表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
時雨の焼印【特別盤】  作者: 太幽


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/13

第2話:血と泥の子守唄

──前回までのあらすじ──

第1話では、高台から城下町を見下ろす時雨と桃太郎の姿が描かれた。かつて復讐に燃えていた時雨は、桃太郎との出会い、鬼ヶ島での真実、そして多くの仲間たちとの絆を経て、今は穏やかな時を過ごしている。


二人の会話からは、衛門、弥助、シロ、圓、十兵衛、そして息子・喜備丸といった、彼らが共に生きた者たちの記憶が甦る。


これは、歴史の表舞台から消え去った、もう一つの物語。すべては、一人の男の子が、桃と共に川に流されたところから始まる──。


---


第2話:血と泥の子守唄



西暦1553年。


幸が十兵衛の元に嫁いで十年余りが経った。


夫婦の間には長男の宗助、長女の春がいた。

宗助は十歳、春は八歳になる。


そしてその年、新たな命が幸の腹に宿った。


子どもたちは素直に喜んだ。宗助は「弟か妹か、どっちかな」と目を輝かせ、春は「私、お世話する!」とはしゃいだ。二人の声が、貧しいながらも温かさの残る家に響く。


しかし十兵衛と幸は、家族が増える喜びと、この時代に新たな命を迎えることへの不安が入り混じった、複雑な心境だった。


というのも、この数年、全国的に干ばつや洪水が多発し、人々を飢饉が襲っていたからだ。


日照り続きで作物はまったく育たず、村の食糧庫も残り少ない。どこもかしこも痩せた土地ばかりで、畑からは土の匂いさえ薄れていた。


十兵衛は宗助を連れて山に入る日々を送るが、最近は山の恵みもめっきり採れなくなっていた。

かつては豊かだった木の実も、今は獣たちに先に食い荒らされ、食べられる食料はほとんど残っていなかった。


風は冷たく、頬を刺すようだった。息をすれば白く煙り、その白さが一瞬で散っていく。


川には、飢えや疫病で命を落とした人々の遺体が流れていく。供養されることなく。時折岸辺に打ち上げられ、誰にも看取られることなく朽ちていく。十兵衛はそれを見るたびに、胸の奥が冷たくなるのを感じた。



そんな中、最悪の事態が訪れた。


盗賊が村を襲撃し、わずかに残っていた食糧庫の蓄えを根こそぎ奪い去ったのだ。


村人たちは何もできなかった。武器もなければ、戦う術もない。

ただ、震えながら家の隅に隠れ、盗賊たちが去っていくのを待つしかなかった。


一夜にして、村人たちの数少ない希望は消え去った。


十兵衛の一家の生活は、容赦なく追い詰められていった。妊婦である幸は日に日に痩せ衰え、体調を崩して床に伏せることが多くなる。彼女の頬はこけ、腕は骨と皮のようだった。それでもなお、彼女はお腹の子を守ろうと、何とか起き上がろうとする。


土間の囲炉裏では、宗助と春が小さな土鍋をかき混ぜていた。


土鍋の底には、ごくわずかな芋の切れ端と、山で採れた木の芽が入っているだけだった。それがこの家族の一日の糧のすべてだ。


湯気と共に、土と草の匂いが立ち込める。かろうじて腹を満たすための粥が作られていく。宗助の手つきは、十歳とは思えないほど慣れていた。何度も何度も、この作業を繰り返してきたからだ。


「お母ちゃん、大丈夫かなぁ……」


春が不安げに、土鍋をかき混ぜる宗助に話しかけた。彼女の声は小さく、自分自身に言い聞かせているようだった。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。


「大丈夫だよ、母ちゃんは強いから。明日こそは栄養のあるもの探してくるからな」


宗助は静かに頷き、春の頭を優しく撫でた。その手は、子供のものとは思えないほどかさついていた。山で木の枝を掴み、岩場を登り、時には獣と追いかけっこをしてきた証だった。


その言葉に、父として何もしてやれない十兵衛の胸は締め付けられた。

拳を握りしめ、歯を食いしばる。

己の無力さを、ただただ呪った。



十一月下旬。


朝から降り続く冷たい雨が枯れ木を揺らし、家屋を叩く。雨粒はやがて氷のような冷たさに変わり、外の空気は張りつめたように澄んでいた。


家の奥から聞こえる母の咳は、日を追うごとに弱々しくなっていた。かつては力強かった咳が、今はかすれて、消え入りそうだ。


夕刻、雨に濡れた十兵衛が帰宅した。彼の着物はびしょ濡れで、体は芯まで冷え切っていた。


濡れた体を火で温めながら、彼は土鍋の粥を四つの椀に等しく分けた。

どの椀にも、わずかに底を覆うだけの粥。


それでも、平等に分けることが、この家族のルールだった。


「今日は、こんなものしか採れなかった」


十兵衛が申し訳なさそうに言うと、宗助が明るく言った。


「いいんだ、父ちゃん。明日は俺も山に行くから。一緒に頑張ろう!」


宗助のさりげない優しさに、十兵衛は何も言えず、ただ無言で粥を口に運んだ。彼の喉を通る粥は温かいはずなのに、その味は冷たく、土の味がした。


窓の外では、雨が雪へと変わりつつあった。最初は細かい雪の粒が、やがてぼたぼたと大きな塊になって落ちてくる。



翌朝、辺り一面は銀世界に変わっていた。


雪は山肌の崖を脆くし、足元を危険にする。木々は重みで枝を垂れ、時折ばきっと音を立てて折れた。


「宗助、今日はやめておこう。この雪では……」


十兵衛は宗助を心配し、山へ行くのをやめさせようとした。彼の目には、不安の色が濃く浮かんでいる。


しかし宗助は、十兵衛の目をまっすぐ見て、静かに言った。


「父ちゃん……俺は昨日、春と約束したんだ。それに母ちゃんとお腹の赤ちゃんにも、栄養のあるものを食べさせたいんだ。それに……最近父ちゃん、飯ほとんど食べてないだろ?だから、俺がみんなに栄養のあるものを食べさせたいんだ。父ちゃん、頼むよ……」


宗助の声には、十歳の少年とは思えないほどの強い意志が込められていた。彼の目は澄んでいて、少しの迷いもない。


十兵衛は宗助の強い意志に、何も言えなかった。


彼は宗助の背中に、自分と同じ家族を守ろうとする覚悟を見た。

それは、自分が失いつつあった、若い頃に抱いていた熱い情熱だった。


十兵衛は黙って頷き、二人は再び山へと入っていった。


雪が降り積もる山は、音を吸い込み、すべてを静寂の中に閉じ込めていた。

足を踏みしめるたびに、雪がきしむ音だけが聞こえる。

時折、遠くで枝が折れる音がして、それが大きく響く。


二人は慎重に足を進めるが、山の斜面は滑りやすく、時折バランスを崩す。宗助の手はかじかみ、真っ赤になっていた。それでも彼は前に進むことをやめない。


「父ちゃん、もう少しだ。あの崖の向こうに、まだ食料が残ってるかもしれない」


宗助が一歩足を踏み込んだ、その瞬間だった。


地面が崩れ、宗助の姿が一瞬で視界から消えた。


「宗助ッ!」


十兵衛の叫び声が山に響く。雪が彼の声を吸い込もうとするが、それでも声は木々の間を抜け、谷へと落ちていった。


崖の底から、かすかに宗助の声が聞こえた。それは風に消えそうな、細くか細い声だった。


足場の崩れた崖を滑り落ちた宗助は、不自然に折れ曲がった足、そして顔は土と血で汚れていた。

雪が彼の体に積もり、白と赤が混ざり合う。十兵衛は必死に手を伸ばすが、宗助には届かない。崖の縁は脆く、近づけば自分も落ちてしまう。


「宗助ッ!もう少しだ!もう少し手を伸ばせ!」


十兵衛の言葉に、宗助は力なく首を横に振った。彼の口元がわずかに動く。


「父ちゃん、無理だよ。俺はもう……動けない」


その言葉は、悟ったかのように穏やかだった。痛みに歪むことも、恐怖に怯えることもない。ただ、静かな諦め。


宗助は、十兵衛の顔をじっと見つめた。雪が彼の頬に積もる。それを払うこともできず、ただじっと父を見上げている。


「父ちゃん、俺がこうなったのは、運命だよ。でも、俺は後悔してない……父ちゃんの背中を見て、俺、頑張ってこれたから……」


歯を食いしばる宗助の瞳が涙で溢れていた。その涙は、痛みのせいだけではない。生きることへの未練、家族への想いが、一気に溢れ出しているようだった。


「母ちゃんと妹を頼む。そして……お腹の新しい命を、どうか大切にしてあげておくれ」


宗助は笑顔を見せ、十兵衛にしか聞こえないほどの声でつぶやいた。その声は、雪の音にかき消されそうになりながらも、確かに十兵衛の耳に届いた。


「父ちゃん……俺、ちゃんと兄貴やれてたかな……」


その表情は、自分の人生を振り返る者の、静かな満足に満ちていた。


その瞬間、崖の足元が大きく崩れ、宗助の体が谷底へと消えていった。雪煙が立ち上り、視界を遮る。


「……ありがとう……」 

この言葉は、十兵衛に届くことはなかった。


「宗助ッ!宗助ぇッッッ!!」


十兵衛の叫び声は、降りしきる雪に吸い込まれ、かき消されていった。彼の声は枯れ、それでも叫び続けた。山が、彼の慟哭を全て受け止めるまで。



十兵衛は、長男を失った絶望と、何もできなかった自分への怒りで、正気を失いかけた。


彼の手は震え、目は虚ろだった。叫び続けた声は枯れ、出るのは掠れた息だけ。


それでも、残された家族のためにも、ここで諦めるわけにはいかない。妻がいる。娘がいる。そして、まだ見ぬ新しい命が。


「宗助……!必ず、必ず戻ってくる!」


十兵衛は死に物狂いで崖をよじ登った。体中が痛みに悲鳴を上げ、吐き気がこみ上げてくる。爪は割れ、指先から血が滲む。それでも、彼は登り続けた。


長男の遺体を回収しなければならない……せめて、土をかけてやらないと。


十兵衛は家に戻り、急いで道具を準備し、再び山に向かった。彼の足取りはふらついていたが、止まることはなかった。


しかし雪は既に降り積もり、崖の上からは宗助の姿を確認することはできなかった。一面の白。どこに宗助がいるのか、見当もつかない。


十兵衛はただ、崖の上から土をかぶせ、祈ることしかできなかった。凍てついた土を手で掻き集め、谷に向かって投げる。それだけが、彼にできるすべてだった。


「俺はっ…非力だ」


十兵衛の叫びは、山全体に響き渡った。木々に積もった雪が、その振動でさらさらと落ちていく。


帰宅後、十兵衛は家族に宗助の死を告げた。


春はただ静かに涙を流し、幸はショックでさらに衰弱していった。幸の顔色は土のように青白く、彼女の腹の中で、新しい命だけが頼りなく動いている。


十兵衛は、時代と自分の無力さを呪い、ただ一人、怒りに震えていた。拳を握りしめ、歯を食いしばる。それでも、何も変わらない。何もできなかった。ただ、怒りだけが彼の中で燃え続けた。



そして月日は流れ、翌年六月——1554年。


幸は最後の力を振り絞り、出産に入る。


家の奥から、幸の苦しそうな声が聞こえてくる。


十兵衛はただ、その声に耳を澄ませるしかできなかった。


自分の無力さに打ちひしがれ、土間に座り込み、両の掌を固く握りしめた。


やがて苦悶の声が止み、赤子の産声が響き渡った。


十兵衛はその産声を聞いて初めて、安堵の涙を流した。


村の助産師が十兵衛に告げた。


「おめでとう!元気な男の子だ!」


十兵衛は扉を勢いよく開け、幸の元へ駆け寄った。


幸は、産まれたばかりの我が子を抱き、安堵の表情を見せていた。


「幸!よくぞ……よくぞ産んでくれた!」


十兵衛は涙を堪えていたが、その目は赤くなり、今にも溢れ出そうになっていた。


幸はその顔を見て、微笑んだ。


窓の隙間から、朝日が差し込んでいた。その光が、かすかに赤子の顔を照らす。


「宗助も…喜んでくれてるかしら…この子は私たちの希望……光と名付けましょう……この子をどうか、よろしく……」


幸は、光が差し込む方を見ながら、そう言った。


その言葉は、激しい息切れと共に途切れ途切れだった。


十兵衛は、生まれたばかりの子どもを抱き、幸のそばに座り込んだ。


幸は、最後の力を振り絞り、満面の笑顔で十兵衛の頬に触れた。

…だがその瞳は既に光が失われていた


「今まで……ありがとう……十兵衛……先に逝く私を……お許しください……」


幸は、大量の汗を流しながら、そのまま静かに息を引き取った。


「幸!幸ッ!」


十兵衛の叫び声は、家中に響き渡った。


彼は、愛する妻を失い、ぶつけどころのない怒りに発狂した。


この世の理不尽さを、そして自分の無力さを呪った。



その後も、生きるのに精一杯の日々が続いた。


十兵衛は山を駆け回り、わずかな木の実やキノコを探す日々。雪の下から枯れ草を掘り起こし、時には木の皮を削って粥に入れた。


だが生活は改善されず、飢えは彼らの命を蝕んでいく。十兵衛自身も痩せ細り、骨の輪郭が浮き出ていた。


特に、生まれたばかりの光は、栄養を満足に与えることができず、日ごとに痩せ細っていった。小さな体は軽く、抱くと折れてしまいそうなほどだった。


春は母の代わりに光を抱き、懸命に世話をした。彼女の細い腕で、弟を必死に抱きしめる。


だが、まだ幼い彼女には授乳ができない。光の弱々しい鳴き声を聞くたびに、胸が締め付けられる思いだった。その鳴き声は日に日に小さくなり、消え入りそうだった。


夜になると、光を抱きながら一人、こっそりと涙を流した。


「母ちゃんがいたら……母ちゃんがいたら、光を助けられたのに……かぁ…ちゃん…」


春の心は徐々に疲弊し、闇に沈んでいった。彼女の目はうつろで、何を見ているのかわからない。時々、突然声を上げて泣き出すこともあった。


鏡を見るたびに、そこに映る自分は母とは似ても似つかない、やつれた顔をしていた。頬はこけ、目はくぼみ、髪は艶を失っていた。母の面影は、どこにもなかった。


十兵衛もまた、娘の様子に気づいていた。食事の時、彼女が自分の分を光に与えようとするのを何度も見た。夜中にこっそり起き出し、光の息を確かめる姿も。


彼は、春の心身が限界に達していることを悟った。そして、このままでは、全員死んでしまうと……。



ある夜、十兵衛は春を起こし、囲炉裏の前に呼んだ。


囲炉裏の火は小さく、二人の影が壁に揺れている。外は雪が静かに降り続いていた。


「話がある」


十兵衛の顔は、憔悴しきっていた。目の下にはくまができ、頬はこけている。それでも、彼の目には何かを決意した者の光が宿っていた。


彼は、震える声で話し始めた。


「このままでは……皆、飢えで死んでしまう……だから……」


十兵衛は、生まれたばかりの光を、春からそっと受け取った。その手は震えていた。


「……この子は川に流そう」


(すまない……すまない……幸……俺は…)


その言葉は、十兵衛自身の心を引き裂くものだった。彼の胸の中で、何かが音を立てて崩れていく。それでも、彼は言わなければならなかった。


その言葉を聞いた瞬間、春は息をのんだ。彼女の目が大きく見開かれる。


「この子は……もう、育たない。母乳も飲めず、日ごとに弱っていく。近くに母乳が出る人もいない……俺たちにこの子を育てることは、不可能なんだ……どうか、許してくれ……」


十兵衛の言葉に、春は涙を流した。それは音もなく、ただ静かに頬を伝う涙だった。


「……お父ちゃん……」


春の声は、か細く震えていた。自分自身に言い聞かせるかのようだった。


「……私たち…お母ちゃんとの約束、守れないのね…助け…られないのね……」


春の言葉に、十兵衛は顔を上げた。娘の目は、もう泣いていなかった。かわりに、深い諦めの色が広がっている。


「子どもたちを、どうかよろしく」——幸に託された言葉。


十兵衛は、その約束を守れなかった自分を呪った。拳を握りしめ、唇を噛みしめる。血の味がした。


「……宗助も、この子を助けるために、命を懸けた……すまん…宗助…お前の死は…」


十兵衛は、亡き妻と息子に顔向けができないと感じ、呆然とした。囲炉裏の火が、彼の影を壁に大きく映し出す。


「川の伝説に命運を託そう……光は、まだ衰弱して苦しんでいる……せめて安らかに……」


十兵衛の言葉に、春は涙を流しながら頷いた。


「……わかった、父ちゃん……」


十兵衛の胸は締め付けられた。彼は、自分の決断が正しいのかどうか、永遠にわからない。ただ、この瞬間にできる最善のことを選んだだけだった。



1554年9月。


山にはたくさんの桃が熟れて落ちていた。赤く、甘い香りを放つ実。それが地面に落ち、土の上で静かに熟れている。


十兵衛は倒木を切って箱を作り、光を入れる。その手つきは慎重だった。少しでも優しく、少しでも丁寧に。


春は桃を埋葬のお供えとして拾い集め、箱に敷き詰めた。


彼女は、地面に落ちた桃を一つ一つ拾い上げた。その一つ一つに、母の言葉を思い出しながら。


——母はよく言っていた。「桃には魔除けの力がある」と。


この子に、どうか災いが起きませんように。


そして、もしどこかで誰かに拾われるなら、その人に愛されますように。


春は、祈るように桃を箱に並べた。桃の甘い香りが、彼女の指に移る。


真夜中、二人は赤子を川に流した。


月明かりが川面に広がり、水の流れを銀色に染めている。


「どうか、神様。もし存在するならば、この子に安らぎを……もし可能なら、幸福をお願いいたします」


十兵衛は、川と桃に祈りを捧げ、木箱を流した。彼の手から離れた箱は、水面にそっと触れ、ゆっくりと流れ始める。


木箱は、月の光を浴びながら、ゆっくりと静かに川を下っていく。時折、川の流れに揺れ、桃がかすかに音を立てる。


十兵衛は、愛する我が子を流した罪の意識と、わずかな希望を胸に、ただ立ち尽くしていた。彼の影が、月明かりに照らされて長く伸びる。


春は自分の無力さを悔やみ、喉が潰れるまで泣き続けた。彼女の泣き声は、やがて風に乗って遠くへ消えていった。



十兵衛は川から家への道を歩いていた。月が彼の影を地面に長く伸ばしている。影は時折、道端の石につまずくように揺れた。


彼の手には、さっきまで光を包んでいた布が、空っぽのまま握られている。その布を捨てることもできず、彼はただ歩き続けた。


家の明かりが見えてきた時、彼の足は止まった。中からは何の音もしない。春はもう眠っているのだろうか。それとも——。


十兵衛は、門の前でしばらく立ち尽くしていた。手に持った布を、月明かりに透かして見る。そこには何も包まれていなかった。



月明かりに照らされた川面を、一つの木箱が流れていく。


その中には、名を捨てられた赤子と、たくさんの桃が詰められていた。


川は、赤子を乗せた箱を優しく揺らしながら、下流へ、下流へと運んでいく。月の光が、その行く先を静かに照らしていた。


この子が後に「桃太郎」と呼ばれ、数多の者と出会い、鬼と呼ばれる者たちの真実を知り、そして、歴史の影で生きることを選ぶとは、今は誰も知る由もなかった。


---


同じ頃、遠く離れた城の庭で、一人の幼い女が泥だらけになって遊んでいた。着物の裾は汚れ、髪は乱れ、誰も彼女を咎めない。彼女はまだ知らない。自分の本当の名も、この城にいる理由も。ただ、空を流れる雲だけが、彼女の行く末を知っているようだった。


---


【次回予告】


山で出会った二人の少年。互いに競い、高め合い、時に支え合う。


「俺はお前を絶対に見捨てない」


言葉にしない友情が、彼らを強くする。それは、山の掟よりも重い、たった一つの約束。


やがてこの絆が、伝説の一端を担うことになる——。


---


第3話「希望の誕生と残酷な出会い」

——桃から生まれた少年と、もう一人の少年。運命の出会いが、今、始まる。


---


【第2話・完結】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ