第6話「時雨(桃太郎物語の雉)」
──前回までのあらすじ──
鬼退治の旅に出発した桃太郎と弥助は、道端で倒れていた男・衛門を助ける。
元は都で名を知られた武士だった衛門は、濡れ衣を着せられ、妻子も失い、全てを奪われていた。
「あと二年鍛えねば、お前たちは命を落とす」
——衛門はそう言い、二人の師となる。
厳しい修行の中で、桃太郎は「誰かを守るための剣」を、弥助は己の野生をさらに研ぎ澄ませる術を身につける。
「俺はもう、名もなき男ではない。お前たちの、そしてこの村の衛門だ」
三つの魂は一つになり、旅立ちの日は近づいていた。
---
第6話「時雨(桃太郎物語の雉)」
一
鬼ヶ島へと続く道中、桃太郎たちは深い森の中を歩いていた。
春の柔らかな日差しが木漏れ日となって地面をまだらに照らし、湿った土の匂いが鼻腔をくすぐる。
鳥のさえずり、風に揺れる木々のざわめき——すべてが平和そのものだった。
桃太郎と弥助が先頭に立ち、衛門が後方から全体を見渡す。
三人の呼吸は、すでに一つのものとなっていた。
その時、前方から微かな気配がした。
衛門が鋭い視線を向ける。
木々の間に一つの影が揺れる。
それは風に揺れる木の影か、それとも——。
桃太郎が声をかけようとしたその瞬間、その影は風のように一行の前に舞い降りた。
足音ひとつ立てず、枝を揺らすことさえない。
初めからそこにいたかのような自然さ。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
黒い装束に身を包み、顔の下半分を布で隠している。
年は十五、六歳ほどだろうか。
細身ながらも、その立ち姿には無駄がなく、獲物を狙う獣のような緊張感が漂っていた。
指先には、いつでも手裏剣を放てるように微かな力が込められている。
彼女は一切の言葉を発さず、ただ静かに桃太郎を見据えていた。
その瞳は冷たく、氷の欠片のようだった。
そこには感情の揺らぎすらない。
ただ、獲物を見定める者の冷徹さだけがあった。
「もし、何か困っているのかい?」
桃太郎の純粋な問いかけにも、少女は答えなかった。
ただ、わずかに首を傾げたように見えた——その問いかけが、彼女にとっては想定外だったのかもしれない。
七年間、誰からも「困っているのか」と問われたことなどなかったから。
少しの沈黙が重くのしかかる。
鳥のさえずりさえ、止んだように思えた。
衛門は警戒を強め、弥助は身構えた。
いつでも飛びかかれるように、弥助の指が微かに動く。
衛門の手は、いつの間にか腰の刀の柄に触れていた。
その張り詰めた空気の中、少女は初めて口を開いた。
「……鬼の居場所を教えてほしい」
その声は、森の静けさに溶け込むように小さく、感情が読み取れなかった。
だが、その言葉の端々に、かすかな——しかし確かな——熱が宿っているのを、衛門だけは感じ取っていた。
それは、七年間燻り続けた、消えることのない炎の匂いだった。
「鬼を討伐するため、我々も鬼ヶ島へ向かうところだ。もし良ければ、共に旅をしないか?」
桃太郎の提案に、少女は一瞬ためらったように見えた。
彼女の瞳が、わずかに揺れる。
あの澄んだ瞳が、なぜか胸の奥を引っかく。
計画では、もっと冷徹に、もっと距離を置いて近づくはずだった——。
(利用させてもらう——そう思ったはずなのに、なぜか胸の奥がざわつく)
少女はその感情を振り払うように、静かに頷いた。
「……利害は一致している。同行する」
そう言って、彼女は静かに桃太郎の後ろに立った。
その位置は、彼女にとって最も戦いやすい場所——背後の警戒も、前方への奇襲も、どちらも可能な距離だった。
いつでも、目的を果たせるように。
時雨と名乗るその少女は、旅の仲間となった後も、必要最低限の会話しか交わさなかった。
しかし、その動きには一切の無駄がなく、衛門ですらその気配を完全には捉えられないことに驚きを隠せなかった。
森の一部になったかのように、彼女は自然にそこに溶け込んでいる。
(この娘、只者ではない。それに——どこかで……)
衛門の脳裏に、かすかな既視感がよぎった。
彼女の横顔の輪郭、微かに覗く目の形——どこかで見たような気がする。
だが、それが何なのか、彼にはわからなかった。二十年以上も前に生き別れた、娘の面影を、無理に押し当てているのかもしれない。
---
二
言葉を失った日
時雨はかつて、都で名の知れた貴族の娘であった。
彼女の家は、飢饉で苦しむ農民から容赦なく年貢を徴収し、抵抗する者は平然と馬で踏みつけて命を奪う、極悪非道な行いを繰り返していた。
使用人たちは震えながら働き、村人は恐怖に怯えていた。
誰も、この屋敷の者に逆らうことはできなかった。
しかし、時雨はそれを知らなかった。
庭に咲く牡丹の花の香り、母が弾く琴の音色、父が聞かせてくれた武勇伝。
それらすべてが、彼女にとっての「世界」だった。
使用人たちの哀れな視線も、村の方から聞こえる泣き声も、幼い彼女の耳には届かなかった。
時雨が与えられた世界は、牡丹の花が咲き誇る庭園まで。
その外に何があるのか、彼女は知らない。
「お前は、私たちの宝物だ」
父がそう言って頭を撫でてくれた温かい手。
武骨で、刀の握りで硬くなったその手は、時雨を撫でる時だけは優しかった。
「大きくなったら、素敵なお嫁さんになるのよ」
母がそう言って抱きしめてくれた優しい腕。いつも牡丹の花の香りがした。
その香りが、時雨にとって「母」そのものだった。
兄がこっそりと菓子を分けてくれた笑顔。あの菓子は、使用人たちがこっそりと隠し持っていたものだったが、時雨はそれも知らなかった。
すべてが、彼女の幸せだった。
しかし、ある日——。
屋敷に大勢の集団が押し入り、全てを破壊された。
門は蹴破られ、庭の牡丹は踏み荒らされ、見慣れた障子が次々と倒れていく。
怒号と悲鳴、金属がぶつかる音、そして——血の匂い。
時雨は幼い頃から話で聞いた「鬼」の仕業だと確信していた。
鬼は人を襲い、家を焼き、財宝を奪う——そう教えられてきたから。
父が語ってくれた武勇伝の中で、鬼はいつだって倒されるべき敵だった。
屋敷は怒号と悲鳴に包まれ、炎が天を焦がした。
真っ黒な煙が立ち込め、鼻をつく焦げた匂い。
当時、時雨は八歳だった。
彼女は母に起こされ、押し入れの裏の隠し部屋に隠された。
狭くて暗いその場所は、幼い時雨には恐怖でしかなかった。
母の手が、震える彼女の肩を強く押す。その手も、いつもと違って冷たかった。
「絶対に、声を出してはいけません」
母の最後の言葉だった。
その言葉を残して、母は戦場へと消えていった。
襖の隙間から見えた母の背中は、いつもよりずっと小さく見えた。
時雨は、息を殺して、その一部始終を見ていた。
襖の隙間から見えるのは、炎に照らされた地獄絵図。
父が、母が、そして兄が、無数の男たちに斬り捨てられる姿。
父は最後まで、時雨の隠れ場所を口にしなかった。
刀を向けられても、ただ黙って——いや、笑っていたように見えた。
娘を守れたという、満足げな笑みを浮かべて。
その笑顔が、彼女の心に焼き付いた。最後まで自分を守ろうとした父の、誇り高い笑顔。
母は、時雨の方を見て、微笑んでいた。
血に染まりながらも、その微笑みだけは、いつもと同じ優しさだった。
口が微かに動いた。「大丈夫」——そう言っているように見えた。
違う—「愛している」——そうだったのかもしれない。
時雨は、指を噛みしめ、血が出るのも構わず、声を殺した。
恐怖で震える体を必死に抑え、唇が破れるのも構わず、ただひたすらに息を潜めた。
自分の心臓の音が、恐ろしいほど大きく聞こえた。
この音が、敵に聞こえてしまうのではないか——その恐怖が、さらに彼女の指を深く噛ませた。
その時、襲撃者の一人が言った。
「この宝を持って、鬼ヶ島に献上するぞ!」
時雨は、その言葉を決して忘れなかった。
目の前で家族が殺された衝撃よりも、その言葉は彼女の心に深く突き刺さった。
あの男たちは、誰かに命じられて動いている。その「誰か」が、鬼ヶ島にいる。
——鬼ヶ島。そこに、仇がいる。
幼い心に、その思いだけが焼き付いた。
八歳の少女の心に、復讐という名の炎が灯った。
それは、消えることのない、冷たい炎だった。
---
三
七年間の修行
襲撃から逃れた時雨は、父の知り合いだったという一人の忍びの元に身を寄せた。
その男は、かつて父に命を救われたことがあるらしかった。
無言で彼女を引き取り、廃寺までの道を教えた。
しかし、その忍びも「表向きは別人」として生きており、時雨を弟子として迎え入れることはできなかった。
彼は彼女に最低限の食料と隠れ家だけを与え、こう言った。
「お前は、自分で這い上がるしかない。それが、生き残るための道だ。誰もお前を助けはしない。誰もお前を守りはしない。それが、この道を選んだ者の宿命だ」
その言葉は、時雨の心に深く刻まれた。誰も助けてくれない。
誰も守ってくれない。だから——自分で強くなるしかない。
時雨は、山中の廃寺で一人、父から教わったわずかな手ほどきを頼りに、独学で忍びの技を磨いた。
食べ物は、山で採れる木の実や、時々村から盗んだ。
盗みは罪だと知っていたが、しかし、生きるためには仕方なかった。
最初は罪悪感があった。盗むたびに、両親の顔が浮かんだ。
彼らは、こんな娘を誇りに思うだろうか——。
でも、その感情も、何度も繰り返すうちに消えていった。
盗むたびに、彼女の心は少しずつ冷えていった。
夜は、両親が斬られる夢を見て、泣きながら目を覚ます。
夢の中で、父と母はいつも微笑んでいた。その笑顔が、彼女の心をさらに深く傷つけた。
なぜ、笑っているのか。
なぜ、私を責めないのか。
——なぜ、私だけが生き残ったのか。
——なぜ、私はあの時、何もできなかったのか。
その自責の念が、彼女を強くした。
痛みを忘れるために、体を動かした。
悲しみを消すために、技を磨いた。
気づけば、彼女の手はあらゆる武器を扱えるようになっていた。
体は、どんな動きにも対応できるように鍛えられていた。
ある冬の夜、時雨は凍えながら廃寺の仏像の前に座っていた。
かじかんだ手で、父から教わった唯一の手紙を取り出す。
何度も読み返して擦り切れたその紙は、もうすぐ破れてしまいそうだった。
それでも彼女は、この手紙だけは決して手放さなかった。
そこには、幼い彼女に宛てた父の文字が残っていた。
「香へ——お前が大きくなったら、この手紙を読むがいい。父は、お前を愛している」
時雨は、その手紙を読み返すたびに泣いた。温かい涙が、凍えた頬を伝う。
この手紙だけが、彼女を「時雨」ではなく「香」として扱ってくれる唯一のものだった。
そして、涙が乾く頃には、決意を新たにした。
「必ず……必ず仇を討つ。そのためなら、何だってする」
その手紙は、彼女の唯一の宝物になった。
修行の合間、何度も何度も読み返した。
やがて手紙は擦り切れ、文字は消えかかっていたが、それでも彼女は捨てられなかった。
文字が消えても、父の声は彼女の中で生き続けていた。
十二歳の時、山で修行していた一人の武士の老人に出会った。
彼は、時雨の素質を見抜き、弓の腕を磨る手助けをしてくれた。
老人は何も語らなかったが、時雨にはわかっていた。
彼もまた、何かを失った者なのだと。その目には、時雨と同じ、喪失の闇が沈んでいた。
「弓はな、心を射るものだ。的に向かう矢は、お前の心そのもの。迷いがあれば、矢は逸れる。お前の心が真っ直ぐなら、矢も真っ直ぐに飛ぶ」
老人の教えは、時雨の心に深く刻まれた。
弓を引くたびに、自分の心の状態が矢に現れる。
怒りが強すぎれば矢は上に逸れ、恐れがあれば矢は震える。
彼女は、自分の心と向き合うことを、弓を通して学んだ。
一年後、老人は病で亡くなった。
時雨は彼の遺体を丁寧に葬り、墓の前に一輪の花を供えた。
名前も知らない師のために、彼女は初めて涙を流した。
「ありがとうございました」
それが、彼女が七年間で初めて口にした感謝の言葉だった。
その言葉を口にした時、彼女の中の何かが、ほんの少しだけ溶けたような気がした。
十五歳の春、時雨は「鬼ヶ島」の噂を聞く。
盗賊たちを束ねる頭領がいること。
その弟は特に残忍で、殺戮を楽しむと評判だということ。
復讐の時が来たと、彼女は決意した。
そして、桃から生まれた不思議な力を宿した少年の噂も、どこかで聞いた。
彼は、鬼退治に向かうという。
彼を復讐のために利用しよう――そう考え、時雨は桃太郎に近づこうと決めた。
偶然にも桃太郎が鬼討伐に動き出したことを知り、時雨は「たまたま通りかかった旅人」を装って一行と合流した。
時雨の心の中に眠る、暗く燃え盛る復讐の炎が宿っていることを、桃太郎たちはまだ知らない。その炎が、七年間彼女を突き動かしてきた、唯一の原動力だった。
---
四
心を溶かす温かいきび団子
旅に出て数日目のことだった。
祖母が持たせてくれたきび団子を、桃太郎は時雨に差し出した。
「時雨も食べるか?ばっちゃんのきび団子、美味いんだよ」
時雨は無言でそれを受け取った。
警戒心から、一瞬ためらう。
毒が入っているかもしれない——そんな考えが頭をよぎった。
七年間、誰かから食べ物を差し出されたことなどなかった。
自分で盗み、自分で奪い、自分で生き延びてきた。
人から与えられることの方が、よほど不自然だった。
しかし、桃太郎の瞳はあまりにも澄んでいて、そこに邪なものは何一つ見えなかった。
その瞳は、かつて父が時雨に向けていたのと同じ、ただ純粋な優しさだけだった。
彼女はゆっくりと顔を覆う布を少しだけずらし、団子に歯を立てた。
その瞬間、彼女は目を見開いた。
口の中に広がる優しい甘さ、そして米の温かい香ばしさが、
冷え切った彼女の心にじんわりと染み渡る。
七年間、彼女は味を感じることを忘れていた。
食べることは、生きるための行為でしかなかった。
木の実の渋さ、盗んだ米の味気なさ、それだけが彼女の知る「味」だった。
でも、これは違う。
——この感覚は、何だ?
七年間、味わったことのない、温かいものが、胸の奥から溢れてくる。
それは、父の手紙を読んだ時とも、母の微笑みを思い出した時とも違う——もっと深く、もっと優しい何か。
彼女の知らない場所から、何かが静かに溢れ出していた。
時雨は言葉を失い、無意識に頬に手を当てていた。
冷たいはずの頬が、なぜか温かい。そして、その温かさが、なぜか心地良い。七年間、誰にも触れられたことのなかったその頬が、初めて温もりを覚えた。
普段、一切の感情を表に出さない時雨が見せたその表情に、桃太郎と衛門、そして弥助は皆、目を奪われた。
氷のようだったその瞳に、一瞬、光が宿った。
その光が、あまりにも儚く、あまりにも美しかった。
「どうだ、時雨?」
桃太郎が期待を込めて尋ねると、時雨は小さく、しかしはっきりとした声で答えた。
「……おいしい」
その一言が、彼女にとってどれほど大きな意味を持つか——時雨自身にも、まだわかっていなかった。
七年間、彼女は何かを「おいしい」と感じたことなどなかったから。
食べることは、ただ生き延びるための行為でしかなかったから。
その日の夜、時雨は初めて自分から桃太郎に話しかけた。
「ねぇ、桃太郎!このきび団子は……どうやって作るの?」
時雨の真剣な問いに、桃太郎は祖母から教わった作り方を、嬉しそうに語った。
粉の配合、水加減、捏ねる強さ、火加減——桃太郎の言葉を、時雨は一つ一つ、宝物を仕舞い込むように丁寧に頭に刻み込んだ。
少しずつ笑顔を見せるようになった時雨を、衛門はどこかで見た記憶があるような気がしていた。それは、遠い昔に失った、ある女性の面影——口元を緩める仕草、目を細める時の皺の寄せ方。
どこか、彼の妻に似ていた。
だが、衛門はその思いを胸の奥にしまい込んだ。
今はまだ、その時ではないと感じたからだ。
二十年以上も前に離ればなれになった娘は、もうとっくに大人になっている。
それに、この娘は「時雨」という名を名乗っている。
衛門の娘の名は「つぶら」。違う。
衛門は成長した娘の姿を予測できない。
年頃の女性を見ると娘かもしれぬと疑いを持ってしまう癖があった。
---
五
失敗した団子と桃太郎の嘘
それから数日後。
時雨は、誰にも気づかれないよう、川辺にしゃがみ込み、笹の上に粉を広げた。水を加え、手で捏ねる。粉が指の間にべったりと絡みつき、思うようにまとまらない。彼女は眉をひそめ、さらに水を足した。今度は柔らかすぎて、形が崩れる。それでも彼女は、小さな団子を必死に丸め、火の上に並べた。煙が目に染みる。彼女は瞬きもせず、団子を見つめ続けた。
やがて表面が焦げ始め、彼女は慌てて火から下ろそうとした。その時、熱した石の縁に手首がかすかに触れた。
——ッ。
声にはならなかった。彼女は手を引っ込め、手首を見つめた。ほんの指先ほどの赤みが、白い肌に浮かんでいる。たいした火傷ではない。それでも彼女は、その赤みをじっと見つめた。七年間、どれだけ深い傷を負っても痛みを感じなかったこの体が、たかが団子ひとつで傷ついた。そのことが、なぜか彼女の胸の奥をかすかに揺らした。
彼女は川辺にしゃがみ、手首を流れに浸した。冷たい水が、熱を奪っていく。水の冷たさと、火傷の熱さが、同時に彼女の肌に触れていた。
冷たいはずの水が、なぜかほんの少し、温かく感じた。
手に取った団子は、外は黒く焦げ、中は生のままだった。
彼女は多くの技を完璧にこなしてきた。
暗殺も、潜入も、情報収集も——どれも、一度教われば完璧に身につけた。
その自信があった。
しかし、出来上がった団子は、一口食べるとべったりと歯にくっつき、まるで土のような味がした。
甘さはなく、ただ粉っぽいだけの塊。
捏ねる力加減がわからず、水加減も間違え、火の通りも均一ではない。
七年間の修行で培った技術は、ここではまったく役に立たなかった。
食べられるものではなく、時雨は人知れずそれを笹に包み、森の奥へと捨てに行った。
その時の彼女の顔は、失敗したことにひどく落ち込んでいた。
七年間の修行で、彼女は多くの技を身につけてきた。
暗殺も、潜入も、情報収集も——どれも完璧にこなせるようになった。
誰にも負けない自信があった。
なのに、団子一つ作れない。
その事実が、彼女の心に予想外の打撃を与えていた。
なぜ、こんなにも悔しいのか。
なぜ、こんなにも情けないのか。
復讐とは何の関係もない、ただの団子なのに。
その日の夕食時、桃太郎と弥助が採ってきた食材を衛門が調理し、四人は輪になって食べていた。
時雨は、自分の失敗した団子の理由を考えながら、上の空で箸を進めていた。
桃太郎の教えをもう一度思い出してみる。粉はどのくらいだったか。
水はどのくらい入れたか。火加減は——。
「ん?」
時雨は見覚えのある包みに気づき、桃太郎の手元に目を向けた。
彼の手に握られていたのは、先ほど自分が捨ててきたはずの、あの笹の包みだった。
桃太郎は、嬉しそうにその中から団子を取り出し、ためらうことなく一口食べた。
「え?あ!ちょっと!桃太郎!」
普段無口でほとんど喋らない時雨が、思わず声を張り上げた。
慌てて食べるのを止めようとしたが、間に合わない。
彼の口は、もう二口目を運んでいた。
「その……ベトベトしたの、団子か?どうしたの?それ?」
弥助が戸惑ったように尋ねたが、桃太郎は悪戯っぽい笑顔で「教えなーい」とニヤニヤしながら答えた。
その目は、時雨だけを見ていた。
桃太郎は、団子を独り占めするように口に運びながら、時雨の目を真っ直ぐ見つめた。
およそ三人前はあろうかという団子を一人で食べ尽くし、笹にへばりついた残りまで舐め取り、両手を合わせて「ご馳走様でした」と、作り手と食材に感謝を込めた。
時雨の全身に、雷に打たれたような衝撃が走った。
——なぜ?
——まずいはずなのに、なぜ?
——嘘をついているの?それとも……
彼女の手が、わずかに震えていた。
七年間、誰にも震えたことのなかったこの手が。
誰かを信じることをやめてから、初めての震えだった。
「お……お粗末……様でした」
時雨は明らかに動揺していた。
その顔は、ほんのりと赤く染まっているように見えた。
口元が、わずかに緩んでいる。
七年間、一度も緩めたことのなかったその口元が。
衛門は、桃太郎の表情と時雨の動揺を見て全てを把握し、静かに笑う。
「さすがは我が主、計算なのか天然なのか、それともただの優しさなのか、わからぬわ。しかし——あの娘の顔、ようやく人間らしくなってきたな」
時雨は、その時の衝撃が何なのかを理解できなかった。
それは、彼女の冷酷な心が初めて感じる、温かい痛みだった。
憎しみでも、復讐心でもない——もっと優しく、もっと温かい何か。
彼女の知らない感情が、確かにそこにあった。
時雨の心の変化に気づいたのは、衛門ただ一人。
旅が終わったらどうなることやら……と、少し気恥ずかしい気持ちになった衛門であった。
彼の胸の奥で、二十年以上前に失った娘の姿が、この時雨の横顔と一瞬重なった。
だが、衛門はすぐにその考えを振り払った。
ありえない。
そう思いたかった。
---
六
夜、皆が寝静まった後、時雨は一人、月を見上げていた。
手には、桃太郎が食べてくれた団子の笹の包み。
もう何も残っていないのに、彼女はそれを握りしめていた。
まだ、ほのかに団子の香りが残っている。その香りが、なぜか彼女の心を温かくした。
「なぜ……あんなものを……」
彼女は、自分の問いかけに答えを出せないでいた。
復讐だけを生きがいにしてきた。誰かを信じることなど、とっくに忘れていた。
感情は弱さであり、仇を討つためには捨てるべきものだと思っていた。
七年間、そう信じて生きてきた。
なのに、あの男は——。
(私は、仇を討つためにここにいる。それなのに……なぜ、あんな団子ごときで……)
(でも、あの温かさは……何なんだ?)
(あの人の瞳は、なぜあんなに優しいんだ?)
二つの感情が、彼女の心の中で激しくぶつかり合う。
復讐への執念と、初めて感じる温かい何か——それが、彼女を深く悩ませた。
七年間、彼女はただ一つの目的だけを見つめてきた。
その目的が、今、揺らぎ始めている。
「……私は、何をしているんだろう」
その夜、彼女の心に、初めて「復讐」以外の何かが芽生えた。
それが何なのか、まだ彼女にはわからなかったが、確かにそれは、冷え切った心を溶かす、温かいものだった。
氷が溶けるように、ゆっくりと、しかし確かに、彼女の中で何かが変わっていく。
月明かりが、彼女の頬を照らしていた。
その頬には、かすかに涙の跡があった。
七年間、一度も流さなかった涙。
それが、今、静かに彼女の頬を伝っていた。
彼女は無意識に、火傷のあとが残る手首を、もう片方の指でなぞっていた。赤みはもう消えかけている。触れても痛みはない。それでも彼女の指は、そこを確かめるように往復していた。
復讐だけを生きがいにしてきた七年間、彼女は自分の体が発する声をすべて無視してきた。空腹も、疲労も、傷の痛みも——すべて、弱さだと思ってきた。
だが今夜、初めて——このかすかな火傷の跡に触れるたび、彼女は思い出す。
団子を作った。ただ、それだけのこと。桃太郎の教えを思い出しながら、粉をこね、水を加え、火にかけた。失敗した。焦げた。食べられたものではなかった。それでも——あの男は、それを「美味い」と言って食べた。
手首の跡は、明日には消えるだろう。けれど彼女の指は、そこをなぞることを覚えてしまった。誰かのために何かをした、その記憶に触れるように。
---
鬼ヶ島は、もうすぐそこまで近づいている。
四人の旅は、やがて運命の真実へと導かれていく――。
---
【次回予告】
鬼ヶ島が、目前に迫る。
そこに待つのは、時雨が七年間追い求めた復讐の相手——鬼の頭領。
だが、彼らの前に現れた真実は、あまりにも残酷だった。
自分たちが「鬼」と呼んだ者たちの正体。
そして、時雨の復讐が向かう先に待つ、新たな悲劇とは――。
---
次回、第7話「鬼ヶ島、そして真実」
---
【第6話・完結】




