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時雨の焼印【特別盤】  作者: 太幽


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第5話「衛門(桃太郎伝説の犬)」

──前回までのあらすじ──

老夫婦に拾われた桃太郎は、弥助と共に育ち、十五歳で宇喜多秀家と出会う。


村に現れた鬼が、十兵衛の娘・春とその腹の子を奪う。


絶望する十兵衛を前に、桃太郎は自身も川に流された身であることを初めて口にし、怒りと悲しみに震える。


月明かりの下、弥助は静かに誓う。「俺も行く。絶対に、生きて帰るぞ」


それは、山の掟より重い、二人だけの約束だった。


---



第5話「衛門(桃太郎伝説の犬)」



桃太郎がきび団子を腰に下げ、弥助と共に山を下り始めた時だった。


春の柔らかな日差しが木々の間から降り注ぎ、鳥たちのさえずりが響く。

風には若葉の香りが混ざり、初陣には良い日であった。


旅の道中、二人の前に見慣れない男が倒れていた。


旅立ちの期待に胸を膨らませていた桃太郎は、その男の顔を見て息をのんだ。


土埃にまみれた顔には深い疲労と絶望が刻まれ、痩せこけた体からは、かび臭い古い着物の匂いと、微かな血の匂いが漂っていた。

指先は土と垢で黒ずみ、爪は割れている。どれだけの間、彷徨い続けてきたのか——その姿だけで、言葉以上に男の苦しみが伝わってきた。


「弥助、放っておけない。庵に連れて帰ろう」


桃太郎はそう告げ、弥助と二人で男を担ぎ上げ、来た道を引き返した。

男の体は驚くほど軽く、骨の輪郭が衣服の下から浮き出ていた。飢えと疲労が、この男をここまで追い詰めたのだ。


庵の扉を勢いよく開け放ち、桃太郎は叫んだ。


「ばっちゃん!大変だ!」


「おや?早いご帰宅だねぇ、もう負けたのかい?」


祖母は楽しそうに笑いながら、孫の顔を見ていた。手にはきび団子を捏ねるための木の棒。

今日も一日、庵は甘い香りに包まれていた。


しかし、その直後に祖母の表情が凍りつく。

桃太郎と弥助が運んできた男の姿を見て、我を失う。

手に持っていた木の棒が、音を立てて床に落ち、一瞬の沈黙が破られた。


「ばっちゃん!この人が道端で倒れてたんだ。早く手当てを!」


桃太郎の必死な声に、祖母は素早く指示を出した。


「じいさんや!急いで水を!桃太郎、その人を奥の部屋へ!」


祖父も慌てて駆けつけ、三人で男を布団に寝かせた。男の着物を解くと、肋骨が一つ一つ数えられるほど痩せ細った体が露わになる。古い傷跡が幾つも刻まれていた。剣傷、おそらく戦で負ったものだ。


祖母は慣れた手つきで男の傷を丁寧に洗い始めた。水が傷口に染みるが、男は微動だにしない。気を失っているのか、それとも——生きることを諦めているのか。


桃太郎と弥助は、祖母の真剣な表情を前に、ただ黙って見守るしかなかった。


---



数日後、男はゆっくりと意識を取り戻した。


目の前にはずっと看病をしていたのか、桃太郎と弥助の姿があった。


「……なぜ、助けた」


弱々しい声で問いかける男に、桃太郎は小首をかしげ、純粋な瞳で見つめた。


「そりゃ、目の前で倒れてたら助けるだろ?」


桃太郎のあまりに当たり前すぎる言葉に、男は一瞬呆気にとられた。この世の中、助けるよりも助けられる方が珍しい。裏切り、騙し合い、生き残ることだけが正義のこの時代に、この少年は——。


乾いた声なき笑いが漏れ、やがてそれは心からの笑みへと変わっていった。その笑顔には、長年抱えていた何かが、少しだけ溶け出したような温かさがあった。


「悪いんだけど、俺たちは鬼に村が襲われててな。二人で鬼を討つために行くんだ。無理せず、しっかり回復してくれ」


桃太郎は村の現状と、自分が鬼退治に向かうことを、まっすぐに話した。

そこには偽りも誇張もない。

ただ、事実だけ。


男は桃太郎の純粋な心に触れながらも、その言葉を遮った。


知略に長けた彼の眼力は、桃太郎と弥助の未熟さを瞬時に見抜いていた。

歩き方、呼吸、体の重心の置き方——全てが「戦ったことのない者」のそれだった。


「待て…お前たちは未熟すぎる、今行っても死ぬだけだ」


男が静かに言い放った刹那、彼はまるで別人のように動き、二人の背後に回り込んで取り押さえた。


桃太郎は驚きに目を見開き、弥助は身をひるがえす間もなかった。

体を捻ろうとするが、男の手は鉄のように硬く、びくともしない。


二人の顔に浮かぶのは、圧倒的な力の差を目の当たりにした戸惑いだった。


桃太郎達は既に実力をつけていた自信があった…それゆえに、落胆も大きい。


「あと二年鍛えねば、村を守るなど夢物語で終わる。それどころか、お前たち自身が命を落とす」


男の言葉に、桃太郎は悔しそうに歯を食いしばる。

拳を握りしめ、唇を噛みしめる。

だが、その目には、それでも諦められないという強い光が混ざっていた。


「…二年あれば、あんたにも勝てるんだな!あんたの技を教えてくれ!」


「……衛門だ。」


衛門は二人の真っ直ぐな瞳に応え、彼らの師となった。


こうして、三人の厳しい修行の日々が始まった。


---



山での修行と三つの力


衛門は、桃太郎に武士としての剣術や戦の知略を教える師となった。


日の出と共に稽古は始まり、その指導は厳しかった。

竹刀が空を切る音、素振りの度に地面を蹴る音、桃太郎の息遣いが、朝霧の中に響く。


ある朝のこと。

桃太郎が竹刀を振るうたび、衛門は「遅い」「甘い」「迷いがある」と厳しい言葉を浴びせた。


「お前の剣は、『切る』ことだけを考えている。武士の剣は『守る』ためにある。何を守りたいのか、それが定まらぬ剣に、真の力は宿らぬ」


その言葉に、桃太郎ははっとした。


守りたいもの——老夫婦、弥助、村の人々。

春のように、命を懸けてでも守りたかったもの。

そして、いつか出会うかもしれない、大切な誰か。


「もっと強くなりたい。誰かを守れるほど、強く」


桃太郎の眼差しが、変わった。迷いが消え、澄んだ光が宿る。

その変化を、衛門は見逃さなかった。


竹刀が空を切る音、桃太郎の息づかい、弥助の素早い足音が、静かな山に響き渡る。


「桃太郎!踏み込みが甘い!もっと腹から声を出せ!」


衛門の厳しい声が響く。

桃太郎は何度も倒れ、手のひらに血豆を作りながらも、ひたむきに剣を振った。

手のひらは皮がむけ、血が滲む。

それでも彼は竹刀を握り直す。


衛門はまた、弥助の独特な戦闘スタイルにも目を向け、その俊敏性をさらに活かす方法を教えた。


「お前の動きは、既存の型にはまらぬ。それがお前の武器だ。無理に型に嵌めようとせず、その野生の感覚をさらに研ぎ澄ませ」


弥助の目が輝く。

これまで誰も認めてくれなかった自分の「やり方」を、この男は否定しなかった。


しかし、知略についてはお手上げで、「勉強」と聞いた瞬間に、弥助は風のように姿を消した。

木々の間をすり抜け、気づけば高い枝の上で寛いでいる。

その姿に、衛門は苦笑いを禁じ得なかった。


時々、弥助が顔を出して剣術を学ぶこともあったが、集中は長く続かず。

衛門が振り向いた時には、初めからいなかったかのように姿を消していた。


それでも、彼なりのペースで、確実に知を身につけていった。


「お前の相棒は面白いな。知略は苦手だが、動きはまるで風のようだ。あの動きは、誰にも真似できまい」


衛門が感嘆の声を漏らすと、桃太郎は笑って答えた。


「だろ?弥助は山の子だからな。俺も剣術は独学で、こうして教えてもらったのは師匠が初めてだ」


「師匠……か……」


衛門は、桃太郎の純粋な言葉に少し照れた。彼の手が、無意識に膝の上で握られる。

長年、誰からも「師匠」と呼ばれることなどなかった。

いや、呼ばれる資格などないと思っていた。


だが桃太郎が師と敬う以上に、衛門本人は桃太郎へ忠義を尽くそうと誓っていた。

桃太郎を弟子としてではなく、主として見ていたのだ。

この少年に、自分が果たせなかった夢を託したい——その想いが、彼の胸の中で静かに燃えていた。


互いにないものを教え合い、三つの力は旅立ちの日に向けて磨かれていった。


---



衛門の回想:砕け散った誇り


ある晴れた日の昼食時、厳しい稽古を終えた三人は、庵で食事をとっていた。


その日の食事は、お婆さんが作ってくれた具沢山の汁物。

湯気から香ばしい味噌の香りが漂い、摘み立ての山菜が彩りを添えている。

桃太郎と弥助が山で採ってきた筍が、柔らかく煮込まれていた。


衛門は温かい汁をすすりながら、遠い昔の記憶を語り始めた。


「俺は、都で名の知れた武士だった。主の盾となり、多くの戦で武功を上げてきた。故郷を離れ、家族にもなかなか会えなかったが、それでも幸せだったと思う。何よりも妻と幼い娘の笑顔が、俺の生きる意味だった……」


衛門がそう語り始めると、二人は箸を置き、耳を傾けた。

弥助の目から、いつもの悪戯っぽさが消えている。


「俺は主の命により、日ノ本の行く末を左右する重大な密書を託されていた。しかし、敵対する派閥の罠にかかり、その密書は偽物とすり替えられた。偽の密書には、主が敵国と内通していたという濡れ衣が書かれていた。俺は主の潔白を証明するために奔走した。だが、誰も俺の言葉を信じなかった。かつて俺を称賛した者たちは、冷たい目で俺を見下し、『裏切り者の犬め』と罵った。名誉も、地位も、身分も、すべてが剥奪された。俺はただの罪人となり、都から追放された」


衛門の声は、語るにつれて低くなっていく。


「妻は……私をかばって、処刑された。最後に『すまない』と言い残して——」


衛門の声が、かすかに震えた。その手に持った椀が、わずかに揺れる。


「私が言うべき言葉だったのに。私が、彼女に謝らねばならなかったのに……」


生きる希望も、守るべき家族も、夢も、すべてを失った。

ただの名もなき男になったのだ。


衛門は、その時の絶望的な孤独を語った。


道中、飢えと疲労で倒れ、汚れた姿で人々の嘲笑を浴びた。

かつて誇り高かった武士の姿は、どこにもなかった。

鏡を見れば、そこにいるのは見知らぬ痩せ細った男。

自分の名前すら、名乗る資格があるのかわからなかった。


故郷にたどり着くこともできず、ただ死に場所を求めてさまよっていた。


そして、この村にたどり着き、力尽きたのだ。


---



衛門が語り終えると、庵の中に重い沈黙が満ちた。

囲炉裏の火だけが、パチパチと音を立てている。


桃太郎は、固く握りしめた拳を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で衛門を見つめている。

唇を噛みしめ、何かを必死に堪えているのがわかった。


弥助は、いつもは悪戯っぽく輝く瞳から光が消え、ただ黙って話を聞いていた。

彼の手は、いつの間にか膝の上で固く握り合わされている。


「そんな……」


桃太郎が、絞り出すような声で呟く。


衛門の誇りが、家族の笑顔が、一つ残らず踏みにじられた話は、桃太郎の心を締め付けた。

自分が「正義」と信じてきたものが、一瞬で崩れ去る恐怖——それをこの男は、身をもって経験したのだ。


その時、衛門はさらに言葉を続けた。


「……さらに、都を追われる前に、私は娘も失った」


桃太郎と弥助は、息をのんだ。


「まだ二歳だった。目のまん丸な、可愛い子でな。『つぶら』と名付けた」


衛門の目は、遠くを見ていた。

囲炉裏の火が、その横顔を揺らめかせる。

その瞳に映るのは、二十数年前の、小さな娘の姿だろうか。


「あの混乱の中で……妻は処刑され、娘とは離ればなれになった。生きているかどうかも……わからん。あの子は、私の顔も覚えていないだろう。名前さえも……」


「探しているんですか?」


桃太郎の問いに、衛門は静かにうなずいた。


「探している。ずっと探している。だが、戦乱の世だ。手がかりすら掴めぬまま、二十年以上が過ぎた」


沈黙が流れた。

囲炉裏の薪が、パチリと音を立てる。

その音が、やけに大きく聞こえた。


「もし生きているなら、今頃二十七歳か。もう、私の顔も覚えているまい。もしかしたら、もう……この世にいないかもしれない」


衛門は、懐からぼろぼろになった小さな産着を取り出した。

それは、何度も握りしめられたかのようにくたびれていた。

かつて桃色だったであろう布地は色あせて判別も難しい。

だが、かすかに残る刺し子の模様が、母親の愛情を物語っていた。

隅には、小さな手で握ったかのような、微かな皺がある。

衛門の指が、その皺をそっとなぞる。二十五年、毎日のように繰り返してきた仕草だった。


「これだけが……唯一の手がかりだ」


桃太郎は何も言えなかった。

ただ、衛門の背中が、ひどく小さく見えた。

どんなに強い男でも、守れなかったものの前では、こうも無力になるのか。


---



「そんな俺を、お前たちは助けてくれた。俺が失ったものが、ただ着飾った栄光に過ぎぬと悟らせてくれた。礼を言う」


衛門は、汁物の器を両手で包み込み、桃太郎と弥助をまっすぐに見つめた。

その目に宿る光は、かつての絶望の影を拭い去り、新たな希望に満ちていた。


「俺はもう、名もなき男ではない。お前たちの、そしてこの村の衛門だ。この村で——お前たちと共に生きる。それで十分だ」


衛門の言葉に、桃太郎は涙をぬぐい、力強く頷いた。

彼の目には、決意の光が宿っている。


「おっさん!いつか娘さんも見つけようぜ!俺と桃太郎も探すから!」


弥助は立ち上がり、衛門の肩にそっと手を置いた。

その手には、言葉以上の確かな連帯感がこもっていた。

普段は軽口ばかりの弥助が、今はただ、無言でその温もりを伝えている。


三つの魂は、ここで、一つになった。


---


その夜、皆が寝静まった後、衛門は一人、庵の裏手の丘に座っていた。


月は満ちていたが、雲が時折その光を隠す。

風が木々を揺らし、遠くで川のせせらぎが聞こえる。


衛門は、懐からあの産着を取り出した。

ぼろぼろで、もう元の模様も消えかけている。

それでも彼は、その布を手放せずにいた。


「つぶら……」


名前を呼ぶ声は、風に消え入りそうだった。


「お前は、今どこで生きている。元気にしているか。飯は食えているか。誰かに……大事にされているか」


産着を握る手が震える。

布の端を撫でる指先は、娘の面影を探しているようだった。

彼は産着を月明かりに透かして見た。薄くなった布地の向こうに、月がぼんやりと滲む。そこには何も見えない。ただ、二十五年分の時間だけが、布の目をくぐり抜けていく。


「私は……父として、何もしてやれなかった。母も守れず、お前も守れず……」


月が雲から顔を出す。

その光が、衛門の頬に一筋の線を描いた。


「すまなかった……すまなかった……」


その言葉は、何度も繰り返された。

二十数年間、言えなかった言葉。

言いたくても、言える相手がいなかった言葉。


遠くで、夜鳥の声が聞こえる。

弥助の笑い声ではない。桃太郎の穏やかな声でもない。


衛門は、産着を胸に当て、そっとしまった。そして、立ち上がった。


「……必ず、生き延びる。生き延びて、いつか必ず……」


彼は、月を見上げた。

もしかしたら、同じ月を娘も見ているかもしれない。その願いだけが、彼の心の支えだった。


---



翌朝、衛門は三人で囲む朝餉の席で、差し出されたきび団子を手に取った。


まだ湯気が立っている。素朴な丸い形。表面には、焼き色がほんのりとついている。


彼はそれを一口かじった。


素朴な甘さと、穀物の香りが口の中に広がる。彼はゆっくりと噛みしめた。二度、三度。その目が、徐々に遠くを見るようになる。


団子を噛むたびに、彼の脳裏に別の映像が浮かんでいた。囲炉裏の前で、妻が団子を丸めている。その隣で、つぶらが真似をして小さな手で団子を握っている。粉だらけの手で、彼女は笑っていた。「父上、見て!」——まだ舌足らずな声で、彼女は団子を差し出した。あの団子は、ひどく歪で、ところどころ粉が固まっていた。


衛門は、もう一口団子をかじった。

今度は、ゆっくりと味わうように。

その目は、かすかに潤んでいたが、口元は確かに、笑みの形を作っていた。


「……美味いな」


その一言だけを、彼は静かに言った。


---


夜が明ければ、また厳しい修行の日々が始まる。


桃太郎たちは、鬼ヶ島への旅立ちに向けて、さらに力を磨いていく。


衛門の教えは、単なる剣術だけではない。

武士としての誇り、守るべきものの大切さ、そして——失ってもなお、前に進むことの意味。


彼らの旅路は、まだ始まったばかりだった。


---


【次回予告】


旅は、新たな局面を迎える。


一人の少女が、彼らの前に現れる。


その名は、時雨。


復讐だけを生きがいにしてきた彼女は、桃太郎に近づく——利用するために。


だが、彼女はまだ知らない。


この出会いが、自分の運命を大きく変えることを。


そして、きび団子が、冷え切った彼女の心を溶かしていく——。


---


次回、第6話「時雨(桃太郎伝説の雉)」


---


【第5話・完結】

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