114[2-48].へディの記憶 《悪魔に支配された真相》
ナザ病院の処置室は、静かに冷え込んでいた。
窓の外はまだ薄曇りで、室内もその薄暗さを吸い込み、薬草と消毒液の匂いが混じる。
病院特有の乾いた空気の中で、誰もが息を潜めていた。
ベッドの上では、ヘディが眠っている。
胸元には何重もの処置が施され、衣服の隙間から見える肌は、死人のように血の気が薄かった。
だが、その胸は、かすかに、確かに上下している。
ユーサは、ヘディへ左手を伸ばしていた。
青と黒の神秘の結晶とオーラが、ヘディの周りで寄り添うように揺らめいている。汗を流し、身体の疲労はまだ抜けきっていない。
「っ……」
走る痛みに、ユーサの眉がわずかに歪む。
「ヘディさん……」
祈るように、その名を呼ぶ。
けれど、ヘディが目を覚ますまでは、座る気にもなれなかった。
ユーサは、自分が開いた“扉”の先から、本当にこの人が戻ってこれるのか。
それを最後まで見届けなければならない気がしていた。
ディアは、そのベッドのすぐ傍に座っていた。
泣き疲れた顔のまま、それでも目だけは閉じずに、ずっと兄を見つめていた。
その手は、ずっとヘディの手を握ったままだった。
「兄さん……」
このまま離せば、またどこか遠くへ消えてしまう気がして。
帰ってこられるように。消えていかないように。
祈るように、縋るように、その温度を確かめ続けていた。
ラムタも、ナザも、エヂヒカも、ペイシンも、それぞれの場所で静かに様子を見守っている。
シ・エルだけは窓際に立ち、いつも通りの余裕を崩していないように見えたが、視線だけは一度もベッドから離していなかった。
そんな張りつめた静寂の中――最初に気づいたのはディアだった。
ディアの掌の中で、ヘディの指先がほんのわずかに動いた。
「……っ」
息を呑む。
声を上げることすら怖くて、肩が小さく震える。
次の瞬間、ユーサの青と黒の神秘の結晶が消えた。
そして、ヘディの睫毛がゆっくりと震えた。
重たいまぶたがわずかに開き、焦点の定まらない赤い瞳が、ぼんやりと天井を見つめる。
「……ここは……」
掠れた声だった。
長い夢の底から、ようやく浮かび上がってきた者の声だった。
ヘディはまだ身体の感覚が戻りきっていないのか、ゆっくりと上半身だけを起こそうとした。
だが、その動きに反応したディアが、もう我慢できなかったように彼へしがみつく。
「兄さん……っ! ヘディ……兄さん!」
その声は、泣き声と一緒に崩れた。
ディアはまるで子どものようにヘディへ抱きつき、肩を震わせて涙と声を零した。
失って、取り戻して、また奪われるかもしれないと怯えていた大切な存在が、今確かに目の前にいる。
その現実に、張りつめていたものが一気にほどけた。
ヘディは目を見開いた。
ほんの一瞬、自分がどこにいて、何が起きたのかを理解しきれない顔をした。
だが、自分の胸元にすがる妹の温度に触れた途端、その表情がゆっくりとほどけていく。
「……ディア。……ただいま」
その名を呼ぶ声は、弱々しいのに、不思議なほどやさしかった。
そして、契約で触れることはできないと思っていた、やっと触れることができた家族の温もりを、誰にも壊されないように抱きしめた。
ディアはさらに強くしがみついた。
今はもう、遠慮も理性もいらなかった。ただ、兄がここにいることを確かめたかった。
少し離れた場所で、ユーサがようやく張っていた息を吐く。
「良かった……」
その一言には、色々な感情が詰まっていた。
助かったという安堵。
本当に戻ってこられたのだという驚き。
そして、自分の神秘術を経由して、神が、ヘディ自身が命を繋ぎ止めたのだという静かな震え。
ユーサは一歩前へ出て、ヘディを見た。
「ヘディさん、戻って来れたってことは……」
その先を全部言わなくても、ヘディには意味が伝わった。
ヘディは、まだ少しぼやけた意識のまま、それでもはっきりとユーサを見た。
「あぁ……ありがとう、ユーサ」
それだけだった。
けれど、その短い言葉だけで十分だった。
ユーサは小さく笑った。
ただ、生きて戻ってきた。その事実だけで、今は足りた。
ナザは、そのやり取りを少し離れたところから見ていた。
医師として見れば、理解しがたいことばかりだった。常識で考えれば、助かるはずのない傷だった。
あの状態から目覚めること自体が、ほとんど奇跡に近い。
だが、目の前でディアが泣きながら兄にしがみついている姿を見てしまえば、そんな野暮な疑問を口にする気にはなれなかった。
ラムタも、エヂヒカも、ペイシンも、誰も言葉を挟まなかった。
ただ、それぞれに驚きと安堵を抱えたまま、その光景を見守っていた。
そして、そんな空気をぶち壊すように。
「最高だ! 最高だよユーサ!!」
処置室の空気に似合わないくらい、明るい声だった。
ある意味では、誰よりも素直に喜びを表したのは、やはりシ・エルだった。
皆がそちらを見る。
シ・エルは珍しく隠そうともせず、心の底から嬉しそうに笑っていた。
「ユーサ。やはり君は最高だ。こうして本当にダ・エルを戻したんだから」
その言葉に、ユーサは半ば呆れたように眉を寄せたが、今は言い返す気力もない。
ただ、ヘディが無事に目を覚ましたことで、シ・エルなりに本気で喜んでいることだけはわかった。
けれど、その後は不思議と誰も続けて喋らなかった。
喜びも、安堵もあった。
けれどそれ以上に、この時間はまだ壊してはいけないような気がした。
何よりも大切な瞬間を、誰も無遠慮に踏み込めなかった。
処置室に、再び静かな時間が流れる。
その静けさの中で、ヘディはゆっくりと目を閉じた。
――先ずは、君に何があったのか、ユーサ達に話してあげなさい。
――相手を知るには、自分を知ってもらうことが大事なんだから。
脳裏に、ジャンヌの声が蘇る。
ここにはいない。
もう姿も見えない。
けれど、その言葉だけが、今この場の沈黙の中で、確かにヘディの背中を押していた。
止まりかけていた時間を、もう一度前へ進めるために。
ヘディは目を開け、ディアとユーサを見た。
「ディア、ユーサ。助かった。ありがとう」
そう言った後で、少し困ったように苦笑する。
「そして……話さないといけないな。ただ……何から話せばいいのか……」
ヘディの中にある過去は、一本の線ではなかった。
何重にも絡まっていて、どこから解けばいいのか、自分でもわからない。
その空気を見ていたシ・エルが、助け舟を出すように口を開いた。
「なら、ダ・エル。先ずは余から聞いても良いかな?」
全員の視線がシ・エルへ向く。
その表情には、いつもの軽薄さはあまりなかった。
むしろ、話しやすい入り口を探しているように見えた。
「単刀直入に聞くよ。ダ・エル。君は、いつ悪魔に支配された?」
その問いに、空気がわずかに張る。
ディアの指先が、まだ兄の服を掴んでいた。
ユーサも、無意識に息を詰める。
誰もが知りたいことだったが、誰も最初には聞けなかったことでもあった。
シ・エルは、責める気配を見せずに続ける。
「君ほどの実力者が、何故、どうやって支配されたのか。そこが気になる。教えてもらえるかな?」
そして少しだけ声音をやわらげた。
「別に、余は悪魔に支配された君を責めるつもりはない。咎めるつもりも、罰を与えるつもりもないよ。間違いは誰にでもある」
その言葉は、驚くほど真っ直ぐだった。
「ただ、君ほど優秀な実力者ですら、そうなった。なら、今後のためにも知っておきたい。ユーサがいなければ、余は君を失っていたかもしれないんだからね」
その温度に、責める色はなかった。
今ここで必要なのは断罪ではなく、理解だと、誰にもわかる声だった。
ヘディは少し目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
「……そうだな」
言葉を選ぶように、ひとつずつ記憶を掬い上げる。
「答えたいけど……“いつ”って言われると、正直わからない」
「なら、質問を変えよう」
シ・エルはすぐに言い換えた。
「各都市悪魔襲来事件の後、君は余に長期休暇を申請したね。その時には、既に支配されていたのかな?」
ヘディの視線が、遠くを見る。
「……あぁ。その時には、もう……ダ・エルの顔をやめて、情報屋ヘディ・ウェルとして、市民に紛れ込んでいた」
「何故、情報屋に戻ろうとしたんだい?」
その問いは、責めるためではなく、記憶の扉を開かせるためのものだった。
ヘディは、少しずつ思い出すように眉を寄せる。
「確か……悪魔に囁かれた理由を整理するために……いや、違うな」
そこで、ヘディの声がわずかに揺れた。
「お前にとって大事な者に、会わせてやるって……そう言われた。
だから、改めて……生死を確認するために情報屋に戻ったんだ」
部屋の空気が、もう一度変わる。
ヘディはゆっくりと、けれど今度ははっきりと口にする。
「チルダに……会わせてやる、って言われて。オレは、その契約を結んだ」
その瞬間だった。
ヘディの顔に、全てを思い出した者の影が落ちる。
シ・エルは静かに頷いた。
「なるほど。それなら、優秀な君が悪魔に隙を突かれた理由もわかる。君の……大事な人だからね」
シ・エルだけが納得したように目を細める。
だが、それ以外の者にはまだ意味が見えなかった。
「ちょっと待ってください」
間に入ったのは、ユーサだった。
「その……チルダっていうのは、誰なんですか?」
ディアもまた、小さく頷いている。
その名前を聞いた時の兄の顔が、ただならぬものだったと感じたから。
ヘディは二人を見た。
それから、少しだけ息を吐く。
「……そうだな。チルダのことを話す前に、順番に話すよ」
そして、ディアへ視線を向ける。
「ディア。オレの……オレ達の家族に何があったのか。吸血鬼の里で、何が起きたのか。母さん達のことから、先に話そう」
ここから、ヘディの過去編が数話続きます。
ずっと書きたかった話で、何年も待っていたのですが、、、
主人公が数話出てこないのは、小説ではタブーらしいのですが、、、どうしようか検討中。




