117[2-51]. へディの過去 《リオンの真実 声の導き》
今回も長いです。 9000字あります。
そこまで話して、ヘディは一度言葉を切った。
病室に、重たい沈黙が落ちる。
「……ちょ、ちょっと、待ってください」
最初に声を絞り出したのは、ユーサだった。
「ディアとヘディさんが、実は王族の血を引いていて……。しかも、お父さんを殺したのは、お父さんの……弟で、その継がれた力を使って、里まで……」
最後まで言い切れず、ユーサは頭を押さえながら喉を詰まらせた。
「……聞いていて頭がいっぱいさね。……しかも、ディアも知らなかった事実がある感じかい?」
ナザが煙管の煙を吹かしながら、ディアを心配そうに見つめる。
ディアも、思い出したのか、強く唇を噛んだまま涙ぐんでいた。
忘れていた幸せの記憶。
自分も知っているはずの過去なのに、兄の口から語られるそれは、まるで別の傷のように胸へ刺さってきた。
「そして……今、ヘディさんが【イッツ・ジ・エンド】を……使えているってことは……」
ユーサは、そこまで言って息を呑む。
シ・エルが、静かに目を細めた。
「……あぁ。そうだよ。良いところに気づいたね、ユーサ」
その先を答えたのはヘディ自身だった。
「……だからこそ、次を話さないといけないな」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
真っ白な世界。
つい先ほどまで、里を呑み込んでいた灼熱の太陽は消えたはずなのに、世界はまだ白く焼け残っていた。
光に灼かれた残滓が、吹雪とも煙ともつかぬ揺らぎとなって宙を漂う。
やがてそれさえ、冬の風に攫われるように薄れていき、露わになったのは――何もない雪原だった。
そこにはもう、吸血鬼の里はなかった。
家々も。
灯りも。
息を寄せ合っていた家族の温もりも。
まるで最初から何もなかったみたいに、ただ白い雪原だけが静かに広がっている。
「は……」
リオンの喉から、震える吐息が漏れた。
それが恐怖ではないことは、その口元を見ればすぐにわかった。
次の瞬間には、その顔に、抑えきれない歓喜が滲んでいたからだ。
「消えた……」
呟きは、やがて笑いに変わる。
「本当に、消えた……っ!」
自らの掌を見る。
そこにはまだ、白橙の残光が脈のように微かに揺れていた。
兄から継いだ、太陽の力。
世界を焼き尽くし、痕跡ごと呑み込む、異常な奇跡。
「少し威力を抑えて、この威力……!」
リオンの声は震えていた。
けれどそれは、怯えではなく、歓喜に打ち震える声だった。
「兄さんから……やっと奪ってやった!!」
笑みが深く歪む。
「同じ血が流れているのに……王家の姓も! 地位も!! 力も!!!
何もかも、兄さんだけのものみたいな顔をして……っ!!」
リオンの笑みが更に深くなる。
「……兄さんは、こんなものをずっと隠し持っていたのか……! 王都すら、国すら……その気になれば一瞬で塵に変えられる……!」
もう、誰も彼を止める者はいない。
王座も。
力も。
世界を支配する資格すら、今や自分の掌の中にあると、そう信じて疑わぬ顔だった。
だが、その直後。
「っ――」
リオンの膝が、不意に折れた。
足元の雪へ片膝をつき、長槍を杖代わりにしてどうにか身体を支える。
呼吸が乱れる。
視界が大きくぶれた。
「く……っ」
左目を押さえる。
押さえずにはいられなかったかのように息が上がる。
そこだけ妙に熱く、けれど同時に、冷たく抜け落ちていくような違和感が走っていた。
「威力を抑えていて、正解だったか……」
歯を食いしばりながら、リオンは呻く。
「まさか、視力を多少失うとは……」
景色が歪む。
白い雪原の輪郭が二重にぶれ、遠近感が狂う。
それでも、致命的ではない。
この程度で済んだのなら、むしろ安い代償だとすらリオンは思えた。
その時、背後の黒が揺れた。
「術の性質に早くも気づくとは、流石だよ、リオン」
静かな声だった。
男か女かも、老人か子どもかもわからない、黒ローブの人影が、音もなく雪原に立っていた。
顔は見えない。
ただ、その声音だけが妙に愉しげだった。
「やはり、君は兄とは違う」
リオンはゆっくりと振り返る。
まだ片目を押さえたまま、口元には薄い笑みを浮かべていた。
「違う、か」
「ああ。兄は、力を持ちながら怯えていた。
抱えきれぬ力を、ただ隠し、ただ拒み、ただ自分の中に閉じ込めていた」
黒ローブの人物は、雪原を一瞥する。
「だが君は違う。
その力を見た瞬間に、どう使えるかを考えた。
どこまで焼けるか、どこまで壊せるか、どこまで届くかをね」
そして、笑いながら口を開く。
「おかげで、教会の失敗作共もちょうどよく破棄できた。
吸血鬼共と戦い、相打ちで全滅――そういう筋書きにしておけばいい。
それだけ、あの里の吸血鬼が強敵だったということになる」
リオンは、わずかに目を細めた。
「当然だろう」
その声音には、もはや兄を失った弟の翳りはほとんど残っていなかった。
「力とは、使うためにある。
王族が背負うべきものならなおさらだ。
兄さんは、最後までその意味を理解していなかった」
黒ローブの人物が、喉の奥で小さく笑った。
「素晴らしい。そうでなくては困る」
風が吹き抜け、焼けた雪の粒がさらさらと流れていく。
何も残っていないように見える雪原を見渡して、リオンはふっと息を吐いた。
「まぁ、これで証拠は消えた。
吸血鬼の里も、異端者狩り共も、悪魔の痕跡も……全部だ」
だが、黒ローブの人物は、そこで小さく首を傾げた。
「……いや。全部ではないかもしれない」
その言葉に、リオンの眉がわずかに動く。
「何?」
「君も見ただろう。最後に、氷と“別の光”が混ざった」
黒ローブの人物は、雪原の一点を見つめていた。
まるで、何もない白の下にまだ何かが埋もれていると知っているかのように。
「【イッツ・ジ・エンド】。氷の神秘術。光の神秘術。
相反する力の衝突……完全に無へ帰したと断ずるには、少し早い」
リオンは鼻で笑った。
「仮に何か残っていたところで、虫の息だろう」
「そうだね」
黒ローブの人物は、あっさりと頷いた。
「だからこそ、試すにはちょうどいい」
その言葉に、リオンはゆっくりと目を細める。
「……試す?」
「研究は、机の上だけでは終わらないんだ。実験は回数が必要なんだよ」
黒ローブの人物は、雪を踏みしめて歩き出した。
白い大地の一角、まだ微かに熱と冷気が鬩ぎ合っているような歪んだ場所へ向かって。
「死に損ないが一匹でも残っているなら、ちょうどいい実験材料になる」
その声音は淡々としていた。
人の生死に触れているとは思えないほど、ただの確認事項のように。
リオンは片目を押さえたまま、その背を見た。
風が吹く。
白い雪が流れる。
その下に、まだかすかな鼓動が埋もれていることなど知らぬまま、世界は静かに冷え込んでいた。
黒ローブの人物が足を止めたのは、焼けた雪の匂いと、凍りついた空気の残滓がまだ消えきっていない場所だった。
何もないように見える。
ただ白い雪が、風に撫でられているだけ。
けれど、その一角だけはどこか不自然だった。
地面が浅く抉れ、雪が吹き溜まるには不自然な形で盛り上がっている。
熱で溶けたはずの雪と、異様な冷気に凍らされた雪が、中途半端に噛み合わず、そのまま押し固められたような痕だった。
「……ここか」
黒ローブの人物が、雪へ向かって片手を差し出す。
指先がわずかに動いただけで、表面の雪がさらりと滑り、下に埋もれていたものを露わにした。
「……っ」
小さく、だが確かに、喉の奥で苦鳴のような音がした。
そこにいたのは、少年だった。
全身が雪と血にまみれ、衣服は焼け焦げ、肌は熱傷と凍傷の両方に蝕まれていた。
片腕は不自然な方向へ折れ、呼吸は浅く、唇は白い。
それでも、かろうじて胸だけが上下していた。
ヘディだった。
意識はほとんどなかった。
ただ、生きていた。
死んだような姿で、まだ。
「まだ生きているのか」
リオンが、呆れと苛立ちの混ざった声で呟く。
その顔には、血の繋がった甥を見つけた者の情はなかった。
むしろ、自分が完璧に消し去ったはずの痕跡が残っていたことへの不快感の方が強いようだった。
「しぶといな、兄さんの息子は」
そう言いながら、リオンは長槍を持つ手をわずかに持ち上げた。
切っ先が、雪の上に転がるヘディの喉元へ向く。
「なら、今ここで終わらせるだけだ」
その声に、迷いはなかった。
この場で刺し殺し、今度こそ全てを消す。
それだけのことだった。
雪の上で、ヘディの瞼がかすかに震えた。
「……なん、で……」
掠れた声だった。
まともに息も続かない。
それでも、喉の奥からどうにか言葉を絞り出す。
「父さんと……あんたは……兄弟で……家族……だったんじゃ……ないのか……」
リオンは切っ先を向けたまま、眉ひとつ動かさず見下ろしている。
「初めて……会った時から……あんたを……警戒してた……」
血に濡れた唇が、かすかに動く。
「けど……あんたの、槍捌きは……憧れるほどに……輝いていた……」
その言葉に、リオンの手がぴたりと止まった。
ヘディは、苦しげに息を継ぐ。
「格好……良かった……。あれほどの……悪魔を……倒せる、実力が……あるのに……」
赤い瞳が、滲む視界の向こうでなおリオンを見上げる。
「どうして……こんなことを……したんだ……」
短い沈黙が落ちた。
風が吹く。
雪が、二人の間を横切っていく。
やがて、リオンの口元がわずかに歪んだ。
「ふっ……」
それは冷笑だけではなかった。
ほんの少しだけ、機嫌を良くしたような、奇妙な笑みだった。
「兄さんと違って、息子は中々見る目があるようだな」
その声音には、かすかな愉悦が混じっていた。
まるで初めて、自分という存在を正しく見た者に出会ったかのように。
リオンは、雪の上で虫の息のヘディを見下ろしたまま、ゆっくりと言った。
「いいだろう。かわいそうな甥に、人の感情を教えてやる」
長槍の切っ先が、なおも喉元へ向けられている。
けれど今すぐ刺し殺すつもりはないように、冷たい刃はそこで止まっていた。
「人というのはな、期待していたものほど、裏切られた時に深く失望するものなんだよ」
ヘディの呼吸が詰まる。
リオンは続けた。
「兄さんは、オレの兄だった。
双子で、同じ血が流れていた。
それなのに、兄さんだけが本家トレゾールの名を継いだ」
その言葉には、静かな毒が滲んでいた。
「オレは分家シイオーへ回された。
王家の名すら持てなかった。
兄さんがレオン・トレゾールなら、オレは最初からリオン・シイオーという存在だ」
ヘディの目がわずかに見開く。
「王家の名も。
地位も。
力も。
最初から兄さんのものだった。
オレはただ、支える側。選ばれなかった側だ」
リオンは、自嘲するように口元を歪めた。
「それでも、オレは兄さんを尊敬していたんだよ」
その一言だけは、ほんの少しだけ本物だった。
「兄さんが王として立つなら、それでもいいと思っていた。
兄さんが選ばれたのなら、せめてその背を支えようと……そう思っていた」
だが、その声が急に冷えた。
「なのに兄さんは、全部を捨てた」
吐き捨てる。
「吸血鬼の女に心を奪われて、王家も、責務も、何もかも放り出した。
オレがどれだけ欲しくても与えられなかったものを、兄さんは自分の意志で捨てたんだよ」
ヘディの唇が震える。
「そんな……ことで……父さんも、母さんも……ディアも……ボク達の里を……」
怒りと苦しみが入り混じった声だった。
「……そんなことで、か」
リオンは鼻で笑う。
「お前はまだ子どもだ。
期待して、信じて、裏切られた人間がどれほど醜く壊れるかを知らない」
ヘディが怒りの表情を浮かべる。
「……勝手に、期待して……勝手に、傷ついただけじゃないか……!」
ヘディは、血を吐くように言い返した。
「それで……こんなこと、して良い筈が……ないだろう……!!」
その瞬間、リオンの目が細くなる。
「残念だが、それを実行していい者がいる」
長槍の切っ先が、ヘディの喉元へさらに近づく。
喉元に冷たい切っ先が触れ、薄く血が滲んだ。
「お前のようにそこで這いつくばっている弱者じゃない」
低く、傲慢に、言い切った。
「力を持った強者だけに、その特権がある」
雪原の静寂の中、その言葉だけが異様に鮮明に響いた。
いつでも殺せるのだと、喉元の痛みが教えてくる。
生きるか死ぬかは、もう自分では決められない。
「悔しければ……お前も力を持つべきだったな」
ヘディは言葉を失った。
怒りで視界が赤く染まる。
けれど、その怒り以上に、自分がどうしようもなく無力だったことだけが胸を抉った。
父も。
母も。
ディアも。
故郷も。
守れなかった。
何ひとつ守れず、ただ雪の上で這っているだけの自分に苛立つヘディ。
「……相手のことを考えないで、……自分のことしか考えてない。……わがままな……子どもは、……どっちなんだよ……!」
雪を握り締め、ヘディは震える声を張り上げた。
「……自分の思い通りにならなかった。……からって……全部を壊していいわけないだろ……!!」
「……ふ。そうだな。そういうところは、兄さんそっくりだよ。
カエルの子は、結局カエルにしかならない――まさにその通りだ。……ただ」
リオンが、槍先に力を入れる。それでも、ヘディは睨み続けた。
「その未来を見ることはないだろうがな」
その槍先が落ちるより先に、黒ローブの人物が静かに言った。
「リオン。君が手を汚す必要はない」
リオンの動きが止まる。
「……何?」
「それが、強者という者ではないのかい?」
黒ローブの言葉に、リオンが納得するように槍を止める。
「それに、もう虫の息だ。放っておいても、じきに死ぬ」
黒ローブの人物は、雪の上に転がるヘディを見下ろしたまま、淡々と続けた。
「それに、せっかく残ったんだ。
ただ殺すより、もっと有意義な使い道がある」
その言い方に、リオンの眉がわずかにひそむ。
「使い道だと?」
「“無敵になれる薬”の試作品が、できたばかりなんだよ」
黒い袖の奥から、小さな硝子瓶が現れた。
中には、光とも液体ともつかないものが揺れていた。
赤黒いようにも、青白いようにも見える。
覗き込むたびに色が変わる、不気味な液体だった。
リオンは片目を細める。
「そんなものを、こいつに?」
「そう」
黒ローブの人物は、まるで何でもないことのように頷いた。
「レオンの血を引き、しかも今の衝突の中心近くで生き残った個体だ。
ただの人間でも、ただの吸血鬼でも、まして普通の死体でも得られない反応が見られるかもしれない」
「失敗したら?」
「その時は、その時だ。次に生かす」
さらりと返された言葉に、リオンは喉の奥で小さく笑った。
「……相変わらずだな」
「研究とは、そういうものだよ」
黒ローブの人物は、瓶の蓋を外した。
中から、微かな音がした。
液体が呼吸しているみたいな、粘ついた音。
冬の空気の中なのに、それだけが妙に生温かく感じられた。
そして、次の瞬間。
その液体が、ヘディの胸元へ、顔へ、傷口へと、無造作に降りかけられた。
「――あ、ァァぁぁっ!!?」
ヘディの身体が、跳ねた。
意識が戻ったわけではない。
けれど、死の淵に沈みかけていた身体が、本能だけで絶叫した。
焼ける。
凍る。
抉られる。
その全部が、一度に体の中を這い回る。
液体が触れた場所から、黒い筋のようなものが皮膚の下へ走った。
血管に沿って。
神経に沿って。
まるで生き物みたいに、じわじわと全身へ広がっていく。
「が、ああああああああああああッ!!」
ヘディの喉から、まともな言葉にならない悲鳴が噴き出した。
雪の上で身体が痙攣し、折れた腕がさらに嫌な角度で跳ねる。
爪が雪を掻き、血の混じった白い息が何度も吐き出される。
目が見開かれ、その赤い瞳の奥がぐらぐらと揺れていた。
死ねない。
それだけが、本能でわかった。
ここまで壊れているのに。
ここまで痛いのに。
ここまで終わっているのに。
何かが、死ぬことだけを許さなかった。
「……ほう」
黒ローブの人物が、わずかに感心したように呟く。
「この段階で耐えるか」
ヘディの口元から血が溢れる。
咳き込むたびに赤が雪へ散り、それさえすぐに白へ埋もれていく。
内側から何かが焼き爛れ、同時に凍りつき、再び無理やり繋がれていくような苦痛だった。
リオンはそれを見下ろしながら、冷えた声で言う。
「助かるのか?」
「助かる、とは違うな」
「結局、どうなるんだ?」
「どうにもならない。何も結果を残さない。失敗作だったよ。生きるかどうかも怪しい。だが、死にもしないかもしれない」
黒ローブの人物の声には、温度がなかった。
「ふっ。……そういえば、お前は里で“無敵の太陽になる”とかほざいていたな。良かったな。願いが叶ったぞ?」
その言葉に、リオンが口元を歪める。
「……あれだけ偉そうに噛みついてきたくせに、随分と無様な姿になったもんだな」
「失敗作だったとしても、悪くない成果かな、まだまだ改良の余地がある」
黒ローブの人物は、苦しみ続けるヘディを見下ろしたまま言った。
「いずれ余命は……そうだな。数年もないだろう。
生き延びたとしても、まともには保てまい」
ヘディの意識は、そこで何度も途切れかけた。
けれど落ちきらない。
闇へ沈もうとするたびに、内側の何かが無理やり引き戻してくる。
死という終わりへ辿り着かせず、ただ苦痛の中に繋ぎ止めてくる。
「ふっ。可哀想な甥よ。恨むなら俺様ではなく、無力なお前を産んだ、父親を恨むんだな。行くぞ」
リオンが背を向けた。
もう彼にとって、雪の上でのたうつ少年に価値はなかった。
消し損ねた汚れ。
研究の残り滓。
その程度の認識でしかない。
黒ローブの人物もまた、最後に一度だけ振り返ると、何の感慨もなくその場を離れた。
「失敗は成功の母とも言う。彼を産んだ母親にも感謝しておこう。記録としては悪くない。
次は、もっと条件を整えて試そうかな」
二人の足音が、雪の向こうへ遠ざかっていく。
残されたのは、白い大地と、ひとりの少年の苦鳴だけだった。
ヘディは、雪の中で震えていた。
寒さではない。
痛みでもない。
そのどちらでもあり、どちらでも足りない何かだった。
体の内側を、焼けた鉄と氷の針が何千本も行き来している。
息を吸うたび肺が裂け、吐くたび喉が焼ける。
それでも、終われない。
死にたかった。
けれど、死ねなかった。
視界は何度も白く飛び、暗く閉じ、また白く裂ける。
そのたびに、父の顔が浮かんだ。
母の声が聞こえた。
ディアの泣き声が、耳の奥に残って離れなかった。
「……ぅ……あ……」
声にならない。
雪へ伸ばした指先は、何も掴めないまま震えている。
家族はいない。
里もない。
復讐すべき相手だけが生きていて、自分だけが終われない。
けれど、その手が偶然触れたものがあった。
腕輪。
幼い頃から、ずっと身につけていた石だった。
天使様の加護付きの石。
母はそう言って笑っていた。
太陽になる。
妹を守る。
家族を幸せにする。
そんな、子どもじみた願いを何度も押し込めてきた石。
その石を、ヘディは雪の中で握り締めた。
「……たす、けて……」
助けてほしかった。
誰でもよかった。
神でも悪魔でも、もうどうでもよかった。
苦しい。
痛い。
寒い。
死にたい。
でも。
「……終わり、たく……ない……」
喉の奥から、血の混じる息が漏れる。
死にたくない。
こんなところで終わりたくない。
まだ、何も終わっていない。
ディアを守ると誓った。
家族を守ると誓った。
故郷を出ると約束した。
無敵の太陽になると信じていた。
「……ゆるせ、ない……」
なのに。
一瞬で、全部奪われた。
「……ボクは……太陽に……なるんだ」
血に濡れた唇が、かすかに動く。
「リオンを……っ、あの、男を……超える……太陽に……なるんだ!!」
その瞬間だった。
石が、熱を持った。
「――っ!?」
焼けるような熱ではない。
それは、脈打つような熱だった。
まるで石の中に、小さな命が眠っていて、今、目を覚ましたみたいに。
白い雪の上で、石だけが微かに光る。
ヘディの呼吸が止まった。
次の瞬間、声がした。
耳から聞こえたんじゃない。
頭の奥へ、直接、静かに落ちてきた。
『――君は、何も間違っていない』
ぞくり、と全身が震えた。
優しい声にも聞こえた。
冷たい声にも聞こえた。
男とも女ともつかない、奇妙に澄んだ声だった。
『間違っているのは……世界の方だ』
ヘディの目が、見開かれる。
痛みも、寒さも、消えてはいない。
けれど、その声だけが、不思議なくらいはっきりと聞こえていた。
『だから、君に試練を与えよう』
石の光が、わずかに強くなる。
『大事なものを守るために天使になるか』
一拍。
『それとも、欲に塗れて復讐を果たす悪魔になるか』
ヘディの喉が、ひゅっと鳴った。
『選ぶのは、君だ』
「えら……ぶ……?」
答えられない。
今はただ、胸の奥にあるのはぐちゃぐちゃの感情だけだった。
石がさらに強く脈打つ。
『その前に――試練を受けるための条件がある』
声が、少しだけ近づいた気がした。
『まずは、君の大事なものをもらおう』
その意味を、ヘディは理解できなかった。
けれど次の瞬間、脳の奥を直接掻き回されるような痛みが走る。
「――ああああああああああああああああっ!!」
雪原に、絶叫が響いた。




