第十三話: 東遊記: 温故知新書 【中編】
もしかするとこの物語は、15歳未満の読者にはあまり適していないかもしれません。
無規制の暴言や過激な描写、いわゆる大人向けの内容が含まれているわけではありませんが、テーマが少し……なんと言えばいいでしょうか……重たい、というか、含みのあるものかもしれません。
まあ、とにかく、15歳未満の方はおそらく楽しめないと思います。
(とはいえ、15歳以上であれば必ず楽しめる、という保証もありませんが。
1
---------
その女の子の……いや私の名前は大和撫子、4歳。いずれ○長になる予定です。
私は華道と書道を習っている。
先生方は、私が飲み込みが早いと褒めてくださる。
父上はそれを聞いて誇らしそうにしている。
母上は、あの方たちは私のやる気を損なわないよう気を遣ってくださっているだけだと思っている。
その母上は今、とても幼い弟子でも受け入れてくださる茶道の先生を探しているところだ。
もっとも、今の私は一種の間者である。
――とはいえ、母上によれば、人の話を盗み聞きしたり覗き見したりするのは重大な道徳的過失らしいのだが。
2
---------
襖の隙間から覗くと、ちゃぶ台のこちら側には父上と母上が座っていた。向こう側には、マタイ・ペルリという名の恰幅のいい中年男が座り、その背後には二人の男が控えていた。
「少し狩猟には早すぎる時期ではありませんか、ペルリさん」
父上は、卓上に置かれたライフルを見ながらそう言った。
「ああ、北海道へ向かう途中でな。ちょっと立ち寄って、この話を先に進めておこうと思っただけだ」
「私たちは、その件には興味がありません」
「おいおい……あんたは話の分かる人だと思ってたんだがな。それに、金のことでいろいろ苦労してるのも知ってる」
「あなたには関係のないことです」
「俺はな、あんたを助けてやろうとしてるんだ。米ならいくらでも動かせるし、役人連中にも顔が利く。買い手だって山ほどいる。補助金を切られて借金が膨らんじまったのは運が悪かったな。だからこそ、この話を持ってきたんだ。借金は全部俺が片付けてやる。そうすりゃ――撫子ちゃんの将来を心配する必要もなくなる」
父上は、ばん、とちゃぶ台を叩いて立ち上がろうとした。
だが母上がその腕を掴み、そっと押して再び座らせた。
それを見て、来客の後ろに立っていた二人の男も、握り締めていた拳をゆっくりと下ろし、手を開いた。
「まあ、大和さん。よく考えてみてくれ。俺なら、あんたも身内も金持ちにしてやれる。奥さんのご先祖様がそうだったようにな。――さて、俺はもう行くよ。あの馬鹿どもが俺を置いて鹿狩りを始めちまう前にな」
男はライフルを手に取ると、父上をじっと見据えたまま立ち上がり、他の男たちを連れて去っていった。
父上の両手が小刻みに震え、鼻の穴が大きく開いたり閉じたりしているのが見えた。
3
---------
「撫子、だめだよ。弟に意地悪しちゃ」
祖母はそう言った。
怒っているわけではない。けれど、冗談でもない――そんな声音だった。
その手は、私が狸みたいにしてやろうと思って顔じゅうに塗りたくった墨を、男児くんの顔から丁寧に拭き取っていた。
「ああ、男児の髪をちょきちょき切って、しっぽにしちゃいたかったなあ……」と私は心の中で思った。
「そえだばオガ意地悪だしべ?」と祖母は、いっそう真剣な顔で言った。
そして私は、私を見た。
いや――四歳の私は、その光景を見ている三十一歳の私を見ていた。
「だから言ったでしょう?」
三十一歳の私は、四歳の私にそう言った。
だが四歳の私は、そんな私のことなどまるで気にも留めず、完全に無視した。
男児くんは、とうとう泣き出してしまった。
祖母はそんな弟を抱き上げると、母上に授乳してもらうため、部屋を後にする。
その際、祖母は三十一歳の私の身体を――まるでそこに何も存在しないかのように――すり抜けていった。
四歳の私は、再び半紙へ向かい、草書で字を書き始めた。
――もっとも、それは書道というより、落書きにしか見えなかったのだが。
4
---------
雪見障子の向こうには、父上と、灰色のスーツを着た痩せた男の姿が見えた。
男は父上に一枚の書類を手渡している。
少し離れた場所では、収穫機や田植機、それに小型トラクターがトラックの荷台へ積み込まれていた。
やがてその男は、カタバミ銀行のロゴが入った車に乗り込み、そのまま去っていく。
その直後だった。
ぺちん、と尻を叩かれた。
振り向くと、そこには男児くんがいた。
どうやら玩具のロボット――グレート魔人ガゼットの必殺技「ロケットブロー」の真似をしたらしい。
私が立ち上がると、男児くんは慌てて逃げ出し、屋敷の廊下や部屋を駆け回り、そのまま姿を消した。
「こらぁっ!」
私はそう叫びながら、男児くんを追いかけた。
「攻撃するなら、先に技の名前を叫ばないと」
三十一歳の私はそう言った。
もっとも、向こうに聞こえているはずもないのだが。
「邪魔しないの」
五歳になった私は、少し生意気そうな口調でそう言い返した。
「こっちゃ来い! 拳骨だど!」
障子が閉まるのが見えた。
私は追跡を続けるべく、障子を勢いよく開けた。
そして次の瞬間、何か硬いものにぶつかった。
――ペルリ氏だった。
なぜか、我が○の前に立っていた。
5
---------
父上が怒鳴った。
「娘からその汚い手を離せ!」
背後の二人の男がこちらへ近づこうとしたが、ペルリ氏がわずかに手を動かすと、二人はその場で足を止めた。
「おいおい。転ばないように支えてやっただけじゃないか」
父上は私を引き寄せると、自分の背中へ隠した。
そして、つい先ほど捕まえたばかりの逃亡中の弟を地面へ下ろし、普段にはない厳しい口調で言った。
「二人とも、母さんのところへ行きなさい」
私は障子を閉めると、弟のお尻を軽く叩いて母上のところへ向かわせた。
もっとも、私自身はその場に残り、障子越しに父上とペルリ氏の会話に耳を澄ませた。
「大潟村の土地を手放すことになったそうじゃないか。どれほどつらかったか、想像に難くない。しかも農機具や設備のほとんどまで失った。――それでも、俺の提案はまだ有効だ」
「黙れ、この外道が!」
「おいおい。助けようとしている相手に対する口の利き方じゃないだろう」
「もう何度も言ったはずだ。出て行け。そして二度と来るな!」
「つまり、今度は奥さんの土地まで、お前さんの親父さんの工場と同じ目に遭わせるつもりか。よく考えろ。俺はお前さんに残された最後の希望だぞ。――また来るさ。そのうち奥さんが、お前さんに少しは分別を教えてくれるかもしれんしな。行くぞ」
砂利道を遠ざかっていく足音が聞こえた。
続いて、車のドアが開いて閉まる音。
エンジンの唸りが一度大きくなる。
「そういえば――もう数十年も前に脇本海岸からゴムボートで逃げた人物が誰だったのか、警察も興味を持つかもしれんな」
そして再び、エンジン音は遠ざかっていった。
その後には、長い沈黙だけが残る。
私に見えたのは、障子紙に影絵のように映る父上の影だけだった。
その輪郭は、かすかに震えていた。
6
---------
寒かった。
とはいえ、同じ季節の男鹿ほどではない。
その代わり、人の数は男鹿の初詣など比べものにならないほど多かった。
遠くには、上へ行くほど細くなっていく巨大な塔がそびえ立ち、鮮やかな赤と黄色の光に照らされている。
私は父上の肩車の上で身体のバランスを取りながら、父上の手の片方を握っていた。
一方の男児くんはというと、領斎さんにおんぶされたまま、周囲の喧騒などどこ吹く風でぐっすり眠っている。
誰もが透明な風船を手にし、新年へのカウントダウンを映し出す電光掲示板へ視線を向けていた。
「なな、ろく、ご、よん、さん、に……」
そして――
梵鐘の音が響き渡ると同時に、大きな歓声が上がった。
無数の風船が一斉に手を離れ、夜空へと舞い上がっていく。
「ほ〜ら! 撫子ちゃんも放すの!」
父上はそう言いながら、風船の紐をしっかり握り締めたままの私の手を、やさしく開こうとした。
増上寺の正面に設置された表示板が、「2001」へと切り替わった。
それは、私と男児くんにとって初めて男鹿の外で迎える正月だった。
同時に、初めての東京での正月でもあった。母上と離れて迎える、初めての正月でもあった。
そして、その場にいた誰にとっても新しい千年紀の最初の正月――
……もっとも、一九九九年から二〇〇〇年への年越しも存分に楽しんだ人たちにとっては、二度目ということになるのだろうが。
そして、ようやく私の風船も飛んでいった。
他の風船たちは、すでにそれぞれの方向へ散ってしまっている。
私の風船はというと、少し頼りなげに左右へふらふらと揺れながら――
それでも確かに、空へ向かって昇っていった。
7
---------
小学校の初登校の日には、桜はもうほとんど散ってしまっていた。
東京の桜は、男鹿よりも少し早く咲くらしい。
私は領斎さんの娘である賢子ちゃんと一緒に登校していた。
今では父上と男児くんとともに、領斎さんのアパートで暮らしている。
先頭を歩いているのは賢子ちゃんだ。
どうやら学校までの道をよく知っているらしい。
「新しい学校ね、去年まで通っていた幼稚園の近くなんだよ」
そう言った。
ランドセルはとても重かった。
教科書にノート、魔法瓶まで詰め込まれていて、まるで米俵でも背負っているような気分であった。
「遠いの?」
私は尋ねた。
「うん。歩いて一時間半くらいかな」
と、賢子ちゃんは答えた。
「えっ? そんなに近いの?」私がそう言うと、
賢子ちゃんは、まるで私がこの世で一番面白い冗談でも口にしたかのような顔でこちらを見た。
8
---------
賢子ちゃんはうつむいたまま座っていた。
領斎さんが、試験の成績について説教している最中だったのである。
「どうして撫子ちゃんみたいに、もう少し勉強できないの? 作文も現代国語も百点だったのに」
「でも、この子、数学は二十七点だったよ」と、賢子ちゃんがそう言った。
私は肘で彼女の脇を小突いた。
「それで、あなたは何点だったの?」
領斎さんは娘に尋ねた。
賢子ちゃんは黙り込んだ。
「十五点」
私が代わりに答えた。
今度は賢子ちゃんが肘で私を小突く番だった。
「まあいいわ。部屋へ行って勉強しなさい。宿題が終わるまでテレビは禁止です」
私は賢子ちゃんを見て笑った。
すると領斎さんは、今度はこちらへ顔を向ける。
「撫子ちゃんもですよ。もっと数学を勉強しないと。お父さんから、働いている間はあなたたちのことを頼まれているんですから」
それを見ていた男児くんが、私と賢子ちゃんを指差して笑った。
「そういうことしちゃいけません。良い子のすることじゃないでしょう?」
領斎さんがたしなめる。
すると男児くんは言った。
「おばさんは僕のお母さんじゃないもん」
「あら、その通りね。私はあなたのお母さんじゃないわ。でも、お父さんからあなたのことも任されているの。それに、お母さんやお父さんなら、そういう意地の悪いことをしたらきちんと反省するよう教えるはずでしょう?」
男児くんは黙り込んだ。
「それに、悪い子にはゲームはできませんって知っているでしょう?」
「ごめんなさい」
男児くんは素直に謝った。
「よし、いい子ね」
そう言うと、領斎さんは立ち上がり、夕食の支度へ向かった。
「私も手伝いますよ、領斎さん」
私はそう言った。
「あら、気にしなくていいのよ。撫子ちゃんも部屋へ行って勉強していなさい。ご飯ができたら呼びますから」
そう言って、領斎さんは台所へと消えていった。
9
---------
「――よし、できた!」
そう言ったのは、私のネクタイの位置を整え終えた領斎さんだった。
「ほら、男児くん。二人とも新しい中学校の制服、よく似合っていて可愛いでしょう?」
制服はどちらもお下がりだった。
けれど、領斎さんの裁縫の腕前のおかげで、新品同然に見える。
「だせぇ〜」
弟は即座にそう言った。
「そんなこと、お姉ちゃんたちに言うものじゃありません」
領斎さんがたしなめる。
「ちょっと、お母さん。今の、私も馬鹿にされたんだけど」
賢子ちゃんが不満そうに抗議した。
私は弟の頭へ軽く手刀を落とした。
すると、弟はたちまち泣き出してしまう。
領斎さんはしゃがみ込み、弟を抱き寄せた。
慰めるのと叱るのを同時にこなしているあたり、さすがである。
「よしよし。泣かないで、泣かないで。悪いことを言うと、悪いことが返ってくるのよ」
そう言いながら頭を撫でる。
そして今度は私のほうを見た。
「それに、お姉ちゃんは弟をいじめないの。もう少し大人にならないとね」
私は素直に頭を下げた。
「撫子、行こう」
なぜか知らないが、彼女は昔から私のことを「撫子」と呼んでいた。
そう言った賢子ちゃんは、私の頭を掴むと、そのまま○の外へ引っ張っていく。
新しい学校へ向かうためだ。
今度の桜は満開だった。
やわらかな風が花びらを運び、まるで薄桃色の雪のように降らせている。
10
---------
女子たちは肩で息をしていた。
半ば曲げた膝に両手をつき、上体を前へ倒している。額や頬からは汗がぽたぽたと滴り落ちていた。
「な……なんで……なっちゃんは平気なの? 一五〇〇メートルだよ? ばけものか?」
「らくちん、らくちん」
私は得意げに胸を張った。
「運……動……部……でも……ないのに……ずるいよ……」
もっとも、私がレースに勝ったわけではない。
実際のところ、順位は五位だった。
ただ、ゴールした後も服はほとんど汗で濡れておらず、息継ぎのために言葉を途切れさせることもなく普通に会話していたのは、どうやら私だけだったらしい。
「神社まで九百九十九段の石段どご登るのだば、体力づぐりさちょうどえあんだや」
私はこれ見よがしに胸を張り、ふんすと鼻息を鳴らした。もっとも、その石段を登る途中の大半を父上におんぶしてもらっていたことについては、私は都合よく省略していた。
「なにその変な訛り? うける!」
「え? あっ……これ、男鹿弁だから……」
私はそう答えながら、少し顔を赤くした。
「あっ、そう? 田舎者のくせに、私たちを馬鹿にしてるわけ?」
「ち……違うの」と答えた。
だが、彼女たちは私の話など聞こうともしなかった。
11
---------
「もう帰るの?」
賢子ちゃんがそう尋ねた。
「うん……。特にやることもないし、領斎さんの夕飯の支度でも手伝おうかなって」
私はそう答えた。
「文芸部は?」
「うっ……。いや、あれはもう文芸部というより、お喋り部だから……。今や雑話部だよ。だから、あそこにいても特にやることがないというか……」
「まるで噂話やゴシップが好きじゃないみたいな言い方だね」
私は顔を赤くした。
「変なこと言わないでよ。私はただ……ただ、情報はちゃんと集めておいたほうが大事だと思ってるだけ」
「へえ、そうなんだ?」
賢子ちゃんは面白そうに言った。
「とにかく。今流れている噂は、あんまり気分のいい話じゃないんだ。学校に在日がいるとかいないとか、そんな話で……」
賢子ちゃんは目を丸くした。
「えっ? 在日がいるの? それは確かに嫌な話だねぇ?」
「もちろん、そういう意味じゃないよ。在日がいるかいないかなんてことで、みんなが大騒ぎしているのが気持ち悪いって話。まるで宇宙人か何かみたいじゃない」
私は肩をすくめる。
「まあ、本当に宇宙人だったら、それはそれで面白いけど」
少し間を置いてから続けた。
「そもそも、学校にいる在日の子たちだって、その大半――というか、たぶんほとんど全員が日本生まれの日本育ちなわけだし……」
賢子ちゃんの目が潤んだように見えた。
「どうしたの? 大丈夫?」
私はそう尋ねた。
「ああ、うん。ちょっと目にゴミが入っただけ」
そう答えると、彼女はいつもの調子で続けた。
「それじゃあ、また後でね。学級委員としてやることがいっぱいあるから」
「まさか、あんな怠け者が学級委員になるなんてね」
私はそう言いながら、軽く肘で彼女の脇をつついた。
「うるさい! ほら、さっさと帰れ!」
賢子ちゃんは私を指差した。
「それと、ご飯に勝手にグリーンピースを混ぜるのやめて! 好きなら自分のお皿だけに入れなさい!」
「健康にいいし。それに美味しいよ?」
「この馬鹿! また数学で赤点取ったって、お母さんに言いつけるからね!」
そう叫ぶ声を背中に聞きながら、私は校門へ向かって駆け出した。
道すがら、紫陽花と白粉花が咲き誇っていた。
その上には、どこまでも深い青空が広がっている。
12
---------
私は玄関で靴の向きを揃えていた。
すると、台所のほうから領斎さんの声が聞こえてきた。どうやら、その日は彼女もいつもより早く帰宅していたらしい。
「ただ……いま」と、私は居間の入り口近くの廊下で、小さな声で言った。
だが、領斎さんには聞こえなかったらしい。
携帯で誰かと話していたのだ。
「だったら、女王蜂が花のところへ来ないなら、花のほうを巣へ運べばいいだけの話でしょう?」
領斎さんはそう言った。
通話の向こう側の声までは聞こえない。
「なるほど……。まだ熊がその辺りをうろついているかもしれないのね……」
それから彼女は、少なくとも暗号表には載っていなさそうなことを口にした。
「私も愛しているわ。元気でいて。くれぐれも気をつけてね」
領斎さんが折りたたみ携帯を閉じると、私は慌てて玄関へ引き返した。
「ただいま!」と、私はそこから大きな声で言った。
すると、領斎さんが台所から出てきた。
「あらまあ〜、珍しいこと」
「えっと、今日は部活がなかったから、早めに帰ってきて○事を手伝おうかなって……」
「それも珍しいわね……でも、玄関から大声で挨拶するなんて、もっと珍しいわ。いつもなら真っ先に私のところへ来るでしょう?」
「えっと、そうなの?」
「うん、そうですよ」
「……とにかく、今日は手伝いに来たんです。何か私にできることありませんか? 料理とか」私は答えた。
「夕飯を作るにはまだ少し早いわね。でも、いくつか足りないものがあるの。コンビニまで付き合ってくれる?」
「いいですよ。でも、市場のほうがよくないですか? あっちのほうが安いでしょうし、品揃えも多いですし」
私はそう言いながら、脱いだばかりの靴を再び履いた。
「そうね。でもコンビニのほうが近いの。それに、値段の差もそこまで大きくないし」
領斎さんはそう言いながら、靴箱の前に置かれた靴へ足を入れた。
「新しい靴ですか?」
「あら、そうでもないわよ。買ったのは少し前」
「でも、いつも履いているのとは違いますよね」
「ああ、それはそうね。でも、帰ってくる途中でいつもの靴が壊れちゃったの」
「ああ、それで玄関になかったんですね……」
「えっ……ああ、そういうことね……」
領斎さんは答えた。
そうして二人で買い出しへ向かった。
西へ傾いた夕日が黄金色の空を照らし、晩夏の午後に残るぬくもりをいっそう際立たせていた。
13
---------
二人の女子が私の腕を押さえていた。
その前の階段には、彼女たちのリーダー格らしい少女が腰掛けていた。
煙草をくわえ、足を大きく開いたまま。
「それで、田舎者さん」
彼女は煙を吐きながら言った。
私は、その吐き気を催すような煙草の煙にむせた。
――こんなもので自分の健康をすり減らすほど、私は愚かではあるまい。
そう思った。
「自分は私たちより上だとか思ってるんだって?」
「そんなことないよ」私は答えた。
「じゃあ、私たちが嘘をついてるって言うの!?」
四人目の女子が声を荒らげた。
「えっと……。嘘つきっていうのは、嘘を言う人のことでしょう? あなたたちは、私が自分のほうが偉いと思っているって言った。でも私はそんなことは思っていない。だから、それは嘘で……つまり……」
私がそこまで言いかけたところで、
四人目の女子の拳が私の腹にめり込んだ。
論理の説明を最後まで続ける機会は与えられなかった。
もしこの学校にボクシング部があったなら、私は彼女の入部を真剣に勧めていたと思う。
「少しは手伝ってくれてもいいんじゃない?」
十四歳の私は、三十一歳の私にそう言った。
三十一歳の私は女子たちのリーダーの後ろに座っていた。
その頭をすり抜けて腕を伸ばし、それから肩をすくめる。
「仕方がないか」
「おい、あんたたち! 大和さんを放しなさい!」
賢子ちゃんだった。
「へえ。まさか一人で私たち全員に喧嘩を売るつもり?」
私を押さえていた女子の一人が言った。
「喧嘩? そんな馬鹿なことするわけないでしょ」
賢子ちゃんは肩をすくめた。
「私はただ、大和さんの自由と安全を買い取りに来ただけ」
「買い取るぅ? ふーん。じゃあ三千円ね」
「どちらかというと物々交換かな」
「物々交換ねえ。私たちが欲しがるものを、あんたが持ってるとは思えないけど」
リーダー格の女子が言った。
「あら、じゃあ私の勘違いだったみたいね。てっきり、あなたたちは学校への通報を嫌がると思っていたんだけど」
「通報ぉ? 何をよ。私たちはただ、この子とお話ししていただけじゃない」
「殴りながら?」
「そんなの、あんたの言い分でしょ。私たちの言い分もあるわ」
「私の証言だけじゃないわよ」
賢子ちゃんは携帯電話を軽く持ち上げた。
「この動画もあるから」
女子たちは凍りついた。
やがてリーダーが小さく手で合図をする。
すると私を押さえていた二人が、ゆっくりと手を離した。
そのまま一団は、目立たないように公園を後にしていった。
「たすかったぁ……」私はほっとして言った。
「でも、賢子ちゃんの携帯って動画撮れるって知らなかった」
私は続けた。
「撮れないよ。写真しか撮れない」
賢子ちゃんは平然と答えた。
「え?」
私は目を瞬かせる。
「じゃあ写真を撮ったんだ。写真でも証拠にはなるし」
「いや、写真も撮ってない」
「ちょっと。まさか、はったりだったの?」
私はそう言いながら、肘で彼女の脇を軽くつついた。
「でも助かったでしょ?」
そう言われて、私は立ち止まる。
そして頭を下げた。
「うん。そうだね。ごめん……」
「ごめんってじゃないでしょ?」
私は顔を上げた。
その言葉の意味を考えようとして――
そして。
「うん。ありがとう」
そう言った。
私たちが○に着いた頃には、二人ともずぶ濡れになっていた。
途中で激しい雨が降り出したのである。
突然の豪雨だった。
もっとも、まったく予想外というわけでもない。
天気予報では、関東へ台風が近づいていると伝えられていたのだから。
14
---------
「つ……付き合ってください」彼はそう言った。
九十度近くまで頭を下げる人を見たのは、たぶんあれが初めてだったと思う。
どれほど長い間かは分からない。けれど、その一言を口にするために、彼がずいぶん勇気をかき集めてきたことだけは伝わってきた。
別に嫌な感じの人ではない。
むしろ、彼に好意を持っている女子は二、三人ほどいたはずだ。
残念ながら、その中に私は含まれていなかったのだが。
それに――
少しばかり、タイミングが悪かった。
卒業式の日。
彼はもうすぐ○族と一緒に、別の県の別の町へ引っ越してしまう。
たとえ同情から頷いたとしても、うまくいくとは思えなかった。
私は断った。
だが、彼はなおも食い下がった。
「せめて、これだけでも気持ちの証として受け取ってください」
そう言うと、彼は学ランの第二ボタンを外し、私へ差し出した。
「えっ……。ありがとう」と、私は答えて受け取った。
彼が去っていく。
すると背後から、賢子ちゃんが私の首に腕を回してきた。
その顔には、なんとも言えないにやにやした表情が浮かんでいる。
「へぇ〜。やるじゃないか。もう第二ボタンを一個ゲットとはねぇ」
「その言い方だと、私が『そっちは何個もらったの?』って聞くのを期待してるんでしょう?」私は言った。
だが、賢子ちゃんは私が聞くのを待たなかった。
「四個。第二ボタン、四個もらった」
「ほら、領斎さんだよ」と私は言った。
「それに男児も」
「来てくださってありがとうございます」
私と賢子ちゃんは同時に言った。
「おめでとうございます、お嬢さん方」
領斎さんがそう言った。
「ねえお母さん、お母さん、知ってる? 撫子、告白されたんだよ」
「まあまあ」
領斎さんが声を上げた。
私は賢子ちゃんの脇腹を肘でつついた。
「いたっ!」
「まあ、その相手も何かの罰ゲームにでも負けたんだろ」
男児くんが言った。
私は軽く手刀を落とした。
「いてっ!」
「お父様が、卒業式に出席できなくて本当に申し訳ないとおっしゃっていましたよ」
領斎さんが言った。
「うん、分かってる。また仕事で海外出張なんでしょ……」
「じゃ、そろそろ行きましょうか?」
門の近くまで来たところで、私は足を止めた。
「ごめんなさい。教室に忘れ物をしてきちゃったみたい。先に行っていてください。すぐ追いつきますから」
15
---------
教室へ向かう途中、図書室の前を通りかかったときだった。
扉の下から、妙な光が漏れているのが見えた。
図書室には鍵がかかっていなかった。私は中へ入った。
そして、それを見た。
「本くん!」
本くんが、誰かを頭上に抱え上げていた。
――私だった。
五歳の私。
本くんは本棚の間へ逃げ込み、私はその後を追った。
やがて本くんは閉架書庫へ飛び込む。
私も続いて中へ入った。
だが――
私たちは瀬戸内先生の館の図書ホールへ戻っていた。
本くんは南廊下へ入っていく。
私たちはその後を追った。
廊下の突き当たりの扉を開け、その部屋へ足を踏み入れると――。
本くんの姿もなかった。
いたのは私だけ。
いや、正確には――五歳の私と、十四歳の私と、三十一歳の私だった。
五歳の私は白い砂の上に横たわり、意識を失っていた。
私たちは駆け寄る。
だが、その私の呼吸は規則正しかった。
ただ眠っているだけだった。
周囲を見回す。
淡いターコイズブルーの海から、塩気を含んだ暖かな風が吹いてくる。
東シナ海とフィリピン海の風だった。
背後には低い植生が広がり、砂丘をほとんど覆い尽くしている。
少し離れた場所では、一人の少女がビーチチェアに腰掛け、こちらを見ていた。
それもまた、私だった。
修学旅行中の、十代の私だった。
(つづく)




