い敬意と結びついた儀礼だった。その敬意は、私たちアイヌが今もなお持ち続けているものです。アイヌの人々は、熊と共存して暮らしていた。けれど近代になると、都市や農地の拡大によって、北海道や本州の熊たちは狩猟や生息地・食料をめぐる競合の影響を受け、その数を大きく減らしてしまったんだ」
館長はそう説明した。
「安東先生、本日はお忙しい中、本当にありがとうございました。みんなも一緒に安東先生にお礼を言いましょう」
未遥ちゃんが言った。
「安東先生、どうもありがとうございました!」
子供たちが声を揃えて叫ぶ。
館長はそれに応えるように、軽く一礼した。
私は館長にも改めて礼を述べ、ほかの業務がある彼を見送った。
それから未遥ちゃんと生徒たちに別れを告げ、通話を終了する。
そのとき、私は気づいた。
ウポポイから三十分も生配信しておきながら、『白金のカムイ』の話を…一度もしなかったのか?
撫子、おめだばおが最低だ。
次の機会は、絶対に逃さない。私はそう心に決めた。
博物館の本館を出た途端、冷たい春風が吹きつけ、私は思わず身を震わせた。
鞄から予備の冬用ジャケットを取り出し、そのまま羽織った。
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「ハロー、みなさん! 撫子……ではなくて……ロザ・グローサー・フリーデンです。『奥の細道』紀行へようこそ!本日のゲスト――というより、私がお邪魔している側ですからホストと言った方がいいでしょうか――は、知里さんです! 本日はお招きいただきありがとうございます、知里先生」
「知里ケンゴです。皆さん、よろしくお願いします」
「まず、ここはどちらでしょう?」
「釧路市の阿寒湖近くにあるポロスマ・コタンです」
「知里先生はこちらにお住まいなんですか?」
「いえ。私はこのコタンで育ちましたが、今は釧路市街地に住んでいます。ただ、毎週末は両親や親戚に会いに戻ってきています」
「それから、そのお召し物は?」
「アイヌの伝統衣装で、アミㇷ゚と呼ばれるものです。アットゥㇱという布で作られていて、オヒョウの樹皮の繊維が原料になっています」
そう言って知里先生は、傍らの木の幹を軽く叩いた。
「そして、知里先生はアットゥㇱやオヒョウを研究されているんですよね?」
「その通りです。オヒョウの商業的活用と、アットゥㇱのより大規模な生産が経済的に成り立つかを研究しています」
「木綿の布の方が安いのでは?」
「そうかもしれません。ただ、アットゥㇱには木綿にはない利点があります。非常に丈夫ですし、オヒョウの繊維は柔軟でありながら強い。それに天然の撥水性があり、同時に通気性も高いんです。課題は性能ではなく、地域の暮らしを損なうことなく、どうやって地域社会の利益につなげていくかという点ですね」
「なるほど……」
「それから、私たちの知識や技術によって作られた製品の品質を疑う人たちの意識を変えることも必要かもしれません。私たちは、つい最近まで公式には認められていなかったのですから」
私はしばらく黙り込んだ。
「フリーデンさん?」
「あっ……先生、どうもありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「それでは皆さん、本日はここまでです! ご視聴ありがとうございました!次の目的地は、『日本で最も美しい村』の一つ、鶴居村です。果たして丹頂を見ることはできるのでしょうか?どうぞお楽しみに!チュッシー!」
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「日美子伯母さま、撫子お姉さまが雀蜂に脚を刺された動画を公開したとき、すごく心配していましたよ」と、豊ちゃんが言った。
「でも、その動画を見て倒れそうになったのは豊の方だったけどね」と、尊叔母さんが暴露した。
「お母さん……」
豊ちゃんは顔を赤くした。
「痛かったでしょう、撫子ちゃん」と、尊叔母さんが言った。
「かなり痛かったよ。でも幸い、鶴居村の人たちは対処法をよく知っていたんだ。農○の人が診療所まで連れて行ってくれて、抗ヒスタミン薬と痛み止めをもらえたから」
「函館にはどれくらいいる予定なんですか、撫子お姉さま?」
「そうだね。フェリー代を稼がなきゃいけないし、青森から山形までの分も少し貯めておきたいから……たぶん二か月くらいはいると思う」
「それでも本当に男鹿には来ないんですか、撫子お姉さま?」
「一応、行く予定はないが……」
「来てくださいよ。いえ、絶対に来るべきです」
「あなたがこちらにも寄ってくれたら、お母さんも喜ぶと思うわよ、撫子ちゃん」
「一緒に日本海花火を見ましょう!」
「えぇっと……何とも言えないな。旅の途中で予定を変更するのって、そんなに簡単じゃないから」
「じゃあ、せめて考えてみるって約束してください」
「うん」
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『京にても、河原撫子 風にぞ戦ぐ』
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2:59 A.M.
ピコン。
ミキ:撫子姉ちゃん、なんでビデオ通話に出なかったの?
私:お願いだから。今、午前三時だよ。寮には他にも人がいるんだから、もう寝なさい。
ミキ:[舌を出してウインクする白ウサギのスタンプ]
3:01
ピコン。
ミキ:もう寝ちゃった? [掛け布団をかぶっていびきをかく白ウサギのスタンプ]
私:寝てた。
ミキ:思い出した。言おうとしてたのはこれ。豊ちん、東大に受かったよ! [大喜びする白ウサギのスタンプ]
私:知ってる。さっき本人と話したから。
ミキ:[目を輝かせて親指を立てる白ウサギのスタンプ]
3:15
ピコン。
ミキ:先輩として、豊ちんの勉強見てあげられるよ。
私:ああ、そうだったね。よろしく頼むよ。だからもう寝なさい。今朝は早起きなんだから。
ミキ:[投げキッスする白ウサギのスタンプ]
3:17
ピコン。
ミキ:おやすみのチューしてくれなかった。 [泣いている白ウサギのスタンプ]
3:37
「ほ、本当に申し訳ありません、オーナーさん。ほかのお客さんにご迷惑をおかけするつもりはなかったんです。スマホの電源を切ろうとして、手が滑って落としてしまって……。いえ、投げたわけじゃありません。本当にです。どうして部屋の反対側まで飛んでいったのかは、その、説明できますから……」
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差出人:ロザ・グローサー・フリーデン(rosa.grosserfrieden@xxxx.ne.jp)
宛先:るるプル編集部(editor@rurupuru.xxx.jp)
件名:『奥の細道』――A Journey into Self
編集ご担当者様
いつもお世話になっております。大和撫子でございます。
日本縦断の旅(前半)の原稿をお送りいたします。
先日お電話にてお伝えしましたとおり、今回は校正・修正作業に十分な時間を確保することが難しい状況です。誠に恐縮ではございますが、校正につきましては編集部の皆様にお任せいたします。
次は播磨へ向かい、大中遺跡で取材を行う予定です。
また、昨夜スマートフォンが故障したため、現在は宿泊先のご厚意によりお借りしているパソコンからご連絡しております。しばらくの間、連絡が取りづらくなる可能性がございます。
取り急ぎのご連絡となりますため、不備等がございましたらご容赦いただけますと幸いです。
お手数をおかけいたしますが、何卒よろしくお願い申し上げます。
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大和撫子
添付ファイル: uruseuchinchi1.xxx
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(つづく)




