第十四話: 東遊記: 温故知新書 【後編】
もしかするとこの物語は、15歳未満の読者にはあまり適していないかもしれません。
無規制の暴言や過激な描写、いわゆる大人向けの内容が含まれているわけではありませんが、テーマが少し……なんと言えばいいでしょうか……重たい、というか、含みのあるものかもしれません。
まあ、とにかく、15歳未満の方はおそらく楽しめないと思います。
(とはいえ、15歳以上であれば必ず楽しめる、という保証もありませんが。
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私の名前は大和撫子、16歳。絶対に小説○になると決意している。
今の私は、たいていの人から見れば、ただの観光客に見えるだろう。あるいは、少し性格の悪い人なら、怠け者だと思うかもしれない。
だが、そのどちらでもないと断言できる。
……いや、観光客のほうは多少は当てはまるかもしれない。
しかし怠け者ではない。少なくとも、そこまでではない。
誓って言うが、私は真面目な作業の真っ最中だった。
あの女の子たちが、いきなり現れるまでは。
――いや、正確に言えば。
あの大量の私達……私方……私共……私等……複数の私がいたのだ。
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「すみませんが、君……じゃなくて、十六歳の私。その子――いや、五歳の私のために、席を譲っていただけませんか?」三十一歳の私が言った。
「今、私は重要作業の真っ最中なんだけど……」
「のけぇ〜!」
十四歳の私が叫びつつ、十六歳の私をビーチチェアから引きずり下ろした。
三十一歳の私は、眠ったままの五歳の私をその椅子に寝かせると、日陰になるようパラソルを寄せた。
そのとたん、賢子ちゃんが来た。どうやら海で泳いでいたらしく、全身から水滴がぽたぽたと落ちている。
「ねえ、撫子。『体験』はもう終わったの?」
そう言いながら、「体験」だけ指で引用符を作った。
十六歳の私が答える前に、賢子ちゃんはビーチチェアへ腰を下ろし――ほぼ寝転ぶように身体を投げた。
その下には、眠ったままの五歳の私がいるというのに。
「はぁ〜、もうへとへと! シュノーケリングって本当に疲れるねぇ。ほあぁ〜……」
大きな欠伸をしつつ、彼女は手足を伸ばす。
すると、賢子ちゃんの両脚の間から、五歳の私の脚がにょきりと出た。
十四歳の私は、その足首を掴み、ずるずると引き出し始めた。
なんというか――まるで助産のようだった。
「どうして私たちは物にも触れられるし、お互いにも干渉できるのに、別の時間の人たちには干渉できないんだろう?」
十四歳の私が尋ねた。
「さあ……」
三十一歳の私の返答はそれだけ。
そのときだった。
賢子ちゃんが椅子から跳ね上がる。
「ほら、バス来たよ! もう待てないって。早くホテル戻って昼にしようよ。腹ペコなんだから」
そう言ってから思い出したように続けた。
「しかも聞いた話だと、今回のメインは石垣和牛シャトーブリアンなんだって!」
「和牛ぅぅぅぅっ!!」
五歳の私が叫びながら飛び起きた。
目はかっと見開かれ、口端から涎が垂れている。
あまりに突然の覚醒で、五歳の私を抱えていた十四歳の私が驚き、危うく取り落としそうになった。
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だが、和牛はなかった。
――いや、正確にはあった。ただし別料金だった。
一人一万二千円、税込み一万三千二百円。
つまり、なかった。
もっとも、基本の食事も十分すぎるほど立派だった。いや正直、とても美味しかった。ラフテーにゴーヤーチャンプルー、沖縄そば、フーチバージューシー、海ぶどう、ゆし豆腐、雪塩。それらの定食だった。
そして、その昼食で満腹になったほとんどの人々が、それを見た。
沈黙のまま。
圧倒されながら。
震えながら。
北海道や関東の一部、そして……
福島。宮城。岩手。青森。
テレビ各局の生中継が、その惨状を映し出していた。
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私は父上の通夜には、どうにか滑り込むことができた。
賢子ちゃんも同様だった。
領斎さんの通夜には、ぎりぎり間に合った。
旅行の予定を切り上げ、航空券を変更できたのは本当に間一髪だった。
「お母さんのお葬式に出られなくて、ごめんね」
私はそう言うと、賢子ちゃんに抱きしめられた。
私と男児くんが東京のアパートを出て、空港へ向かおうとしていたときだった。
「そっちこそ……お父さんのお葬式に出られなくて、ごめん……」
賢子ちゃんはすすり泣きながら答えた。
涙が肩にぽたぽたと落ちるのが分かった。
二人の遺体は、宮古の瓦礫から発見された。
浄土ヶ浜近くのホテルに宿泊していた記録も残っている。
同じ部屋に。
ダブルルームだった。
空港へ向かうバスは、普段の倍ほど時間がかかった。
道路はいつも以上に渋滞していた。
男児くんがトイレへ行っている間だった。
一人の恰幅の良い男が近づいてきた。
年は取っていた。だが、皺と薄い頭髪、それに白い顎鬚を除けば、顔そのものはそれほど変わっていない。
マタイ・ペルリだった。
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今、私は父の墓の前に立っている。
男鹿へ戻るのは、東京へ出て以来初めてだった。
父は正月も盆もGWも、私の帰省を許さなかった。
長期休暇中は予備校やバイトがあり、それ以外の時期も同様だった。
もっとも父自身も大半を職場で過ごしていた。
それでも帰るたび、必ず私に仕事を与えた。
書類や申請の整理。
担当作○の原稿校正。
締切前で缶詰の作○たちが集中できるよう、その子供の世話。
そんなことばかりだった。
男児くんですら、実○へ戻る機会は滅多になかった。
灰色の御影石の墓には、
――大和剛流
と刻まれている。
ペルリ氏の言葉が脳裏に蘇る。
――『覚えてるか分からんが、昔俺は君の父の友人だった』
墓周りの雑草を抜く。
――『君たち一○が長年、経済的苦境にあったのは知っている。そして彼の死でさらに悪化する。だから提案は今も有効だ』
花立には梅の枝を供える。
――『ふむ、断るか。では別案だ。君の父の真実を教えよう。何をしていたか、何を隠していたか。証拠もある。ただし無料ではないがね』
水鉢へ水を注ぐ。
――『では成立だな。ほら、この書類を見ろ』
香炉へ線香を立てる。
――『見れば分かる通り、君の父は諜報に関与していた。何十年も前、男鹿へゴムボートで上陸した北朝鮮工作員を匿っていた』
立ち上がり目を閉じ合掌する。
――『彼と工作員は宮古を拠点に大熊への破壊工作を進めていた』
長く黙る。
――『だから取引に応じてもいい。この情報が出れば一○の名誉は傷つく。あるいは父が○族にしてきたことへの怒りでもいい』
さらに長く黙る。
――『あなたの居場所を突き止めるには、少々手間を取らされました。学校の名簿で○名の読みまで変えていたとは――お父上はなかなか用心深かったようですね。……さすがはスパイだ。』
私は黙っていた。
そして――墓に唾を吐いた。
母上は、なぜそうしたか理解していた。
理解できないはずがなかった。
それなのに。
よりにもよって母上が。
私の頬を平手で打った。
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母上は、四十九日の法要が終わるまで私を引き留めた。
その間、私は尊叔母上――豊ちゃんの母の○で過ごしていた。
「撫子ちゃん、大ごとになっちゃったのねえ」
幼い豊ちゃんを抱いて遊んでいると、叔母上が言った。
叱るというより、心配する口調だった。
「頬は?」
「もう腫れは引きました」
「痛む?」
「いえ、別に……いたっ」
豊ちゃんが、母上に叩かれた場所へ指を押し当てた。
「あぁ、だめだよ、豊!撫子ちゃん、ごめんね?」
叔母上はそう言い、赤ん坊を私の腕から取った。
すると豊ちゃんは泣き出し、こちらへ両腕を伸ばした。
叔母上は少し黙り、
「ごめんね……でも」
と言いたげに私を見た。
私は両腕を伸ばし、小さないとこを受け取った。
すると豊ちゃんは、さっきまでの泣きが嘘のように静かになった。
「豊、慣れちゃだめよ。お姉さん、もうすぐ東京へ戻るから」
「お母さんのお世話を嫌がったら傷つくでしょう?」
一応、私はそうフォローした。
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男鹿にいる間も勉強は続けていた。
だから、学校へ戻ってから授業に追いつくこと自体は、それほど難しくないはずだった。
――本来なら。
だが、どうにも勉強に集中できなかった。
男児くんは母上と一緒に男鹿に残った。
向こうで中学を卒業する予定だったのだ。
こんこん。
「撫子ちゃん、ご飯できたよ」
ドア越しに賢子の声。
「うん」
私はそれだけ返した。
「今日も遅いなら、冷蔵庫に分けておくね」
「うん」
「レンジの1ボタン壊れてるから、温めるときは59秒で」
「うん」
しばし沈黙。
そして。
「……大好き」
「うん」
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ウェストミンスター・チャイムが、その日の授業の終わりを告げた。
私は半ば機械的に、入学以来の新聞部へ向かっていた。
「撫子ちゃん」
背後から声がした。
私はそのまま歩き続ける。
「撫子! 撫子!」
無視した。
「大和さん!」
賢子ちゃんが叫び、私の肩を掴んだ。
私は振り返る。無言で彼女を見た。
彼女の瞳に映る自分の目。そこには生気のない空虚な視線があった。
「ど、どうしたの? 私、何かした? 違うなら謝るから……」
私は答えず、再び新聞部へ歩き出す。
すると彼女は言った。
「お父さんのこと、つらいのは分かるよ。私も尊敬してたし」
少し間を置く。
「それに……私も大切な人を亡くしたから……気持ちは分かる……」
言うな。心の中でそう思った。何も言うな。お願いだから。彼女に罪はない。
「何が分かるんだよ?」と気づけば口が動いていた。
「お前の母親は売女だった。あいつが私の○族を壊したんだ! あの朝鮮人が!」
声に出ていた。
なぜだ。全部嘘だ。出自も関係ない。なぜ賢子を傷つけた。友人を。大切な賢子ちゃんを。
筋は何も通っていない。間違っていた。だからこそ、私はそうしたのだ。
廊下の生徒や教師が足を止める。教室の者も扉から見ていた。
十四歳の私は、五歳の私の耳を塞いでいた。
三十一歳の私は、その十四歳の耳を塞いでいた。
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私が見つけた中で、○賃が手頃で空きもあったのは江戸川区のシェアハウスだけだった。別の学校へ転校するのが最善だったのだろうが、手続きにあまりにも時間がかかるため、実現した頃には高校最後の一年がすでに終わっているか、すでに終わりかけているはずだった。
幸いにも、その頃の日本はちょうど韓流ブームの真っただ中だった。だからこそ、賢子の学校生活への影響の大半は比較的穏やかなものだった。少々鬱陶しくはあっても、善意と親しみから来る妙な韓国フェティシズム程度で済んでいたのだ。
もちろん、嫌な思いをまったくしなかったわけではない。主に、古い偏見を引きずった一部の教師や保護者たちからだ。それでも、もう一つだけ、より深刻な悪影響があった。もっとも、それは間接的なものだったが。
それは彼女の出自そのものが原因だったわけではない。
賢子はもともとクラス内ではそれなりに人気者だった。だが、韓国系という背景が加わったことで、その知名度は学校全体にまで広がった。そして、それが嫉妬を呼び寄せた。
「私の彼氏に近づかないで!」
「ちょっと成功したくらいで調子に乗らないで。」
「死ね。」
そんな匿名メッセージが、彼女のSNSのコメント欄に書き込まれるようになった。
なぜ否定的な言葉のほうが肯定的な言葉よりも強く心に残るのか――その理由については、心理学的な説明が実に数多く存在するらしい。
人間を含む動物の脳は、危険や害をもたらす刺激を優先的に処理するようにできているのだ、と語る者もいる。生き延びるためには、そのほうが都合が良かったからだ。
そして人によっては、その情報処理の偏りが正のフィードバックによって増幅され、やがて被害妄想や抑うつ、自責といった状態へ行き着いてしまうことがあるらしい。あるいは、そのすべてが同時に襲ってくることも。
私は最悪の形で知ることになった。
賢子が、まさにそういう「人によっては」の一人だったのだと。
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「おひさ。ご覧のとおり、今度は私が『体験』をする番です」
私がカーテンで仕切られた彼女の病室スペースの入口に姿を見せると、賢子はただ静かな口調でそう言った。
「廊下の自販機で何か買ってきますね」
ベッド脇に座っていた老婦人――彼女の祖母が立ち上がる。
「おばあちゃん、ジュースお願い」
賢子がそう言うと、老婦人は小さくうなずいて仕切りの外へ出ていった。
私はずっと自分の靴のつま先を見つめていた。
「大丈夫?」
賢子が優しい声で尋ねる。
「うん」
「心配しなくていいよ。私はあなたを責めてないから」
「うん」
「嘘だよ。本当は全部あなたのせいだと思ってる。全部、あなたを恨んでる。――そう言ってほしかった?」
同じ穏やかな口調のまま、彼女は言った。
「うん」
「私がトラックの前に飛び出して、自殺しようとしたと思ってる?」
私は答えなかった。
「してない。そんなこと、絶対にしない。でもね――死ねばよかったのに、って思ったのは本当」
私は震えた。
「……なんていうのも嘘。そんなこと、思うわけないじゃない。生き残れてよかったって思ってる」
彼女はそこで一度言葉を切った。
「だって、あなたに言えるから。『帰って。もう二度と私の前に現れないで』って。――そう言ってほしかった?」
「うん」
私はそう答えた。
「あなたの分のジュースも買ってきましたよ」
賢子の祖母が戻ってきたのは、ちょうど私が立ち去ろうとしていた瞬間だった。
私は彼女にうなずき返し、そのまま足早に立ち去った。
賢子は――比較的には――無事だった。だが、私の友人だった賢子ちゃんは死んだ。そして、その殺人犯は私だった。
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「その成績だと、東大は厳しいな……。もしあの文学コンクールで優勝していたのなら、その一等賞の賞状が少しは役に立ったかもしれないな……。日本大学あたりはどうだ? 十分に名の知れた大学だぞ」
進路指導主事がそう言った。
「学費が高すぎて無理です……。アルバイト代で払わないといけないので……」
「なるほど……。だが、奨学金を申請する手もあるし、教育ローンという選択肢もある」
「奨学金は確実ではありません。教育ローンは支払いを先送りにするだけですし、その間に元本に利息も積み上がります」
「それでも――」
「大丈夫です。まだ模試ですから。少し問題があっただけで、本番までには成績を上げます」
「よっ!」
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新聞部の活動で、学校に遅くまで残ることになった。
文化祭の期間中は部室への立ち入りが制限されるため、取材に使う機材を事前に持ち帰っておく必要があったのだ。
私はもう少しでシェアハウスに着くところだった。角を曲がった瞬間、何か硬いものにぶつかり、そのまま尻もちをついた。
顔を上げると――そこにいたのは、あいつだった。
「おっと。大丈夫かい、お嬢さん? ――いや、愛しの婚約者殿、と言うべきかな?」と、ペルリが言った。
「婚約者?違うだな。約束の条件は、父のことを本当のことも含めて話すことだったはずよ……スパイだって? まったく……私がそんなものに憧れるオタクや中二病患者だとでも思っているのか?妨害工作の任務中に、本名を名乗るスパイがいると思うんですか?あなたが、あの書類を全部偽造したんですね」
「ああ、バレたか、かわいい蝶よ?少しばかり金はかかったが。まあ、別に構わないさ。とにかく、従わせる方法なんて他にもある」
「例えば? ○族や友達を脅すとか?」
「なるほど、それで領斎さんのアパートを出たのか? 賢子と喧嘩でもした?」
その汚らわしい口で賢子の名前を口にした瞬間、私は全力で拳を叩き込む衝動を抑え込んだ。
「それで、自分の父親の葬式ではあんなに情けない振る舞いをしたわけか? ○族に見放されるために? だが意味はない。君は必要な後継者なんだからな……」
「何の後継者よ? うちには古びた○くらいしか残ってない。大した価値なんてないわ」
「いやいや。君の○には、まだ相当な広さの土地が残っている」
「借金の担保になってる土地よ」
「だから言っただろう? その借金なら私が払える」
「借金は払えても、土地そのものは絶対にあなたのものにならない」
「私の妻のものにはなる」
私は吹き出しそうになった。どうにか笑いを堪えたものの、それだけで彼には何かがおかしいと伝わったらしい。
「何を企んでいる?」
「たとえ無理やり私と結婚したとしても――」
その言葉を口にしただけで吐き気が込み上げた。私は深く息を吸い、それから続けた。
「私は相続権を放棄したわ」
ペルリは黙り込んだ。
「娘に本気で腹を立てている母親なら、反対なんてしないでしょうね。しかも、自分の父親の葬儀を冒涜した娘だと、近しい親族が大勢証言してくれる。そんな状況なら、裁判所だって相続放棄を認める方向に傾くはずよ」
彼は拳を握り締めた。
「おや、殴るつもり? 法律には詳しくないけれど、大人が未成年に暴力を振るうのは、日本ではかなり重い犯罪だったはずよ」
彼は一歩前へ出る。
「私が大声を上げれば、目撃者が現れる前に逃げ切れるなんて思わないことね。――まあ、別に叫ぶ必要もないんだけど」
彼の視線が、私の学校鞄から覗くカメラへ向けられた。
「ああ、そのカメラを奪っても無駄よ。今、YouTubeでライブ配信中だから」
彼はしばらく私を睨みつけていたが、やがてゆっくりと踵を返した。
そして、そのまま二度と私の前に現れることはなかった。
彼の姿が見えなくなった瞬間。震え続けていた私の脚は、とうとう限界を迎えた。その場に崩れ落ちる。
「よく頑張ったね」
床に膝をついた十六歳の私へ、三十一歳の私がそう言った。
「えぇ? あのカメラ、本当に配信してたの?」
十四歳の私が十六歳の私へ問いかける。
「まさか。そんなカメラあるわけないじゃない。配信するにはインターネットに接続されたパソコンが必要だし、あるいは衛星回線につないだ業務用機材でもなければ無理。でも――」
十六歳の私はカメラを見た。
「記録だけは、ちゃんと残ってる」
五歳の私は、おんぶ紐に包まれてすやすやと眠っていた。
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「いい? 文化祭の来場者を撮影した動画をYouTubeにアップロードしちゃだめだからね。許可を取ってないんだから」
新聞部の部長は、もう八回目になるそのセリフを口にした。
「はいはい」と、私は適当に返事をした。
少し前に、PTAの会議を撮影した動画が匿名のサイトに掲載され、その件で何人かの保護者が教育委員会へ苦情を申し立てていた。韓国系の生徒についての発言の中には、公にされれば問題になるようなものも確かに含まれていた。
もっとも、不思議なことに、その発言が実際に会議の場で飛び出したときには、同じような騒ぎにはならなかったらしいのだが。
賢子ちゃんは、もうここにはいない。祖母と一緒に韓国へ移り住んでしまった。
「何、その暗い顔。そんな顔で取材できるわけ?」と、部長が言った。
「お葬式の取材ならともかくね」
「でも部長、どうして私がこの喫茶店のメイド服で取材しなきゃならないんですか?」
「そのほうが周囲に溶け込みやすいでしょう?」
部長は肩をすくめた。
「それに――」
そう言うと、彼女は片目をつぶり、投げキッスをひとつ寄越す。
「その制服、すっごくかわいいんだから」
校舎の外の喧騒をひと通り撮り終えた私は、今度は校内の様子も押さえておこうと、校舎の中へ足を踏み入れた。
「ねえねえ、大和せんぱい、ちょっと手伝ってくれませんか? うちの垂れ幕、破れちゃって。今、新しいのを作ってるんです。せんぱい、書道すごく上手だから、この紙に企画名を書いてもらえません?」
――せんぱい、か。いい響き……。
すると、かつて私が賢子ちゃんに暴言を吐いた場面を目撃していた生徒の一人が、私に話しかけていた女子生徒の腕を引いた。
「ごめんなさい。この馬鹿が取材中の先輩にちょっかい出しちゃって」
そう言った。
――先輩、か。いい響き……。
「センパイ、少し太られました?」と、一人の生徒がひそひそと囁いた。
――センパイ、か。いい響き……。
「しっ、senpaiに聞こえたらどうするの?」
――senpai、か。いい響き……。
私はカメラだけで記録していたわけではない。むしろ主に、自分の目で記録していた。
図書室の前を通りかかったときだ。扉の下の隙間から、かすかな光が漏れているのが見えた。
中にいたのは――本くんだった。
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私は本棚の間を縫うようにして彼を追いかけ、ついには逃げ場のない場所へ追い詰めた。
「私の言葉、分かる?」
沈黙。
「日本語は話せる?」
沈黙。
「Do you speak English?」
サイレンス。
「Sprichst du Deutsch?」
シュヴァイゲン。
私が本くんを捕まえた、その瞬間だった。
本くんはぱたりと開き、松の繊維でできたページがひとりでにめくれ始めた。
あるページには、こう記されていた。
――行く春や鳥啼き魚の目は涙
そして、そのページから水が流れ出した。
最初は細い流れだった。だが、あっという間に激流となった。濁流は四人の私を巻き込み、そのまま扉の向こうへ押し流した。
しかし、そこはもう学校の中ではなかった。私たちは再び、瀬戸内先生の館の図書ホールへ戻っていた。
やがて水が引く。
本くんは、まるで何かを示すかのように、相談室のほうを向いていた。
私はその部屋へ入った。すると、背後で扉が突然閉まる。
室内には、私以外に誰もいなかった。
五歳の私も。十四歳の私も。十六歳の私も。皆乍……『私乍』いなくなっていた。
私は慌てて扉を開いた。
だが、そこには本くんの姿もなかった。
「瀬戸内先生!」と、呼んでみた。
返事はない。
「メイドさん!」と、もう一度呼んだ。
だが、やはり返事はなかった。
私は廊下を歩き、応接ホールへ向かった。
15 終章
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明るさに目が慣れてくると、客間の中央にテーブルが用意されているのが見えた。そこには例のみんながいて、見た目にも上品な和菓子を食べていた。どれも美味しそうであった。
「え? もう終わったんですか、大和さん?」と、未遥先生が尋ねた。
「何かありましたのか?」豊ちゃんが言った。
「もう? 私はたぶん何時間もあそこに……」私は答えた。
「何を言ってるの。あなた、せいぜい数分しかいなかったわよ」と、ルナちゃんが横から口を挟んだ。
ミキちゃんは何も言わなかった。ただ黙々と、テーブルの和菓子を全力で食べ尽くすことに集中していた。
豊ちゃんがこちらへ来て、首をかしげながらじっと私を見つめた。そのまま彼女は、私の首元へ右手を伸ばし、レースのチョーカーを少しだけ下げた。
「その赤い線の傷……消えてる」
「本当に?」
彼女は小さなコンパクトを取り出して開き、それを私に渡した。鏡を見ると、確かに傷は消えていた。
そこへメイドが現れた。
「あら、こちらにいらしたのですね……追いかけたときには姿が見えなくなっていましたが、どちらへ?」
「わ、私は……瀬戸内先生の相談室にいました……」
「私の相談室?」
「いえ、瀬戸内先生の相談室です……」
「私が瀬戸内ですが」
「その、瀬戸内鶴子さんの相談室という意味です」
「どうやって入ったのですか? 祖母の相談室には鍵がかかっていたはずですが」
「あ……」
「これはメイドと一度話をしないといけませんね!」
「えっと……その……あなたがそのメイドなのでは?」
「は? 違います! ああ、この格好のせいでそう思ったのですか?」
「なんでメイド服なんですか」
「趣味です」
「趣味?」
「そして仕事です」
「なるほど……つまり、あなたは瀬戸内鶴子さんのお孫さん……ということですか」
「はい。私の祖母は十五年前に亡くなっています」
私はしばらく考え込んだ。
「何か問題でも?」と、メイド……いや、瀬戸内先生が尋ねてきた。
そのとき私はようやく思い出した。
高校生の頃、その訃報をニュースで見たことがある。確か、著名な精神分析○だったはずだ。フロイトの初期の弟子の一人に師事していたとも言われていた。
「ところで、あの部屋を先生も相談室として使っているんですか?」と、私は話を続けた。
「もちろん違いますよ。あの部屋は、おばあちゃんへの追悼と敬意を込めた小さな資料館みたいなものとして残してあるんです。レカミエとミシン、心理学の資格証とファッションモデルのポスター、患者カルテと顧客の採寸記録――そんなものを一緒に置いたら変でしょう?」
私のきょとんとした顔を見て、彼女は言った。
「もう、忘れたんですか? 私はコスプレ衣装のデザイナーですよ。あなたも、その件で相談に来たんでしょう? お友達から聞いていますよ。取材でもコスプレをするし、お風呂に入るときまでコスプレ姿なんだとか。それに、あなたが普段着ている衣装のほとんどは既製品で、あなた専用に仕立てられたものじゃないそうですね。まあ、今日はもう相談を始める時間はありません。また別の日にしましょう。でも、どうぞ。このささやかなお茶会を楽しんでくださいね」
私は思案するように頭を垂れた。
しばらくしてから顔を上げ、周囲の細部を一つずつ観察した。
完璧に磨かれていたはずの木床に残る小さな傷。豊ちゃんの頬にある、ごく小さな吹き出物。昨晩遅くまで生徒の課題を採点していたらしい未遥先生の、わずかに腫れた目元。木を叩く小啄木鳥の乾いた音。朝早く、ゲーム原作の配信ドラマのローンチ記念パーティーに間に合わせるため慌てて履いたらしい、ルナちゃんの左右で柄の違う靴下。客間のステンドグラスを通して差し込む、やわらかい秋の朝の光。メイド服の――あるいは瀬戸内先生の――絶え間なくリボンをいじる仕草。淹れたてのダージリンティーの甘く温かな香り。そしてもちろん、ミキちゃんが和菓子を止まることなく貪り続けている音。
すべて自分の目で記録していた。
すべてを私の一部へと変換すること……いや、私そのものへと。




