96[2-30].娘の祈り 父の答え 母の見守り
小さな足音が、床を急いだ。
通夜の静けさを割るのに、場違いなくらい澄んだ声が飛び込んでくる。
「……パパ! ただいま!! あと……おかえり!!」
マリアだった。
幼い身体が息を切らして駆け寄って、ユーサに抱きついた。
「マリア!? どこにいたの!?」
「あなた……ごめんなさい。シ・エル最天使長が……異次元不動産? の物件? ……っていう、限られた人しか入れない空間で待っていたらしいよ。そこが一番安全だからって。一応、あなたにも内緒にしておいて、ってシ・エル最天使長が……」
ディアが近づいてきて、経緯を淡く説明した。
【異次元不動産:サブリエ】
誰にも干渉されない空間の家。
都市伝説、噂で聞いた程度の話が、現実の避難先として使われている。
その発想に、ユーサは一瞬だけ息を呑む。
「本当にあるんだ。それなら……僕の体をそこに預ければ良かったんじゃ……あいつ……何を企んだんだ」
ユーサは、ここにいないシ・エルの顔を思い浮かべる。
不気味な笑み。余計な含み。
そして、マリアが来た方角の奥で、見覚えのある天使が見えた。ク・エル。
デイ神社の受付と話をしている最中に、マリアがユーサを見つけて駆けつけた。
そんな流れだと、言葉がなくてもユーサは分かった。
そして、ク・エルと目が合ったユーサ。
ク・エルは深々と頭を下げ、マリアの送り迎えの役目を終えて仕事に戻ったのか、そのままデイ神社の関係者と一緒に奥部屋まで案内されて消えていった。
「あのね! パパ! そのおへや、すごかったよ! ……あ」
マリアは通夜の場に似合わない声で話し始め、途中で言葉を止めた。
周りの空気を、幼いなりに察したのだ。
そして、真っ直ぐユーサを見上げた。
マリアは泣いていない。
泣き方を知らないからではない。泣く前に確かめることがある顔だった。
「ねぇ、パパ。ジルさん……かえってくるよね?」
四歳の論理だった。
無垢で、残酷で、正しい。
「だって、パパは、かえってきたよ?」
ユーサの喉が詰まった。胸の奥がきゅっと縮む。
さっきまで胸の奥で渦巻いていたジャンヌへの問いが、今は娘の声になって刺さってくる。
ユーサは膝をつき、マリアの肩に手を置いた。
指先が震えないように。力を入れすぎないように。
「……マリア。パパはね」
言葉を選ぶ猶予は無い。嘘をつけなかった。
だから、口にする。
ディアにもまだ言っていない事実を、マリアに、娘に正直に。
「パパはね。神様に、生き返らせてもらったんだ」
横にいたディアの気配が、ぴくりと揺れた。
目の色が変わる。息が止まる。
「……あなた。それ……本当なの?」
ユーサは一瞬だけ目を伏せた。
今ここで夫婦の話をする余裕はない。
でも、隠してきた話が、娘の前で明かされた。
「……うん。本当だよ」
マリアの目が丸くなる。
「ほんと? どうして?」
ユーサは笑おうとして、うまく笑えず動揺した。
本当の理由は、ユーサ自身も分からない。
それでも、何かを言わなければ、マリアは納得しない。
ユーサは、子どもの目線まで顔を下げた。
「それは……マリアが、良い子にしていたからだと思うよ」
嘘でも、真実でもない。
けれど、今この子の心を守るための答え。
マリアの顔が、ぱっと明るくなる。
疑うという概念がまだ薄い年齢の、まっすぐな信頼。
「ほんと!?」
「うん。パパは、そう思ってる」
次の問いは、予想より速かった。
「じゃあ、ジルさんも……マリアが、いいこにしてたら、いきかえる?」
ユーサは言葉を失った。
曖昧な言葉を発したせいで、続けてまた曖昧な答えを言わなければならない。
胸の奥が痛む。痛むのに、逃げることもできない。
ユーサは困った顔のまま、でも目を逸らさずに言った。
「……ごめん。パパにも、わからない。
でも……そうなると良いね。……だから」
言葉の先を、少しだけ嚙んだ。
それでも言う。
ここで現実を、大人の断言を置けば、マリアはその言葉で世界を作ってしまう。
子供に残酷な真実を渡すよりも、【優しい嘘】で、もう少しだけ純粋なままでいてほしい。
父親のわがまま。
「あとは……神様にお願いしよう。今は……祈ろう」
マリアは一瞬だけ唇を噛んだ。
そして、うん、と小さく頷いた。
「わかった。マリア、いいこにして……おねがいする」
マリアはくるりと向きを変える。
救世主像へ、小さな手を合わせた。
「かみさま。ジルさんも……かえして。
マリア、いいこにする。だから……おねがいします」
必死だった。
世界の仕組みが分からないぶん、祈りだけは全力だった。
その小さな背中を見て、ユーサは息が詰まった。
――「あとは神様にお願いしよう」と言ったのは、自分だ。
なのに。
その背中が、ユーサにだけ突きつけられる。
ーー「神に縋るな。君の……やるべきことを、忘れたのか?」
胸の奥で、別の言葉が蘇った。
ジャンヌの声。
握りしめるように、痛いところへまっすぐ刺してくる声。
――「妻を幸せにするんじゃなかったのか? 娘の成長をもっと間近でみたいと思わないのか?」
――「君は、家族を守りたまえ」
ユーサの中で、忘れかけていたものが、一気に戻った。
七つの【召命】
ディアを守らなければ、娘であるマリアを守らなければ、悪魔に奪われる。
エル教会の闇を暴き。
悪魔王幹部の死の灰と秘宝石を集め。
自分を生き返らせたのはジャンヌとは言えず。
星の勇者を見つけ。
それらをマリアが七歳になるまでに全て完了できなければ、マリアが死ぬ。
そして、全てを終わらせても……。
ーー最後に、自分は死ぬ。
目の前の辛いことばかりで、見失っていた。
それが、今、この娘の背中で思い出した。
自分が死ぬことよりも、娘が死ぬことの方が怖い。
胸の奥が、冷えて、焼けて、震えた。
ユーサは、ゆっくり前へ出た。
マリアの小さな手の上に、自分の手を重ねる。
包むように。支えるように。逃がさないように。
「……きゃっ! パパ! くすぐったいよぉー、きゃきゃ!」
はしゃぐ愛しい声。
その声だけで、涙が出そうになった。
笑いながら、心臓の奥に刺さる。
――神様がいなければ。
この感触は、この時間は、なかった。
マリアの笑い声も、祈る背中も、指の温度も。
――この子の命を守る。
ーーそのためなら、自分の命を【召命】通り、捧げます。
ユーサは、マリアの手に自分の手を重ねたまま、像を見上げた。
縋るためでも、責めるためでもない。
感謝して、決意を置くために。
「……神様。ありがとう。……そして、お願いします」
ーー返事がなくても、自分は急ぐ。【召命】を終わらせる。家族を守る。
そして、この子の未来を……。
ユーサは息を一つ整えた。
左手の【ラーマの指輪】に触れた。
ジャンヌとジルから授かった、何かを確かめるように。
託されたものを、逃げずに受け取るために。
、、、、
ユーサが、そう考えていた時。
ディアは、ユーサの袖に触れようとして……手を止めた。
――「パパはね。神様に、生き返らせてもらったんだ」
その言葉と表情に嘘がないこと。
問いただしたかった。
「何を隠しているの?」
「教えてほしい。何を一人で抱えてるの?」
喉の奥まで出かかった言葉が、今は出すべきではないと判断した。
理由は、目の前にあった。
ユーサの手が、マリアの小さな手を包んでいる。
指先は震えているのに、握り方だけは優しい。
祈りの形をした手のひらが、娘を守る形をしていた。
嘘が下手なユーサは、隠せないところほど、行動が本音になる。
そして。
ユーサが願っているのは、ジルの復活ではない。
きっと、娘と、妻である自分。家族の『なにか』を守ろうとしている。
だから、問い詰められなかった。
問い詰めたら、ユーサの祈りを壊してしまう気がした。
信じて、待って、許す。
ブンに言われた言葉を、今夜も胸の内で繰り返しながら。
ディアは、言葉を飲み込んだまま、ユーサの祈る背中を見守った。




