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時雨の焼印【特別盤】  作者: 太幽


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第7話「鬼ヶ島、そして真実」

──前回までのあらすじ──

鬼退治の旅の途中、一行の前に現れた少女・時雨。彼女は八歳の夜、貴族の娘として育った屋敷で、家族が皆殺しにされる瞬間を目撃していた。「鬼ヶ島に仇がいる」——その言葉だけを胸に、七年間、復讐だけを生きがいに忍びの技を磨いてきた。


利害の一致から旅に同行する時雨だったが、桃太郎が差し出したきび団子に心が揺らぐ。「おいしい」——冷え切った彼女が初めて漏らしたその言葉は、氷の心に小さな亀裂を入れた。


さらに、彼女が密かに作った失敗作の団子を、桃太郎は「美味い」と笑って平らげた。団子作りの最中に負った手首の小さな火傷——その痕を、彼女は無意識になぞるようになる。


その夜、時雨は初めて「復讐」以外の何かを胸に抱く。氷が溶けるように、ゆっくりと、しかし確かに——。


鬼ヶ島は、もうすぐそこまで迫っていた。


---




第7話「鬼ヶ島、そして真実」



彼らの旅は平坦なものではなかった。


船を乗り継ぎ、荒波を乗り越え、ついに鬼ヶ島へと向かう。

潮風が顔を叩き、波しぶきが甲板を濡らす。

何度も転覆しそうになりながら、彼らはただ前を見つめていた。

握りしめた拳は白くなり、海図を指でなぞる指先は震えていた。


海風は肌を刺すように冷たく、桃太郎たちの胸は、これから始まる戦いへの期待と、故郷の悲劇への怒りで高鳴っていた。


彼らは疑うことなどなかった。


自分たちが進む道こそが正義であり、辿り着く先で滅ぼす鬼こそが絶対的な悪であると。


その確信が、彼らの心を燃え上がらせていた。

桃太郎の目には、春の血塗られた食料庫の光景が焼きついている。

弥助の鼻には、あの異様な匂いがまだ残っている。

衛門の耳には、村人たちの慟哭が今も響いている。


---


鬼ヶ島へ向かう道すがら、彼らは鬼によって滅ぼされた小さな漁村に立ち寄った。


家々は焼け落ち、炭になった柱からは、まだ煙がくすぶる。

かつて人が暮らしていた痕跡が、無残な姿をさらしていた。

漁網は焼け焦げ、船は海辺でひっくり返っている。


弥助は、村の入り口で足を止めた。風が、焦げた木と、生温かい鉄の匂いを運んでくる。彼の鼻が、わずかにひくついた。その奥に、別の匂いがあった——汗と、恐怖と、そして乳の匂い。彼はその匂いの方を見た。焼け落ちた家の隅に、ひっくり返った揺り籠があった。中は空だった。弥助は、それ以上その匂いを嗅ぐことができず、鼻を腕で覆った。


カラスが一羽、焼け跡に舞い降りた。嘴で何かを引きずり出す。それは小さな布きれだった。桃色。カラスはそれを咥え、飛び去った。


この惨劇に桃太郎は、言葉を失った。


彼は拳を強く握りしめ、歯を食いしばる。

握りしめた拳から、血が滴り落ちていた——無意識に、爪が掌に食い込んでいたのだ。

痛みさえ感じない。

それほどまでに、彼の心は憤怒で満たされていた。


「鬼め……!なんてことを……!」


その声は、怒りと共に、かすかな嗚咽を含んでいた。

彼の喉の奥で、何かが詰まったように震えている。


しかしその一方で、胸の奥で何かが囁いていた。

(本当に……これは、鬼と呼ばれる妖怪の仕業なのか?)


その問いは、彼自身によってすぐに打ち消された。

今は、そんなことを考えている場合ではない。

目の前の惨状に、正義の怒りを燃やすべき時だ。


弥助もまた、全身を震わせ、今にも飛び出しそうな勢いで、鬼ヶ島の方角を睨みつけた。

彼の鼻が、風の匂いを嗅ぎ分ける。

山で培った野生の嗅覚が、今、この場の空気の全てを分析している。


「この匂いだ……!十兵衛さんの家で嗅いだ匂いと同じだ!間違いない!」


弥助は、地面に落ちていた、人の形をした何かの残骸を指さした。

それは、もはや人間のかけらとも言えないほどに、無残に砕け散っていた。

誰かの父だったのかもしれない。

誰かの子だったのかもしれない。

誰かの愛しい人だったのかもしれない。


「……卑劣な真似を……!」


衛門は、その光景を静かに見つめていた。


彼の表情は変わらない。

長年生きてきた武士は、感情を表に出さない術を知っていた。

だが、その瞳の奥には、冷たい怒りの炎が燃え上がっているのが見て取れた。

愛弟子たちの住む場所を破壊する鬼への怒り——それは、自分がかつて味わった裏切りの感情にも似ていた。

あの時、自分もまた、守るべきものを奪われた。

この村の人々も、同じなのだ。


時雨は、ただ黙って、村の惨状を記録するかのように、隅々までその光景を目に焼き付けていた。


彼女の目は、焼け落ちた家々を、砕け散った骨を、血に染まった地面を、一つ残らず見つめている。

その瞳には、一切の感情が宿っていないように見えた。


彼女は、鬼の正体を知っている。


その殺戮と破壊の光景は、彼女が「鬼」と呼ぶ者たちの下劣さ、そして彼女の復讐の正当性を証明するものだと、冷ややかに受け止めていた。


(人で無し——、鬼の仕業だ。私の家族も、こうして殺された——)


彼女の心は、憎しみで再び燃え上がっていた。


しかし、彼女の右手は、無意識に左手首をなぞっていた。火傷の痕はもう消えている。それでも彼女の指は、そこを確かめるように往復する。憎しみに心が支配されそうになるたび、その指の動きだけが、彼女を別の場所に繋ぎ止めているようだった。


---



一行は船に乗り込んだ。


漁村の惨状は、彼らの心に重くのしかかっていた。

誰も言葉を発しない。

張りつめていた怒りの熱が冷め、代わりに沈黙が船を支配していた。

波の音だけが、虚しく響く。

櫂を漕ぐ音が、規則正しく、しかし重々しく刻まれる。


最初に口を開いたのは、弥助だった。


「なぁ、桃太郎。本当に、あれは妖怪の仕業なのか……?」


弥助の声は、どこか怯えを帯びていた。

彼は、今までの戦いで感じた、言葉にできない違和感を思い出していた。

あの時、鬼の匂いだと決めつけたものは、ただの血と汗と、恐怖の匂いだったのではないか——。

山で培った嗅覚が、今になって警鐘を鳴らしている。

彼の鼻は、これまで何度も獲物を見極めてきた。

獲物の匂いには、必ず「目的」の匂いが混ざっている。

食うために殺すのか、縄張りを守るために殺すのか。

でも、あの村の匂いには、それがない。

ただ、生々しい死の匂いだけがあった。


桃太郎は、弥助の問いにすぐには答えられなかった。


彼もまた、心の中に拭いきれない疑念を抱えていたからだ。

あの男が差し出した桃色の布——あれは、本当に「妖術」だったのか?あの布を握りしめた手は、確かに震えていた。

妖術を使う者の手が、そんな風に震えるものなのか?


「弥助……」


桃太郎が口を開こうとしたその時、衛門の声が響いた。


「臆病風に吹かれるな。あれは鬼の妖術だ。人の心を惑わせるために、無残な姿を晒しているに過ぎん。貴様らの村が襲われた事実がある以上、我らの正義は揺るがない」


衛門の言葉は、桃太郎の心に響いた。

そうだ、これは正義の戦いだ。

鬼ヶ島の頭領こそが、十兵衛の娘を殺した張本人なのだ。

この確信が、彼の心を支えていた。


そう自分に言い聞かせることで、桃太郎は心の均衡を保とうとした。


しかし、その表情は晴れず、彼の剣を握る手は、微かに震えていた。

その震えは、恐怖なのか、それとも——。


その横で、時雨は黙って空を見上げていた。


彼女の瞳には、一切の感情が宿っていなかった。

だが、その瞳の奥底で、かすかな揺らぎが生まれつつあった——弥助の言葉が、彼女の心にもわずかな影を落としていたのだ。

七年間信じてきた復讐の道。

その道が、本当に正しかったのか——初めて、その疑問が彼女の心に顔を出した。


彼女の指が、また手首をなぞる。火傷の痕があった場所。誰かのために何かをしようとして、失敗した証。その記憶だけが、彼女の心の中で復讐とは別の場所に、小さな灯りをともしていた。


---



海の上でも、鬼の追手はやってきた。


小さな船に乗り込んだ四十人ほどの男たちが、武器を片手に襲いかかってくる。

彼らの船は粗末で、帆は破れ、板は所々が腐っていた。

波にもまれるたびに、船体がきしむ。

そんな船で、よくここまで来たものだ。


「人間に化けた鬼め!成敗してくれる!」


桃太郎は怒りに任せ、剣を構えた。彼の声は、少し上ずっている。

自分自身に言い聞かせているかのようだった。


だが、その男たちの姿は、旅の道中で出会った貧しい農民たちと何ら変わらなかった。


彼らは、飢えと疲労で顔色が悪く、その目は、恐怖と絶望に満ちていた。

彼らの武器は、農具を打ち直しただけの粗末なものだった。

鍬、鎌、熊手——本来は土を耕すための道具が、今は血を吸う刃となっている。

服はぼろぼろで、痩せこけた腕には、骨の輪郭が浮き出ていた。


桃太郎は、その違和感をぬぐい去ろうと、自分に言い聞かせた。


「これは鬼の妖術だ。人の姿に化け、我らを惑わせようとしているだけだ。騙されてはならない、これは正義の戦いだ」


彼の声は、次第に大きくなる。

大きくなるほどに、その言葉の空ろさが際立つ。


弥助もまた、同じ違和感に襲われていた。


彼は、本能的に相手の殺気や匂いを感じ取るが、この男たちからは、ただ生きることに必死な、弱い者の匂いしかしない。

恐怖の匂い、絶望の匂い——それだけだ。彼らは、自分たちの船に乗り込むその手さえ、震えていた。

その震えは、敵に襲いかかる者の震えではない。

恐怖に震える、逃げ出したいのに逃げ出せない者の震えだった。


それでも、「きっと鬼の恐ろしい妖術だ」と、頭の中で必死に言い聞かせ、木の枝を構えた。


——彼の手も、震えていた。


戦闘が始まった。


桃太郎と弥助の攻撃は、正確に相手を捉えた。

しかし、彼らが斬り倒した「鬼」は、悲鳴をあげ、血を流し、まるで人間のように息絶える。

その悲鳴は、山で聞く獣の断末魔とは違った。

——「うっ……」

——「かあっ……」

——「たすけて……」

——「やめて……」

言葉にならない、しかし確かに「人間」の声だった。

倒れた者の手が、何かを掴もうと虚空をさまよう。

その指先が、桃太郎の足に触れた。

冷たい…死んだ者の指は、こんなにも冷たいのか。


「鬼め!なんて卑劣!ここまで擬態されたらやりにくい!」


桃太郎は叫んだ。


それは、相手への怒りではなく、自分の心に巣食う違和感を打ち消すための、悲痛な叫びだった。

剣を振るうたび、彼の心は少しずつ削られていった。

振り下ろすたびに、何か大切なものを失っているような感覚。

それでも、止めることができなかった。

止めたら、自分がこれまで信じてきたものが、全て崩れてしまう。


---


その時、一人の男が桃太郎の前に立ちはだかった。


男は武器を構えるのではなく、震える手で懐から小さな布を取り出した。

それは、幼子が喜びそうな、明るい桃色の着物の切れ端だった。

母親が娘の成長を願って縫ったのだろう——粗い縫い目だが、愛情が込められていた。

布には、かすかに刺し子の模様が残っていた——あの日、衛門が見せた産着と同じ、母の愛情の証。


男の目には、怒りも憎しみもない。ただ、必死な願いだけがあった。

その目は、何かを懇願している。

それは、自分の命を助けてほしいという願いではない。


もっと別の——もっと大切な何か。


「た……頼む……これだけでも……!娘に……」


男は、か細い声でそう懇願し、桃太郎にその布を差し出そうとした。

その手は、握りしめた布を離すまいとしているのか、それとも相手に渡すまいとしているのか、わからないほど激しく震えていた。


桃太郎は躊躇った。


この男の手の震え——それは、自分が初めて熊を仕留めた時の手の震えと、どこか似ていた。

あの時、自分は震えながらも、獲物に止めを刺した。

でも、それは生きるためだった。

この男は、何のために震えているのか。

娘に、せめて形見だけでも——その一心なのか。


その一瞬の隙に、衛門の剣が男を貫いた。


「桃太郎!気を散らすな!」


衛門の声に、桃太郎はハッとした。

男の体が、ゆっくりと前に倒れる。

その手から、桃色の布がはらりと舞い落ちた。

布は風に乗って、海へと消えていった。

海面に落ちた布は、一瞬ふわりと浮かび、そして波に攫われて、見えなくなった。


倒れた男の目からは、静かに、けれど熱を持った、涙が流れていた。

その顔は、恐怖と後悔に歪んでいた——いや、それは後悔ではなく、娘に会えなくなる無念だったのかもしれない。

男の唇が、最後に何かを動かした。


「ゆる……せ……」——そう言っているように見えた。


男の最期の言葉は、桃太郎の心に深く突き刺さった。


時雨は、その光景をただ見つめていた。桃色の布が海に消えるまで、彼女の目はそれを追っていた。あの布は、誰かの娘に届くはずだった。届かなかった。その事実が、彼女の胸の奥で、かすかに疼いた。


彼女の指が、また手首をなぞる。火傷の痕があった場所。誰かのために何かをしようとした証。そして、届かなかった証でもあるかのように。


---



ほとんど無傷で、鬼ヶ島の中枢部へとたどり着いた桃太郎たちは、自分たちの勝利に疑いを抱いていなかった。


しかし、そこで彼らが見たのは、想像とは全く違う光景だった。


食料を好き勝手に飲み食いする盗賊の姿はなく、そこには飢えと疲労で今にも倒れそうな老人や、痩せ細った子供たちがいた。


ひび割れた大地から生えた雑草を口にする子供、凍える体で互いに寄り添い合う老人たち。

彼らの目は虚ろで、もはや生きる希望すら失っているかのようだった。

母親の腕に抱かれた乳児は、弱々しく泣いている。


その声さえ、かすれていた。


それは、かつて桃太郎が見た光景と同じだった。

第一章で描かれた、あの飢饉の村と——何一つ変わらなかった。

土の匂い、飢えの匂い、諦めの匂い——全てが、あの日の十兵衛の家と同じだった。


桃太郎は、自分の足が止まるのを感じた。目の前で、一人の子どもが地面にしゃがみ込み、雑草を引き抜いている。子どもはその根についた土を、服の裾で拭いもせず、そのまま口に入れた。噛む。また噛む。飲み込む。その間、子どもは一度も桃太郎を見なかった。見る余裕がないのか、見る価値もないと思っているのか——桃太郎にはわからなかった。


桃太郎たちを見て、彼らは震え上がった。

母親にしがみつく小さな子どもが、か細い声で泣き叫んだ。


「かぁちゃん、怖いよ……鬼が攻めてきた……」


その言葉が、桃太郎の頭の中で、雷鳴のように響き渡った。


「俺が…鬼……?」


その瞬間、桃太郎の脳裏に、これまでの旅路の光景が走馬灯のように駆け巡った。


村の飢饉、十兵衛の家の惨状、春の死、十兵衛の絶望。

そして、自分たちが斬り倒してきた「鬼」たちの悲鳴……。

彼らが最期に発した言葉は、呪いではなく、懇願だった。

「たすけて」「やめて」「ゆるして」——全てが、恐怖と絶望の言葉だった。


そして、船上で男が差し出した、幼子の着物の切れ端。

あれは、妖術の道具ではなかった。

娘への…たった一つの想いだった。


すべての記憶が、一つの真実を突きつけた。


桃太郎自身が、今、「鬼」と呼ばれた。


その言葉は、彼の信じてきた「正義」のすべてを、音を立てて崩壊させた。

彼の心の中で、何かが、大きな音を立てて崩れた。


---


衛門もまた、その事実にたどり着いた。


彼は、鬼の正体を人間だと知っていた。

最初から、そうではないかと疑っていた。

自分のように、何かを失い、生きるために必死になった人間たち——それが鬼の正体なのではないかと。


しかし、そのことを桃太郎たちに告げずに来たのは、自分もまた「鬼」として生きてきたからだ。

娘を探すことだけを支えに、他人の命を奪うことを厭わなかった。

その手は、血に染まっている。

自分も、彼らと同じだったのだ。


(私は、何をしてきたんだ——)


衛門の心に、深い後悔が押し寄せた。

剣を握る手が、わずかに震える。

この手で、どれだけの命を奪ってきたのか。

その命の一つ一つに、守るべき家族がいたかもしれないのに。


弥助も遅れて、真実を理解した。


彼は、目の前の光景が、これまでの戦闘で感じた違和感の正体であることを悟った。

彼らが斬り倒してきたのは、鬼の姿をした人間ではなく、ただ生きるのに必死な人間だったのだ。

彼らにも家族があり、守るべきものがあり、そして——娘に届けたかった桃色の布があった。


(俺の嗅覚は、最初からわかっていたんだ——)


弥助は、自分の鼻を恨んだ。

わかっていながら、目を背けていた自分を。

山の掟——「獲物に慈悲は無用」。

でも、獲物が人間だったら?その問いを、ずっと見ないふりをしていた。


時雨は、目の前にいるのが、破壊と殺戮を好んで行う集団ではなく、飢えに苦しむ罪なき人々であることに気づいた。


彼女は、彼らがわずかな水や食糧で飢えを凌ぎ、剥ぎ取った衣服で寒さを凌いでいる姿を見た。

それは、かつての自分と同じ——生きるために必死な人々の姿だった。

廃寺で、木の実をかじり、寒さに震えていたあの日々。

——同じだ。

彼らは、自分と同じだった。


彼女の復讐は、思っていた敵との対峙ではなく、ただ生きるのに必死な貧民を相手にしていたという事実を突きつけられた。


その瞬間、彼女の心に後悔と絶望の波が押し寄せた。


(私が七年間追い求めた復讐は…こんな現実だったのか?奪い、殺し、その上で楽しんでいる——そんな想像をしていた。)


彼女の立っている場所が、ぐらりと揺れたように感じた。

支えていたものが、全て崩れ去っていく。


彼女の指が、手首を強くなぞった。もう消えた火傷の痕。誰かのために団子を作ろうとして、失敗した証。その記憶だけが、今の彼女を支えていた。復讐ではない、別の何かの記憶が。


---



桃太郎たちは、自分たちが滅ぼしてきた「鬼」が、ただ生きるのに必死な貧困民だったことを悟る。


そして、彼らが信じてきた「正義」が、この悲劇的な現実の前で、いかに脆く、不確かなものだったかを突きつけられた。


桃太郎は、自分が手にかけた人々のことを思い出し、その場で膝から崩れ落ちた。


「……俺は……俺は一体……何を……」


その声は、震えていた。

彼の瞳からは、大粒の涙がとめどなく溢れ出した。

一度流れ出した涙は、止まることを知らなかった。

地面に手をつき、声を殺して泣く。

その背中が、激しく震えている。


脳裏を駆け巡るのは、斬り捨てた者たちの顔。

その中に、あの「桃色の布」の男もいた。娘への形見を差し出そうとした、あの哀れな父も。

彼らは皆、誰かの父であり、誰かの子だった。そして今、目の前で震える子供たちは、彼らを「鬼」と呼んでいる——自分たちのことを。


「俺は……俺は……」


言葉にならなかった。

何を言えばいいのか。

何を言えるのか。

自分たちがやってきたことを、何と言い訳すればいいのか。


桃太郎は、自分が背負ってきた「正義」が、どれほど空虚なものだったかを悟った。


桃太郎の手が——また小刻みに震えていた——


「十兵衛……俺は……」


桃太郎の脳裏に、十兵衛の悲劇が重なった。


妻子を守ろうとして飢えと絶望に苦しみ、幼子を手放した十兵衛。

その悲痛な叫びは、まさに今、目の前で自分たちに「鬼」と叫び、家族を守ろうとしていた人々と重なった。

十兵衛も、誰かに「鬼」と呼ばれていたのかもしれない。

生きるために必死になる者のことを、人は「鬼」と呼ぶ。

ならば、生きるために戦った自分たちも——。


あの時、娘の死を目の当たりにして絶望した十兵衛の顔は、自分たちが殺めた男の最期の顔と何一つ変わらない。


むしろ、自分たちが十兵衛の絶望を、幾度となく生み出してしまっていたのだと気づいた。

あの船上の男にも、きっと十兵衛のような絶望があった。

娘を置いて死んでいった、無念と後悔が。


---


桃太郎は、自分たちが船上で討ち取った男の、最後の懇願を思い出した。


「た……頼む……これだけでも……!娘に……」


あの時、桃太郎は躊躇った。

男の震える手が、差し出す布が、なぜか彼の心を揺さぶった。

そのわずかな隙に衛門が男を斬り捨てた。


桃太郎は、その男が差し出した桃色の布が、娘に与えるためのたった一つの宝物だったと悟った。

きっと、村に残してきた幼い娘に、せめてもの形見を——そう思ったのだ。

盗んだ宝物ではない。

奪った戦利品でもない。

ただ、父が娘を思う、たった一つの気持ちだった。


そして、自分たちが、その宝物を奪い、家族の希望の光を消し去ってしまったという事実に、吐き気を催した。

胃の奥から、何かがこみ上げてくる。

地面に手をつき、胃液を吐いた。涙と混ざり合い、土の上に広がる。


これまで、村を守るという「正義」を信じ、鬼を討つことに非情になれた。


しかし、その正義は、自分たちを餓えから救ってくれた「桃」のように、誰かの悲劇の上に成り立っていた。


名も知らぬ、本当の親が想いを込めて川に流してくれなかったら…自分は生きていなかった。


桃太郎は声を振るわせながら強い口調で叫んだ。


「思い上がっていた…生きるために必死だったんだ…環境が人を鬼に変えたのだ!」


自分たちが「鬼」と呼んだ者たちもまた、生きるために必死だった。

彼らが略奪したのは、生きるための糧だった。

奪われた側は悲しみ、奪う側もまた悲しんでいる。

その連鎖のどこに、正義があるというのか。


桃太郎は、自分の喉からこみ上げてくる嗚咽を抑えきれなかった。

「…畜生!」

地面に手をつき、声を殺して泣いた。

彼の背中が、何度も何度も上下する。


自分たちが斬り捨てたのは、悪鬼羅刹ではなく、ただただ生きることに必死な、十兵衛と同じ哀れな人間だった。


彼らは自分たちの村を守るための鬼であり、自分たちは、彼らにとっての鬼だった。


この矛盾が、桃太郎の心を容赦なく打ち砕いた。


---


時雨もまた、深い後悔に打ちひしがれていた。


復讐の炎に燃え、父と母の仇を討つことだけを信じてきた。七年間、それだけを支えに生きてきた。それが、彼女の全てだった。


だが、彼女が追い求めた復讐の正体は、思っていた敵との対峙ではなく、ただ生きるのに必死な貧民を相手にしていたという事実だった。

自分が斬った者たちも、この島で震える者たちと同じように、飢えと絶望の中で必死に生きようとしていただけなのだ。


彼女の脳裡に、父の手紙の言葉が蘇る。「父は、お前を愛している」。


父が望んだのは、こんな復讐だったのか。娘が血に染まり、罪なき人々を斬ることを、父は望んでいたのか。


否。

父が望んだのは、ただ娘の幸せだけだったはずだ。刀を振るう手ではなく、笑顔で生きる娘の姿を、父は見たかったはずなのに。


その思いが、彼女の心をさらに深く苛んだ。彼女の胸の中で、何かが音を立てて崩れた。七年間、彼女を支え続けた復讐の炎が、今、音を立てて消えようとしていた。


——「父は、お前を愛している」


擦り切れた手紙の文字が、脳裡をよぎる。父の愛は、こんなことを望んでいたのだろうか。

娘が復讐に狂い、罪なき人々を殺めることを、望んでいたのだろうか。


否——違う。


父が望んだのは、ただ一つ。

娘の幸せだけだったはずだ。

あの手紙には、それだけが書かれていた。復讐をしろとは、どこにも書いていない。

ただ、「愛している」と。それだけが、父の伝えたかったこと。


そして更に、彼女の心に大きな後悔と絶望の波が押し寄せた。


自分は、何のために七年間も修行を積んできたのか。

自分は、何のために生きてきたのか。

復讐のために。それだけのために生きてきた。

その復讐が、間違いだったと気づいた今、自分には何が残っているのか。


その答えが、今、崩れ去ろうとしていた。


(私は——私は、何のために——)


彼女は、自分の頬に何かが触れるのを感じた。生温かい。それが何かわからず、彼女は指でそれに触れた。指先が濡れた。彼女はその指を、月明かりに透かして見た。何もついていない。ただ、濡れているだけだった。七年ぶりの涙は、彼女が思っていたよりずっと静かで、そしてずっと温かかった。


彼女のもう片方の手は、手首をなぞっていた。火傷の痕。団子を作った夜の記憶。復讐ではなく、誰かのために何かをしようとした、たった一度の記憶。その記憶だけが、崩れゆく彼女の心を、かろうじて繋ぎ止めていた。


「私が復讐するのは、島全体ではない…指示を出した者、実行犯だ!」


島の民全てを悪と決めつけていた時雨は、一人冷静に鬼と戦う決意を固めた。


---


夕日が海に沈み、鬼ヶ島は闇に包まれようとしていた。


赤く染まった空が、やがて紫へ、そして深い藍色へと変わっていく。

海面に映る最後の光が、揺らめきながら消えていく。


四人は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

彼らの心には、言葉にできない虚無だけが広がっていた。何を言えばいいのか。

何を思えばいいのか。

誰にもわからなかった。


彼らの前に広がる真実は、あまりにも重く、残酷だった。


この後、彼らは新たな決断を迫られることになる。


月が、雲の間から顔を出した。

その光は、四人の影を静かに照らしていた——まるで、これから始まる「月光の誓い」を予感させるかのように。

冷たい月明かりが、彼らの心に少しずつ染み込んでいく。

絶望の先に、何かを見つけるために。


頭領との対話、時雨の復讐の行方、そして、許しという名の光が、この島に訪れるのか——。


---


【次回予告】


真実を知った四人は、深い絶望の淵に立たされる。


時雨の前に、ついに仇である頭領が現れる。


復讐を遂げる時——しかし、その先に待つものは、虚無か、それとも……。


そして、桃太郎が下す、新たな決断とは。


---


次回、第8話「鬼の真実と新たな決意」


---


【第7話・完結】

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