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時雨の焼印【特別盤】  作者: 太幽


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第3話「希望の誕生と残酷な出会い」

──前回までのあらすじ──

飢饉の時代。十兵衛は妻を亡くし、生まれたばかりの息子「光」を、僅かな希望を託して桃と共に川へ流した。

長男・宗助は、家族を守ろうと山で命を落とす。

長女・春は、母の代わりに赤子を抱き、懸命に生きた。


それは、あまりにも残酷な、それでも真実かもしれない——『桃太郎』誕生の物語。


---

第3話:希望の誕生と残酷な出会い




夜が明ける頃、朝日は川面に温かい光を落としていた。


風もなく、水面は鏡のように空を映している。


川岸の石は夜露に濡れて黒く輝き、時折、小魚が跳ねる音が静寂を破る。


老夫婦は、朝早くから畑仕事に精を出し、その日の糧を得ていた。


「もう年だなぁ。昔はこんなに腰が痛むことはなかったんだが」


「まあ、そう言わずに。お腹が空いては畑も耕せませんよ」


夫婦が軽口を叩き合いながら、日課の川沿いの散歩をしていた。二人の足音は柔らかな土の上に沈み、朝露が草鞋を濡らす。


その目は、今日も一日生きられたことへの感謝で満ちていた。

年を重ねてもなお、こうして二人で朝の光を浴びられる幸せを噛み締めていた。


川からは、いつものように、腐りかけた木の実や、朽ちた枝ばかりが流れてくる。


しかし、その日はそれとは別に、見慣れない木箱が流れてきた。


川の流れに逆らうように、岸辺へと静かにたどり着く、明らかに人の手で作られた頑丈な木箱だった。


朝日に照らされて、木箱の表面がほのかに金色に輝いている。


「おや、なんだろうね……」


老夫婦は顔を見合わせ、恐る恐るその箱に近づいた。


湿った木材の匂いと、熟したような桃の匂い、川の水の冷たさが混ざり合う。


耳を澄ますと、木箱の隙間から、か細い泣き声が聞こえてきた。


それは、か弱く、消え入りそうな声だったが、確かに赤子の声だった。


「もしかして、箱の中におるのかい?」


老人は震える手で、木箱の蓋を開けた。

その手は、若い頃のように力強くはない。


それでも、この箱の中に赤子がいると思うと気が気ではない。


二人は力の限り箱をこじ開ける。


その中には、ぎっしりと敷き詰められた新鮮な桃と、生まれたばかりの男の子が詰められていた。


桃はまだ、甘く、生命の香りを発している。

香りが強く、飢饉に苦しむこの村では、滅多に見られない上物だった。


「ああ、なんて哀れな子だ。この子がここに来るまでに、流した者は……いったいどれほどの苦しみを……」


老夫婦は互いの目を静かに見つめ合った。


子宝に恵まれなかった彼らには、子を手放さなければならなかった親の悲しみと、それでも我が子を救いたいという切ない願いが、痛いほどに分かった。

この子を箱に詰めた者の手が、どれほど震えていたか。

この子を川に流す瞬間、どれほどの涙が流れたか。


そして、この子を授けてくれた神の慈悲を受け止めた。


「この子は…桃の中から産まれてきたようなものだねぇ…桃太郎、と名付けましょう」


まだ誰も知らない——この名が、多くの人々の想いを背負い、やがて伝説となって語り継がれる事になる。



栄養失調で発見された桃太郎は、既に体力も限界にきていた。


彼の体は小さく、泣き声も弱々しい。

老夫婦の腕に抱かれたその姿は、あまりにも儚かった。


「桃太郎を助けてあげたい」


夫婦は、藁にもすがる思いで、隣村に住む弥助の母、お花に頭を下げた。


老夫婦の背中には、長年の切ない願いと、この子を失いたくないという必死の想いが滲んでいた。


お花は、弥助を産んだばかりで、母乳がよく出ると評判だった。

彼女の家の周りには、干したおむつが風に揺れ、乳児のいる証を静かに示している。


「まぁ、なんて可愛らしい子でしょう。謹んでお受けいたします」


お花は、快く桃太郎に母乳を分け与えてくれた。

彼女の腕の中に抱かれた桃太郎は、初めての温かい母乳に、弱々しくも懸命に吸い付いた。

その様子に、お花の目が優しく細められる。


「この子も、弥助も、同じ命の水を飲んで育つ。そう思うと、もう一人、わが子が増えたような気持ちです」


お花は、桃太郎の頭を優しく撫でた。

その指先には、我が子を育てる母の愛情が、自然と込められていた。


こうして、弥助と桃太郎は、同じ母乳を飲んで育ち、自然と兄弟のような絆を育んでいった。

二人が並んで昼寝をする姿は、本物の兄弟のようだった。


物心がついてから、二人は毎日のように山で遊び、いつも一緒だった。


桃太郎がお花に甘えるように抱きつくと、弥助は少しやきもちを焼く場面も見受けられた。

彼の頬が膨らみ、口元がへの字に曲がる。しかし、すぐに「桃太郎、次はあっちの山へ行こうぜ!」と満面の笑顔で桃太郎の手を引き、強引に連れ出す。


(桃太郎は甘えん坊だからな!俺がしっかりしないと!こいつは俺が守るんだ!)


弥助は、母から離したい気持ちを自分に言い聞かせることで、必死に誤魔化していた。彼の背中は、まだ幼いながらも、どこか頼もしく見えた。


「あらあら」


お花は我が息子が嫉妬している姿を見て、思わず口元を押さえてクスクスと笑った。


その笑顔は、息子の健やかな成長と、もう一人の子が増えた喜びで満ちていた。


弥助の両親と老夫婦は、桃太郎が庵に来て以来、頻繁に顔を合わせるようになった。


弥助の父、吾作が採ってきた山菜を老夫婦に届け、老夫婦がお返しにと、とれたての魚を渡す。


互いの家を行き来し、温かいお茶を飲みながら談笑する光景が日常となった。


「桃太郎はほんとによく食べるねぇ。吾作さんのところで取れた山菜をあっという間に平らげてしまうんだから」


「ハハハ、弥助も負けてませんよ」


お花は、そんな男たちの会話をにこやかに見守りながら、お婆さんから頂いたきび団子を桃太郎と弥助に渡した。


「ほら、おやつだよ。二人で仲良くお食べ」


二人はお婆さんの作るきび団子が何よりのお気に入りだった。素朴な甘さと、噛めば噛むほど広がる穀物の香りは、二人の幼い冒険家たちの腹を満たす最高のエネルギー源になった。

団子を頬張る二人の顔は、幸せそうにほころんでいた。



三歳になる頃には、桃太郎は弥助と共に、普通の子供では考えられないほど頑丈な体に育っていた。


日差しが降り注ぐ穏やかな庵で、笑い声が絶えることはなかった。二人が追いかけっこをする度に、地面を蹴る音、息を切らす音、そして何よりも楽しそうな声が、庵の周りに響き渡る。


二人の間には、言葉を交わさずとも通じ合う、強い信頼関係が築かれていた。目配せ一つで次の行動がわかる。片方が危険を察すれば、もう片方が即座に身構える。それは、長い時間を共に過ごした者だけが持つ、特別な絆だった。


桃太郎と弥助には、歳が近い友が他にいないこともあり、毎日顔を合わせていた。


彼らにとって、相手は唯一無二の親友であり、ライバルだった。


桃太郎は、心技体、そして知能のバランスがよく、その中でも特に「知」と「技」が強かった。

罠を仕掛ける時、桃太郎はいつも先に仕掛けを考える。

どこに仕掛ければ獲物がかかるか、どの枝を使えばより強固な罠になるか——彼の頭の中では、常にそうした計算が働いていた。


一方、弥助は、桃太郎同様にバランスが取れていたが、どちらかといえば「心」と「体」が飛び抜けていた。

どんな時でも笑顔を絶やさず、誰よりも早く走り、誰よりも高く跳ぶ。彼の存在そのものが、周囲に明るさをまき散らしていた。


子供らしい遊びを通じて、二人は互いの力を競い合った。

知恵を絞って仕掛けた罠で桃太郎が弥助を出し抜くこともあれば、土壇場での力技で弥助が桃太郎の計画を打ち砕くこともあった。


勝負は常に五分五分。


どちらが勝つかは、その日の運と、少しばかりの機転にかかっていた。負けた方が勝った方の肩を叩き、勝った方が負けた方の手を引いて立ち上がらせる。

勝敗よりも、その過程を楽しんでいるかのようだった。


十歳になる頃には、彼らの遊びは単なる力比べではなくなっていた。


山に入れば、それぞれが単独で熊や猪を仕留めるほどの身体能力を養っていた。

それは、互いに強くなることが目的であり、修行の日々だった。

朝露がまだ残る早朝から山に入り、日が暮れるまで技を磨き合う。

時には崖を登り、時には川を泳ぎ、自然そのものと向き合いながら、彼らは確かに強くなっていった。


しかし桃太郎は、時々ふと考えた。


「強くなることは、誰かを守ることにつながるのか。それとも——誰かを傷つけることになるのか」


山の中で一匹の鹿を仕留めた時、その目が最後に見せた光を、桃太郎は忘れられずにいた。


「食料のためとはいえ、この鹿を仕留めたんだよな…」


食料のため、それだけの理由で狩をした。

でも、もしこの鹿に家族がいたら? もし、自分が鹿の立場だったら?


命について少しずつ理解はしてるものの、その答えと命の重さまで完璧に理解する術はなかった。


「俺はもっと強くなって、お前に勝つ!」


桃太郎がそう言えば、弥助も負けじと拳を握りしめる。


「ふん、俺の方がもっと強くなって、お前に勝ってやる!」


彼らの夢は、互いに勝つこと。言葉にすれば子供じみた理由だったが、その純粋な思いが、二人を前へと突き動かす原動力となっていた。

この競い合いが、いつしか誰かを守る力に変わっていく。



若様、宇喜多秀家との出会い


桃太郎が十五歳になった頃、村に旅の一行が立ち寄った。


身なりの良い者たちに囲まれた少年——後に宇喜多秀家と名乗ることになる彼は、まだ十歳そこそこの幼さだった。

それでも、その背筋は凛と伸び、目には幼さとは裏腹に、どこか聡明な光が宿っている。家臣に伴われ、諸国を巡る放浪の旅の最中だった。


秀家は、老夫婦の庵で一晩の宿を借り、老夫婦が作ってくれたきび団子を口にした。


「この味……前にどこかで」


秀家は、この味をしっかりと噛み締め、黙々と食べていた。

その表情は、遠くを見るような、どこか寂しげなものだった。

幼くして故郷を離れ、諸国を巡る旅の中で、彼はどれだけの寂しさを胸に抱えてきたのだろうか。


その素朴で優しい味に、彼は心を奪われた。

きび団子を口に運ぶ手が、次第に早くなる。

それだけ、この味が彼の心に響いた証だった。


その日の夕刻、山から熊を担いで帰ってきた桃太郎と弥助が、庵に駆け込んできた。


二人の体は泥と汗でまみれ、上半身は衣服が破れ、ほぼ裸の状態だった。

だが、その目は獲物を仕留めた誇りで輝いている。

弥助が担いだ熊の大きさに、秀家の家臣たちが息を呑む声を上げた。


二人は客人の前でも物怖じせず、当たり前のように客のきび団子を手に取りながら、興奮気味に話し始めた。


「聞いてくれよ、ばっちゃん!村に鬼が出たんだって!」


「俺はもっと強くなって!必ず鬼を退治してやる!」


桃太郎は、純粋な目でお婆さんを見つめ、熱い決意を語った。


その目には、疑いも曇りもない。ただ、正義を信じる少年のまっすぐな光だけがあった。


秀家は少年たちの行動と言動に呆気に取られていたが、偽りのない真っすぐなその目に心を奪われた。

城の中で育った秀家にとって、これほど純粋な目を持つ者に出会ったことはなかった。


だが、お婆さんは桃太郎たちの意気込みを聞きもせず、激しい怒りを露わにした。


「悪ガキども!客の団子を食いやがって!」


お婆さんは、秀家に団子を出していた盆を手に取り、桃太郎の頭を力強く叩いた。その剣幕には、先ほどまでの優しいお婆さんの影はなかった。


その様子を見た秀家は、思わず腹の底から笑い出した。


笑いすぎて涙がこぼれ、笑いが止まらなかった。

この素朴な村の、この温かい庵で、自分は家族の一部のように扱われている。


そのことが、彼の心の奥深くにある孤独を、一瞬だけ溶かした。


「ハハハハハ!子どもも子どもだが、御婦人よ、そなたも我に出した皿を使って罰を与えているではないかッ!」


秀家は城の者としてではなく、無礼講で一人の人間として扱ってくれた少年たちと老婆に、心から感謝した。

彼の胸の中で、何かが静かに動き出していた。


旅立つ間際、秀家は桃太郎に話しかけた。


「お主、名は?」


「俺は桃太郎だ!覚えとけ!」


秀家は声を出して笑った。


「そうか、背中にほくろがある少年…桃太郎と申すか!覚えたぞ!お前の言う『鬼退治』、私は見てみたいものだ。いつか、その姿を——」


この少年はきっとやり遂げる。

そう直感した秀家は、桃太郎の今の姿を目に焼き付けた。夕日に照らされた少年の横顔は、どこか神々しくさえあった。


そして、振り返って老夫婦に言った。


「この団子の味、決して絶やさないでほしい。いつか必ず、また食べに来る」


桃太郎は、きょとんとした顔で秀家を見上げた。何が起こったのか、まだよく理解できていないようだった。


「なぁ、弥助、俺の背中にほくろなんてあるか?」


「桃太郎…あるけどよ…今、その話する時かよ…」


鬼を退治するという少年の真っすぐな瞳に触発され、秀家の心の奥に、確かな火が灯った。


それは、彼がこれから歩む人生の、一つの道標となる光だった。



十兵衛の悲劇と桃太郎の怒り


その日のことを、十兵衛は生涯忘れることはないだろう。


数年前の飢饉の際、妻の幸は生まれたばかりの赤子を抱え、栄養失調で命を落とした。


絶望の淵で、十兵衛は生後間もない我が子を川に流さなければならなかった。

その時の悔恨と悲しみは、彼の心を深く蝕んでいた。

夜になれば、あの日のことが何度も何度も蘇る。

川の水の冷たさ、木箱が流れていく音、自分の手の震え——それらが決して彼を離さなかった。


しかし、娘の春と二人で力を合わせるうちに、十兵衛の心にも少しずつ希望が戻ってきた。


飢饉が少し緩和され、少ないながらも食糧庫に作物を蓄えることができるようになった。

春は、再び飢饉が来ることを想定し、なるべく節約して父を支えていた。

彼女の笑顔は、十兵衛にとっての唯一の光だった。


ある日の夕暮れ、十兵衛は畑から戻ると、春が食糧庫の前で収穫した芋を並べていた。彼女の手は土で汚れ、爪の間には泥が詰まっている。それでも彼女は、一つ一つの芋を丁寧に拭きながら、傷んだものと保存できるものに分けていた。


「春、身体の調子はどうだ。無理するなよ」


十兵衛が声をかけると、春は顔を上げて笑った。その頬は少し痩けていたが、目だけは生き生きと輝いている。


「父ちゃん、ありがとう。でも大丈夫」


彼女は手に持った芋を見つめながら、ぽつりと言った。


「……あの頃に今の暮らしが出来てたら。母ちゃんも、兄ちゃんも、光も。みんなで笑って過ごせてたのに」


十兵衛は何も言えず、ただ春の横顔を見つめた。彼女の手が、芋の表面をゆっくりと撫でている。


「そうだな。俺たちは生きるために犠牲にしたものが大きかった。だからこそ——逞しく生きていこう。それが罪滅ぼしだと思う」


十兵衛の声はかすれていた。春は黙って頷き、再び芋を拭き始めた。彼女の手の動きは、ゆっくりと、しかし確かだった。


そんな春に縁談が舞い込み、近々嫁ぐ予定だった。

そしてお腹には、すでに新しい命が宿っていた。


十兵衛は長年の苦しみを経て、ようやく希望が見えていた。

娘の晴れ舞台、そして孫の顔が見れる——そう喜び、仕事に励んでいた。

畑を耕す手にも、かつてない力が込められていた。


その幸せの渦中で、鬼によって全てが奪われた。


村人たちの間では、鬼は人間ではなく、飢饉や疫病をもたらす妖怪の類だと信じられていた。

もともと農民である彼らには、この未知の存在に対抗する術などない。

ただ、震えながら家に閉じこもり、やり過ごすことしかできなかった。


人々はまだ物々交換による取引が多く、互いに寄り添って、細々と怯えながら生きている。

誰かが助けを求めても、自分たちだけで精一杯のこの村では、手を差し伸べることさえ難しかった。


十兵衛はその日、隣村へ米と交換するための布を持って出かけていた。春は一人、家で留守を守っていた。彼女は食糧庫の前で、収穫した野菜を日に干しながら、腹の子に語りかけていた。


「お前は、幸せになるんだよ。母ちゃんも、じいちゃんも、みんなで守るからね」


彼女の手が、まだ膨らみ始めたばかりの腹を優しく撫でる。その手の温かさを、彼女は信じていた。


その時だった。


遠くから、怒号が聞こえた。最初は風の音かと思った。しかし、それは次第に大きくなり、悲鳴と、何かが壊れる音が混ざり始めた。春の手が止まった。彼女は顔を上げ、音のする方を見つめた。隣の家から煙が上がっている。黒い煙が、夕暮れの空に不気味に伸びていく。


「鬼だ……鬼が来た!」


誰かの叫び声が、村中に響き渡った。


春はとっさに食糧庫の前に立った。彼女の手は、無意識に傍らに立てかけてあった鍬を握っていた。木製の柄は彼女の汗で湿り、手のひらに吸い付くように張りついた。腹の子が、蹴った。彼女は歯を食いしばり、鍬を構えた。


「ここは……渡さない」


男たちの足音が近づいてくる。彼らは春の姿を見つけると、にやりと笑った。その目には、略奪を楽しむ者の下卑た光があった。


「おい、ここにも食料がありそうだぞ」


春は鍬を振り上げた。彼女の腕は震えていたが、その目は据わっていた。男たちは一瞬たじろいだが、すぐに武器を手に彼女を取り囲んだ。


「この子は……私が守る!」


春は叫び、鍬を振り下ろした。しかし、その一撃は男の肩をかすめただけで、彼女の体は次の瞬間、複数の刃に貫かれていた。腹に、肩に、脇腹に——熱いものが走り、彼女の口から血が溢れた。それでも彼女は倒れなかった。鍬を杖代わりに、食糧庫の入り口に立ち塞がっていた。彼女の足元に、血が滴り落ち、土に黒い染みを作っていく。


「……守る……こ…んど…そ」


彼女の目に光は既に無かったが…唇が、そう動いた。そして、ゆっくりと、彼女の体は崩れ落ちた。倒れる瞬間まで、彼女の手は鍬を離さなかった。


鬼たちが彼女を跨ぎ、食糧庫へと消えていった。

その足音の下で、かすかに、湿った土を踏み抜くような鈍い音が、一度、二度、三度——続いた。


音が止んだ時、彼女の中で芽吹いていた鼓動が失われていた。


夕日が沈み、辺りが闇に包まれた頃、十兵衛が村に戻ってきた。


彼の足は、村の入り口で止まった。いつもなら聞こえてくるはずの、夕餉の支度をする音も、子供たちの笑い声も、何も聞こえない。風だけが、焼け焦げた匂いを運んでくる。


「春……!」


十兵衛は走った。彼の草鞋が、ぬかるみに足を取られる。転びそうになりながらも、彼は家へと急いだ。


そして、見た。


食糧庫の前で倒れている春の姿を。彼女の手は、まだ鍬を握ったままだった。指は硬直し、一本一本が白く変色している。十兵衛はその場に膝をついた。彼の手が、春の冷たくなった頬に触れる。彼女の目は開いたまま、空を見つめていた。


「春……春……!」


十兵衛の声は、嗚咽に変わった。彼は春の体を抱き起こし、彼女の腹に手を当てた。そこには、もう温もりはなかった。彼は天を仰ぎ、声にならない叫びを上げた。彼の頬を、涙が伝い落ちた。その涙は、春の血で赤く染まった土の上に、ぽたり、ぽたりと落ちていった。


それから数日後、桃太郎が鬼の情報を得るため、十兵衛の家を訪ねた。


しかし、家はもぬけの殻で、中に血の跡が残っていた。

土間には、踏み荒らされた藁が散らばり、割れた壺からは、わずかに残っていた穀物が床にこぼれている。

それらの上に、黒ずんだ血痕が点在していた。


村人たちの話によると、留守を守っていた十兵衛の娘、春は、食料庫を守ろうと鬼に立ち向かったという。


「春はな、食料庫の前で、鍬を握りしめたまま倒れておった。腹の子も……もうだめじゃった。あの子は最後まで、父ちゃんとお腹の赤ちゃんを守ろうとしたんじゃ……」


村人の言葉に、桃太郎は拳を握りしめた。指の関節が白くなるほど強く。


彼の脳裏に、遠い日に見た春の姿が浮かんだ。


老夫婦の庵で、弥助の母・お花が桃太郎を抱いているのを、春が羨ましそうに見ていたこと。


「私も、いつかあんなふうに……そして今度は…ちゃんと守りたいよ…母ちゃん…」


その言葉の先にあったのは、母になることへの憧れだった。

春自身も、いずれ母となる日を夢見ていた。

…その夢が、叶うことなく奪われた。


桃太郎の奥底から激しい怒りが込み上げる。

この抑えきれないほどの怒りを覚えたのは初めてのことだった。

彼の手は震え、歯は食いしばられ、全身が燃えるように熱くなった。


「くそっ!鬼め!人間をなんだと思ってるんだ!略奪を楽しみ、殺戮に喜びを見出す……」


桃太郎は、十兵衛の家で見た惨状を思い出し、鬼を退治する決意を新たにした。

彼の中で、正義と復讐の境界が、この時、曖昧になっていく。


桃太郎が十三歳になった頃、村の周辺で略奪と殺戮を好む鬼の噂が流れた。

それは、十兵衛の娘を殺した鬼と同一人物だと、桃太郎は直感した。

その鬼の名は、村人たちの間で「人さらいの鬼」と呼ばれ、恐れられていた。


「もう、見過ごすわけにはいかない」


愛する村と、老夫婦の笑顔を守るため、桃太郎は鬼を退治して村に平和を取り戻すことを決意する。

彼の心の中で、鬼への憎しみが燃え上がる。


そして桃太郎は再び十兵衛の家に向かった。


生きる気力も失い、首に縄をかけようとしていた十兵衛の姿が目に入った。

彼の目は虚ろで、手は震え、縄を木の梁に掛けることすら、うまくできずにいた。


桃太郎は慌てて駆け寄り、腰の刀で縄を切った。


生気の抜けた十兵衛を見て、桃太郎は深い苛立ちを覚える。


「馬鹿野郎!おっさん!あんたまで死んだら、誰が娘さんの生きた証を守るんだ!」


生まれて初めて、桃太郎は怒りに任せて人を殴った。

拳が十兵衛の頬にめり込み、十兵衛はよろめいて床に倒れ込む。


十兵衛は床に倒れたまま、桃太郎の背中を見ていた。少年の肩は怒りで震えている。それでも彼は、十兵衛に背を向けず、立ち去ろうとしなかった。


十兵衛の視線は、桃太郎の腰に下がったきび団子に落ちた。老夫婦の庵で見たことのある、あの団子だ。彼はゆっくりと手を伸ばし、床の藁を掴んだ。その手に力が入る。指の間から、細かな藁くずがこぼれ落ちた。彼はもう一度、床を強く掴んだ。そして、震える腕で上体を持ち上げていく。その顔は、まだ涙と土にまみれていた。


殴った後、桃太郎は自分の手が震えているのに気づいた。

この震えは、怒りからくるものなのか、それとも——別の何かなのか。彼にはわからなかった。


ただ一つだけ直感的に分かったのは、この震えが、川に流される直前の自分の体の震えと似ていたこと。


温かい箱の中で、桃に囲まれていたのに、体は小刻みに震えていた——あの頃の記憶だ。

春の死を聞いた時に湧き上がった怒りにも似た震え…覚えているはずもないその記憶が、今、彼の手を支配していた。


桃太郎本人も、この時なぜこんなにも苛立ち、抑えられないほどの悲しみが込み上げてきたのか、その理由を知ることはなかった。



その夜、桃太郎は村はずれの丘に一人座り、月を見上げていた。


風が冷たく、草が揺れる。

遠くで川のせせらぎが聞こえる。

あの川だ。自分が流されてきた川。

春が、涙と共に桃を詰めた川。


隣に、弥助が静かに腰を下ろした。

彼は何も言わず、ただ桃太郎の隣に座った。

それが、彼なりの優しさだった。


「桃太郎、お前、泣いてるのか?」


「……っ…泣いてねぇよ」


「嘘つけ。俺にはわかるんだ。山の獣だって、仲間の悲しみは感じ取るもんだ」


弥助は、桃太郎の肩に手を置いた。

その手は温かく、力強かった。


「お前が十兵衛のおっさんを殴ったの、俺は見てた。お前、あの時、何かを思い出したんじゃないか?」


桃太郎は、長い沈黙の後、ぽつりと呟いた。


「……俺も、川に流された子なんだ。実の親の顔も、名前も知らない。でも……もし、俺を流した親が、十兵衛みたいに苦しんでいたとしたら……そう思うと、胸が痛むんだ」


弥助は、何も言わなかった。

ただ、桃太郎の隣で、一緒に月を見上げていた。

その沈黙が、桃太郎には何よりもありがたかった。


やがて、弥助が口を開いた。


「なあ、桃太郎。鬼を退治してやろうぜ!俺も行く。お前一人にさせるかよ」


桃太郎は、驚いて弥助の顔を見た。


「弥助……!」


「でも、条件がある。絶対に、生きて帰るぞ!ここは俺たちが帰ってくるべき場所だ」


桃太郎は、力強く頷いた。


「ああ、必ず!」


弥助は、もう一度月を見上げた。


「山の掟ではな、仲間を見捨てた者は、二度と山に入れなくなるんだ。俺は、お前を絶対に見捨てない!」


「弥助…」


「だから俺も見捨てないでね♡」


「お前っ!締まらないって!気持ちわりぃな!」


月明かりの下、二人の少年は固く誓い合った。その姿は、これから彼らが歩む過酷な運命を思わせるには、まだあまりに幼かった。


その姿を、遠くから老夫婦が見守っていた。


「あの子たちは、きっと大きく育つよ」


「ああ。私たちが守ってやれるのは、あと少しだけかもしれないがな……」


「でも、あの子たちなら、きっと大丈夫。弥助がいる。そして——」


お婆さんは、月明かりの下で微笑んだ。その目には、遠い過去と、これから来る未来が映っているかのようだった。


「あの子の中には、たくさんの人の想いが詰まっている。それに、これからあの子の人生を大きく変えるような素晴らしい出会いがあるような気がするよ」


老夫婦の目には、優しい光が宿っていた。それは、我が子を見守る親の目。そして、これから始まる物語を見届ける者の目だった。


---


【次回予告】


その名は、弥助。


山で出会った二人の少年。

互いに競い、高め合い、時に支え合う。


「俺はお前を絶対に見捨てない」


言葉にしない友情が、彼らを強くする。

それは、山の掟よりも重い、たった一つの約束。


やがてこの絆が、伝説の一端を担うことになる——。


---


第4話「弥助(桃太郎物語の猿)」

——猿と呼ばれた男、弥助。その笑顔の裏に隠された、真実の物語。


---


【第3話・完結】

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