113[2-47].君だけの物語《イン・ザ・ストーリー》傲慢の翼《イカロス・ウイング》
長いけど、一つにまとめました。
ナザ病院の処置室には、重い沈黙が落ちていた。
ヘディはベッドの上で、浅く苦しげな呼吸を繰り返している。
胸元には応急処置が施されていたが、血の気を失った顔色は、誰が見ても危うかった。
治療にあたっていたナザが、ゆっくりと息を吐く。
「……お手上げだね。残念だけど」
その一言に、空気がさらに冷えた。
「悪魔の魔力が、ごく微量に残っている。本来なら、天使の信仰力でウイルスを退治する免疫みたいに駆除できるはずなんだけど……まるで、彼自身が治療を拒むように、傷を閉じても内側が壊れ続けてる感じさね」
「そんな……」
ディアの肩が震える。
「それだけじゃなさそうだね」
そこで、シ・エルが静かに続けた。
珍しく、軽さのない声だった。
「ダ・エルは天使になる条件に、ディアさんと関われないこと、家族との記憶、これからの幸せ……そういうものを破棄して、破壊神の天使になったからね」
ディアの顔が上がる。
「その均衡の上で、ずっと成り立っていたんだ。なのに、ディアさんに真実を伝えた。記憶も戻った。……天使の契約そのものが崩れ、死滅の道を選んだ可能性がある。流石に難しいか」
「……っ」
ディアはシ・エルの言葉を聞き、自分が原因であることを悟ったのか、瞳に涙を浮かべた。
「シ・エル……ディアを責めるような言い方はやめろ」
ユーサが間に入り、シ・エルを睨む。
「そうだね……申し訳ない、ディアさん」
シ・エルは短く謝る。
だが、すぐに真顔のまま続けた。
「ただ、余の勘だけど……一番可能性が高いのは別にある。ダ・エルを支配できた悪魔の主が、証拠隠滅で自害させようとしているのかもしれない。ここまで酷い状態なのは、余も想定外だ」
その言葉に、処置室の空気がさらに重く沈んだ。
「何か……何か、方法はないんですか!?」
ディアが、泣き叫ぶように声を上げた。
今までで一番、取り乱した声だった。
「お願いです!! 兄さんを……兄さんを助けてください!!」
その叫びに、ユーサがシ・エルを睨む。
「シ・エル。お前は、ヘディさんを助けられる算段があったから病院に連れて来たんじゃないのか?」
「ん? あるよ。最終手段だけど」
「なら、それを早く――」
「ユーサ」
シ・エルの目が、まっすぐユーサを見た。
珍しく、冗談のない目だった。
「ザドキ・エルを悪魔から人間に戻した神秘術を使うんだ」
その瞬間、空気が静まり返る。
「……っ」
ユーサの喉が、わずかに鳴る。
「でも、君はダ・エルを救うしかない」
シ・エルは静かに言った。
「君の奥さんのお兄さんが、亡くなろうとしている。……それでも、黙って見ているのかい?」
その言葉に、ユーサの胸の奥が強く痛んだ。
前世の記憶。
妻だった愛。
その兄。
うまく向き合えなかった過去。
やり直したかったのに、届かなかった時間。
「……結局、他力本願だったのかよ」
絞り出すような声だった。
シ・エルが、ふっと笑う。
「ふふ。申し訳ないね。あと、余も間近で見たかったんだ」
「あのなぁ」
ユーサの眉がひくつく。
「こっちは、さっきまで戦って秘力もギリギリなんだよ。唱えられるかどうか……」
「それなら、足りない分は補えばいい。高級秘術薬をプレゼントするから、秘力枯渇にはならないと思うよ。ナザ院長に渡しておく」
「コイツ……」
ユーサが、思わず拳を握りかける。
その時だった。
「あなた」
ディアの声に、ユーサが我に返る。
振り向いた先で、ディアが涙を浮かべたまま、まっすぐユーサを見ていた。
「お願い。兄さんを……助けて」
その瞳を見た瞬間、ユーサの中の苛立ちが静かに沈んでいく。
「……大丈夫だよ、ディア」
ユーサは、ゆっくりと息を吐いた。
「僕も、ヘディさんを助けたい」
それから、ヘディの方を見る。
「後は……ヘディさんを信じるだけだ」
ユーサはベッドのそばへ進み、左手に秘力を集中させる。
掌の上に、神秘の結晶が静かに集まり始めた。
青と黒の光が、揺れる。
苦しげな呼吸の中、ヘディは微かに眉を寄せていた。
ユーサは、そっと左手を差し出し、その神秘の輝きをヘディの身体へ触れさせる。
「ヘディさん……」
低く、祈るような声だった。
「貴方がもし、“やり直す”決意を持っているのなら……」
光が、少しずつヘディを包んでいく。
「どうか、その手で、“次の扉”を開いてください」
神秘が、柔らかく形を変える。
まるで、どこにも載っていない地図の上にだけ現れる道のように。
誰にも見えないはずの行き先を、静かに示すように。
――「涙が晴れれば、歩き出せるから」
ユーサの声と、神秘が重なる。
——《神秘術》
《地図に無い場所へ》——
呪文が唱えられた、その瞬間。
ヘディにしか見えない“扉”が、静かに開いた。
。。。。。。
ヘディが目を覚ました時、そこは夜だった。
だが、暗くはなかった。
足元には、見渡す限り花が咲いていた。
名も知らぬ花々が、風もないのに静かに揺れ、甘い香りを漂わせている。
見上げれば、星ひとつない闇の中に、月が浮かんでいた。
その傍らには、夜空に溶けるような月虹。
まるで、美しい夢を誰かがそのまま形にしたような場所だった。
「……ここは」
起き上がったヘディの視線の先。
花で編まれた椅子に、一人の女が座っていた。
髪も、瞳も、肌も、纏う衣も。
そのすべてが、月の光を削って作ったみたいな銀色だった。
ただそこにいるだけで、周囲の景色までもが一段、神秘を帯びる。
女は、そんなヘディを見て微笑んだ。
「目が覚めたかい?」
声音は穏やかだった。
不思議と安心するような、けれどどこか底の見えない響きがあった。
ヘディは数秒、相手を見つめたあと、肩を竦めるように言った。
「アンタが、ユーサが言っていた神様か」
「ご明答だよ。ヘディ・ウェル。神はジャンヌ・D・アーク」
その言葉に、女の笑みが少し深くなる。
「神を見てそのような態度をした者は初めてだ。知り合いの知り合いに会うぐらいのフランクさがあるね」
「それはどうも。オレは傲慢の悪魔を倒して、天使になったからな。不遜な態度は許してくれ」
「別に構わないよ。敬意や尊敬というのは、相手が決めることで、こちらが決めることではない」
ヘディのやや横暴な物言いにも、女――ジャンヌは何一つ咎めなかった。
むしろ、少し楽しんでいるようにさえ見える。
「では、ヘディ。本題に入ろう」
ジャンヌが、花の椅子に座ったまま静かに言った。
「君には選択肢がある」
その瞬間、空気が変わった。
柔らかな花の香りも、月の光も、急に遠くなった気がした。
そこでジャンヌは、ヘディにだけ向けた召命を告げた。
それは、エル教会の天使、セブンス・ヘブンのダ・エルとしてではなく。
ディアの兄としてのヘディ・ウェルに託されるものだった。
ジャンヌの使い、D天使として新たな契約を結び、復活するための約束。
今までの肩書きでも、今までのままの役目でもない。
ヘディだけにしか届かない、新しい呼び声だった。
その内容を聞き終えた時、さしものヘディもすぐには言葉を返せなかった。
軽口で受け流せるような話ではなかったからだ。
だが、それでも。
ヘディは、その召命を受け入れた。
「……ユーサの召命とは、似ているところもあれば、違うところもあるんだな」
「それはそうだよ。神は、その人にしかできない、その人なら乗り越えられる試練を託すんだから」
「試練……ねぇ。これで、ある意味、ユーサと同じ門下生みたいなもんかな?」
何事もなかったかのように、普段通りの口調でヘディはジャンヌと会話をしている。
けれど、視線だけは真っ直ぐジャンヌを射抜いていた。
「ただ、一つだけ確かなことがある。召命を受け入れるということは、君には“戻る”意志がある。そう思って良いんだね? あるなら、下界への扉は開かれる」
「……下界?」
そこで、ヘディはふと眉を寄せた。
さっきから感じている、小さな引っかかり。
何かがおかしいわけではない。
景色は美しい。女は神々しい。言葉にも破綻はない。
なのに、胸の奥に、説明のつかない違和感が残る。
初めて来たはずの場所。
初めて見るはずの女。
それでも、完全な“初対面”という気がしなかった。
「なぁ、神様。今更、聞きたいんだが……ここは?」
ジャンヌが目を細める。
「そうか。説明がまだだったね。ここは死後の世界。エデン」
「死後の……世界?」
ヘディが周囲を見渡す。
美しい花園。
星のない暗い夜。
そこに浮かぶ月と月虹。
「まぁ、天界のようなものだ。ここで、天国に行くか、地獄に行くか。世界が決める場所でもある。君達がいる世界が下界になる」
「……天界?」
ジャンヌが、少し可笑しそうに笑う。
「そんなに珍しいかい? それとも、想像していたのと違ったかい?」
ヘディは答えず、もう一度ゆっくりと辺りを見た。
そして、ぽつりと口にする。
「なぁ、神様。ここは本当に、天界なのか?」
その言葉に、ジャンヌの笑みがわずかに薄れた。
「それは、何故?」
問う声は静かだった。
けれど、ほんの少しだけ温度が下がったように感じる。
「……なんとなく、違和感を感じただけだ」
ヘディは正直に言った。
「天界ってわりには……」
そこで言葉を切る。
へディは自分でも、何に引っかかっているのかうまく掴めていなかった。
「ヘディ・ウェル」
ジャンヌが、やさしく名を呼ぶ。
「君は、嘘をたくさんついてきた人生だっただろう」
ヘディの肩が、わずかに強張った。
「君は、愛した人にも、天使になった理由にも、愛する妹のためにも、真実を隠し続けた」
「……」
「だから、嘘じゃないのかと敏感になりすぎるほどに、大変な人生だと思うよ」
ヘディは息を止めた。
「行き過ぎた傲慢が反転して謙虚になれば、それは慎重さにも変わる。瞳に映るもの全てが嘘に見えた日もあり、苦労が絶えなかっただろう」
まるで、自分の生きてきた軌跡を見てきたみたいな言葉だった。
その瞬間、ヘディは初めて、目の前の女に対して本物の畏怖を覚えた。
「ふふふ。そう縮こまるな。肩の力を抜け、ヘディ・ウェル。だからこそ、神として忠告しておく」
銀色の瞳が、まっすぐにヘディを見つめる。
「あまり神の詮索をしない方が良い。情報屋でもある君には、この意味がわかるかもね」
ヘディの喉が、小さく鳴った。
「自由を求め、太陽に手が届くと信じて、翼を溶かされ亡くなった者の話がある」
ジャンヌが静かに言う。
「傲慢の象徴として語られることもある話だ。父親の忠告を聞かずに高く飛びすぎて、人生を終えた者の物語だよ。だから、君も注意したまえ」
「……イカロスの話か」
「おや? 知っているのかい? なら話は早い」
ジャンヌが微笑む。
「神に近づきすぎた愚か者、として語られることも多いからね」
「……違うよ、神様」
ヘディが、真っ直ぐに返した。
「イカロスは、傲慢だったんじゃない」
ジャンヌが、少しだけ目を細める。
「ほう?」
「人は『するな』って言われたことほど、『したくなる』生き物なんだよ」
ヘディの目は、どこか遠いものを見ていた。
「高く飛ぶな、近づくなって言われたから、気になっただけだ。
イカロスは傲慢だったんじゃない。好奇心が、恐怖や危機に勝っただけの話だ」
そこで、ヘディは少しだけ言葉を置いた。
「……それに、“自由”ってのは、欲張ったから欲しくなるもんじゃない。
最初から、手を伸ばしたくなるもんだろ」
ジャンヌの瞳が、わずかに揺れる。
「しかも……父親に“近づくな”と強く言われた時点で、半分は唆されたようなものだ。哀れな奴だよ」
「ふ……はは」
ジャンヌが、少し楽しそうに笑った。
「君はそう考えるのか?」
「昔、その話を聞いて。オレは……そう思っただけだ」
「そうか。そういえば、君は太陽の加護を持つ天使だったね。君も自由を求めて“太陽になりたい”と思った口かい?」
「………オレがどういう経緯で天使になったのか、知っているんじゃないのか?」
「おっと、これは失礼」
ヘディは、自分の口から言葉にすることを拒むように、睨むような目でジャンヌを見た。
「……それに、太陽の力を得るっていうのは、太陽そのものになることじゃないんだ」
「……そうか」
ジャンヌはその一言を、どこか大切そうに受け取った。
「太陽の加護を持つ天使である君が言うと説得力があるよ。まるで父親の言うことを聞かないイカロスみたいに自分を曲げない。良いところでもあるが、悪いところにもなりそうだ。君のご両親も、さぞ手を焼いただろう」
「……それは否定できない。っていうか、もしかして知ってて言っているなら、意地が悪い神だな」
「そうだね。こちらも否定できないね」
「……なんだそれ。ユーサがアンタに振り回されて、手を焼くのもわかるよ」
少しだけ、空気が和らぐ。
「そういえば」
ジャンヌが、どこか確かめるように微笑んだ。
「君達エル教会の天使は、空は飛べないんだね」
ヘディが、鼻で笑う。
「天使とは名ばかりだよ。片翼だしな。空を駆けることはあっても、鳥みたいに自由には飛べない」
「不満かい?」
「まぁな」
ヘディは、月の浮かぶ夜空を見上げた。
「もしかしたら、エル教会の神は、天使がイカロスみたいにならないように……最初から空を飛べないようにしてるのかもな」
ジャンヌが、ほんのわずかに笑う。
「自由を求めすぎるな、……いや、神に近づきすぎるな……と?」
「かもな。天使が『自分が神に代われる』なんて思い上がって、神に歯向かうほど傲慢になられてもたまらないだろうしな。……でも、そうやって止められたら、余計に飛びたくなるのが生き物の性だと思うけどな」
ジャンヌは、ふっと笑った。
「やっぱり君は、イカロス寄りの考え方をするんだね」
「寄り、じゃないさ。別に味方ってわけじゃない。ただ――自由への憧れとか、そういう見方が少し似てるだけだ」
ヘディは静かに返す。
「自由に手を伸ばしたかっただけの奴を、オレは嫌いになれない。……というか」
そこで、ヘディはジャンヌに少しだけ皮肉っぽく笑ってみせた。
「こちらの神様は、オレ達……D天使を、空も飛べる天使にしてくれるのかい?」
ジャンヌは、楽しそうに目を細める。
「ふふふ。どうだろうね? それは君次第じゃないかな?」
「君次第?」
「自由を求めるのであれば、それも試練かもね。まぁ、せいぜい翼を焼かれないように注意しておきたまえ」
ジャンヌが嬉しそうに笑った。
そんな会話が続く中でも、ヘディの胸の奥にあるジャンヌへの違和感は、完全には消えていなかった。
ヘディは、ジャンヌをまっすぐ見た。
「なぁ、神様。もう一つ質問を良いか?」
「どうした? どうぞ」
ヘディが、真剣な顔つきで、赤い瞳を照らしながら言葉を出した。
「オレは、アンタと……どこかで会ったことあるか?」
数秒の沈黙が流れた。
そして――
「ふ。ふふ……あははは!!」
ジャンヌは、楽しそうに笑った。
まるで今まで神様の仮面をしていたかのように、少しだけ少女じみた声で。
「失礼。まさか、下界の人間に口説かれるとは思っていなかったから」
「口説いたつもりはないぞ。神が自惚れるとは傲慢にもほどがある」
「あはは。そうだな。注意しておくよ」
ジャンヌが笑いを残したまま、ヘディの前まで静かに歩み寄る。
そして、そっとその指先を取った。
「気に入ったよ、ヘディ・ウェル。君は特別に、一足先に強くてニューゲームといこう」
「な……何を」
「安心しろ、ヘディ。別に取って食おうとしているわけではない」
次の瞬間。
「《無限の可能性の始まり(アンリミテッド・ポッシビリティズ・ウェイク・アップ)》」
ジャンヌの指先から、銀色の光がヘディの中へ流れ込んだ。
【神秘術】――《君だけの物語》
それは、熱ではなく、冷たさでもなく。
新しい力を与えられた感覚でもなかった。
「ヘディ・ウェル。これから君の物語には、君にだけしかできないことが起きる。君にだけしか救えない者が現れる」
むしろ、自分の中にずっとあったはずの何かが、静かに目を覚ましていくような感覚だった。
「その時に、君だけが使える、君の中の力で、それを乗り越えるだろう」
「……これは」
ジャンヌの言葉を聞いた瞬間、ヘディの中に、今まで届かなかった場所へ続く感覚が生まれた。
今まで辿り着けなかった“その先”へ。
閉じていた道が一本だけ、ひそやかに開いたような感覚。
「それは、君がずっと見てきた《Lies(嘘)》じゃない。これから君が手に入れる《Truth(真実)》だ」
そして、何か新しい扉が、ヘディの中で、少しずつ静かに増えていく。
まるで、自分の未来が一つだけではなくなったような。
今までの自分のままでは見えなかった景色が、確かにその先にあると告げられたような感覚だった。
「力に関しては、下界に降りた時に、きっと君なら使い方を肌感覚ですぐものにするよ」
ジャンヌが嬉しそうに笑う。
ヘディは、その時に確信した。
この女は、本当に神なのだと。
「それじゃあね。嘘に敏感なヘディ・ウェル。そろそろ、嘘をつくのも疲れただろう」
ジャンヌの声が、少しだけ優しくなる。
「先ずは、君に何があったのか、ユーサ達に話してあげなさい。相手を知るには、自分を知ってもらうことが大事なんだから」
「……」
「消せない過去に縛られてないで、今からは前を向いてごらん」
ジャンヌの微笑みに、少しずつ靄がかかっていく。
花も。
月も。
月虹も。
すべてが遠のいていく。
視界が、ゆっくりと黒に塗りつぶされる。
「君は、イカロスではない。神も彼の父親ではない。
だからこそ、あえて君の解釈通り――したくなるように、言っておく。
足を、止めるな。
ヘディ・ウェル。神ではなく、君自身を信じて。歩き続けてみて欲しい」
ヘディはそのまま、エデンから引き剥がされるような感覚に飲み込まれた。




