第2話:血と泥の子守唄
──前回までのあらすじ──
第1話では、高台から城下町を見下ろす時雨と桃太郎の姿が描かれた。かつて復讐に燃えていた時雨は、桃太郎との出会い、鬼ヶ島での真実、そして多くの仲間たちとの絆を経て、今は穏やかな時を過ごしている。
二人の会話からは、衛門、弥助、シロ、圓、十兵衛、そして息子・喜備丸といった、彼らが共に生きた者たちの記憶が甦る。
これは、歴史の表舞台から消え去った、もう一つの物語。すべては、一人の男の子が、桃と共に川に流されたところから始まる──。
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第2話:血と泥の子守唄
一
西暦1553年。
幸が十兵衛の元に嫁いで十年余りが経った。
夫婦の間には長男の宗助、長女の春がいた。
宗助は十歳、春は八歳になる。
そしてその年、新たな命が幸の腹に宿った。
子どもたちは素直に喜んだ。宗助は「弟か妹か、どっちかな」と目を輝かせ、春は「私、お世話する!」とはしゃいだ。二人の声が、貧しいながらも温かさの残る家に響く。
しかし十兵衛と幸は、家族が増える喜びと、この時代に新たな命を迎えることへの不安が入り混じった、複雑な心境だった。
というのも、この数年、全国的に干ばつや洪水が多発し、人々を飢饉が襲っていたからだ。
日照り続きで作物はまったく育たず、村の食糧庫も残り少ない。どこもかしこも痩せた土地ばかりで、畑からは土の匂いさえ薄れていた。
十兵衛は宗助を連れて山に入る日々を送るが、最近は山の恵みもめっきり採れなくなっていた。
かつては豊かだった木の実も、今は獣たちに先に食い荒らされ、食べられる食料はほとんど残っていなかった。
風は冷たく、頬を刺すようだった。息をすれば白く煙り、その白さが一瞬で散っていく。
川には、飢えや疫病で命を落とした人々の遺体が流れていく。供養されることなく。時折岸辺に打ち上げられ、誰にも看取られることなく朽ちていく。十兵衛はそれを見るたびに、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
二
そんな中、最悪の事態が訪れた。
盗賊が村を襲撃し、わずかに残っていた食糧庫の蓄えを根こそぎ奪い去ったのだ。
村人たちは何もできなかった。武器もなければ、戦う術もない。
ただ、震えながら家の隅に隠れ、盗賊たちが去っていくのを待つしかなかった。
一夜にして、村人たちの数少ない希望は消え去った。
十兵衛の一家の生活は、容赦なく追い詰められていった。妊婦である幸は日に日に痩せ衰え、体調を崩して床に伏せることが多くなる。彼女の頬はこけ、腕は骨と皮のようだった。それでもなお、彼女はお腹の子を守ろうと、何とか起き上がろうとする。
土間の囲炉裏では、宗助と春が小さな土鍋をかき混ぜていた。
土鍋の底には、ごくわずかな芋の切れ端と、山で採れた木の芽が入っているだけだった。それがこの家族の一日の糧のすべてだ。
湯気と共に、土と草の匂いが立ち込める。かろうじて腹を満たすための粥が作られていく。宗助の手つきは、十歳とは思えないほど慣れていた。何度も何度も、この作業を繰り返してきたからだ。
「お母ちゃん、大丈夫かなぁ……」
春が不安げに、土鍋をかき混ぜる宗助に話しかけた。彼女の声は小さく、自分自身に言い聞かせているようだった。目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
「大丈夫だよ、母ちゃんは強いから。明日こそは栄養のあるもの探してくるからな」
宗助は静かに頷き、春の頭を優しく撫でた。その手は、子供のものとは思えないほどかさついていた。山で木の枝を掴み、岩場を登り、時には獣と追いかけっこをしてきた証だった。
その言葉に、父として何もしてやれない十兵衛の胸は締め付けられた。
拳を握りしめ、歯を食いしばる。
己の無力さを、ただただ呪った。
三
十一月下旬。
朝から降り続く冷たい雨が枯れ木を揺らし、家屋を叩く。雨粒はやがて氷のような冷たさに変わり、外の空気は張りつめたように澄んでいた。
家の奥から聞こえる母の咳は、日を追うごとに弱々しくなっていた。かつては力強かった咳が、今はかすれて、消え入りそうだ。
夕刻、雨に濡れた十兵衛が帰宅した。彼の着物はびしょ濡れで、体は芯まで冷え切っていた。
濡れた体を火で温めながら、彼は土鍋の粥を四つの椀に等しく分けた。
どの椀にも、わずかに底を覆うだけの粥。
それでも、平等に分けることが、この家族のルールだった。
「今日は、こんなものしか採れなかった」
十兵衛が申し訳なさそうに言うと、宗助が明るく言った。
「いいんだ、父ちゃん。明日は俺も山に行くから。一緒に頑張ろう!」
宗助のさりげない優しさに、十兵衛は何も言えず、ただ無言で粥を口に運んだ。彼の喉を通る粥は温かいはずなのに、その味は冷たく、土の味がした。
窓の外では、雨が雪へと変わりつつあった。最初は細かい雪の粒が、やがてぼたぼたと大きな塊になって落ちてくる。
四
翌朝、辺り一面は銀世界に変わっていた。
雪は山肌の崖を脆くし、足元を危険にする。木々は重みで枝を垂れ、時折ばきっと音を立てて折れた。
「宗助、今日はやめておこう。この雪では……」
十兵衛は宗助を心配し、山へ行くのをやめさせようとした。彼の目には、不安の色が濃く浮かんでいる。
しかし宗助は、十兵衛の目をまっすぐ見て、静かに言った。
「父ちゃん……俺は昨日、春と約束したんだ。それに母ちゃんとお腹の赤ちゃんにも、栄養のあるものを食べさせたいんだ。それに……最近父ちゃん、飯ほとんど食べてないだろ?だから、俺がみんなに栄養のあるものを食べさせたいんだ。父ちゃん、頼むよ……」
宗助の声には、十歳の少年とは思えないほどの強い意志が込められていた。彼の目は澄んでいて、少しの迷いもない。
十兵衛は宗助の強い意志に、何も言えなかった。
彼は宗助の背中に、自分と同じ家族を守ろうとする覚悟を見た。
それは、自分が失いつつあった、若い頃に抱いていた熱い情熱だった。
十兵衛は黙って頷き、二人は再び山へと入っていった。
雪が降り積もる山は、音を吸い込み、すべてを静寂の中に閉じ込めていた。
足を踏みしめるたびに、雪がきしむ音だけが聞こえる。
時折、遠くで枝が折れる音がして、それが大きく響く。
二人は慎重に足を進めるが、山の斜面は滑りやすく、時折バランスを崩す。宗助の手はかじかみ、真っ赤になっていた。それでも彼は前に進むことをやめない。
「父ちゃん、もう少しだ。あの崖の向こうに、まだ食料が残ってるかもしれない」
宗助が一歩足を踏み込んだ、その瞬間だった。
地面が崩れ、宗助の姿が一瞬で視界から消えた。
「宗助ッ!」
十兵衛の叫び声が山に響く。雪が彼の声を吸い込もうとするが、それでも声は木々の間を抜け、谷へと落ちていった。
崖の底から、かすかに宗助の声が聞こえた。それは風に消えそうな、細くか細い声だった。
足場の崩れた崖を滑り落ちた宗助は、不自然に折れ曲がった足、そして顔は土と血で汚れていた。
雪が彼の体に積もり、白と赤が混ざり合う。十兵衛は必死に手を伸ばすが、宗助には届かない。崖の縁は脆く、近づけば自分も落ちてしまう。
「宗助ッ!もう少しだ!もう少し手を伸ばせ!」
十兵衛の言葉に、宗助は力なく首を横に振った。彼の口元がわずかに動く。
「父ちゃん、無理だよ。俺はもう……動けない」
その言葉は、悟ったかのように穏やかだった。痛みに歪むことも、恐怖に怯えることもない。ただ、静かな諦め。
宗助は、十兵衛の顔をじっと見つめた。雪が彼の頬に積もる。それを払うこともできず、ただじっと父を見上げている。
「父ちゃん、俺がこうなったのは、運命だよ。でも、俺は後悔してない……父ちゃんの背中を見て、俺、頑張ってこれたから……」
歯を食いしばる宗助の瞳が涙で溢れていた。その涙は、痛みのせいだけではない。生きることへの未練、家族への想いが、一気に溢れ出しているようだった。
「母ちゃんと妹を頼む。そして……お腹の新しい命を、どうか大切にしてあげておくれ」
宗助は笑顔を見せ、十兵衛にしか聞こえないほどの声でつぶやいた。その声は、雪の音にかき消されそうになりながらも、確かに十兵衛の耳に届いた。
「父ちゃん……俺、ちゃんと兄貴やれてたかな……」
その表情は、自分の人生を振り返る者の、静かな満足に満ちていた。
その瞬間、崖の足元が大きく崩れ、宗助の体が谷底へと消えていった。雪煙が立ち上り、視界を遮る。
「……ありがとう……」
この言葉は、十兵衛に届くことはなかった。
「宗助ッ!宗助ぇッッッ!!」
十兵衛の叫び声は、降りしきる雪に吸い込まれ、かき消されていった。彼の声は枯れ、それでも叫び続けた。山が、彼の慟哭を全て受け止めるまで。
五
十兵衛は、長男を失った絶望と、何もできなかった自分への怒りで、正気を失いかけた。
彼の手は震え、目は虚ろだった。叫び続けた声は枯れ、出るのは掠れた息だけ。
それでも、残された家族のためにも、ここで諦めるわけにはいかない。妻がいる。娘がいる。そして、まだ見ぬ新しい命が。
「宗助……!必ず、必ず戻ってくる!」
十兵衛は死に物狂いで崖をよじ登った。体中が痛みに悲鳴を上げ、吐き気がこみ上げてくる。爪は割れ、指先から血が滲む。それでも、彼は登り続けた。
長男の遺体を回収しなければならない……せめて、土をかけてやらないと。
十兵衛は家に戻り、急いで道具を準備し、再び山に向かった。彼の足取りはふらついていたが、止まることはなかった。
しかし雪は既に降り積もり、崖の上からは宗助の姿を確認することはできなかった。一面の白。どこに宗助がいるのか、見当もつかない。
十兵衛はただ、崖の上から土をかぶせ、祈ることしかできなかった。凍てついた土を手で掻き集め、谷に向かって投げる。それだけが、彼にできるすべてだった。
「俺はっ…非力だ」
十兵衛の叫びは、山全体に響き渡った。木々に積もった雪が、その振動でさらさらと落ちていく。
帰宅後、十兵衛は家族に宗助の死を告げた。
春はただ静かに涙を流し、幸はショックでさらに衰弱していった。幸の顔色は土のように青白く、彼女の腹の中で、新しい命だけが頼りなく動いている。
十兵衛は、時代と自分の無力さを呪い、ただ一人、怒りに震えていた。拳を握りしめ、歯を食いしばる。それでも、何も変わらない。何もできなかった。ただ、怒りだけが彼の中で燃え続けた。
六
そして月日は流れ、翌年六月——1554年。
幸は最後の力を振り絞り、出産に入る。
家の奥から、幸の苦しそうな声が聞こえてくる。
十兵衛はただ、その声に耳を澄ませるしかできなかった。
自分の無力さに打ちひしがれ、土間に座り込み、両の掌を固く握りしめた。
やがて苦悶の声が止み、赤子の産声が響き渡った。
十兵衛はその産声を聞いて初めて、安堵の涙を流した。
村の助産師が十兵衛に告げた。
「おめでとう!元気な男の子だ!」
十兵衛は扉を勢いよく開け、幸の元へ駆け寄った。
幸は、産まれたばかりの我が子を抱き、安堵の表情を見せていた。
「幸!よくぞ……よくぞ産んでくれた!」
十兵衛は涙を堪えていたが、その目は赤くなり、今にも溢れ出そうになっていた。
幸はその顔を見て、微笑んだ。
窓の隙間から、朝日が差し込んでいた。その光が、かすかに赤子の顔を照らす。
「宗助も…喜んでくれてるかしら…この子は私たちの希望……光と名付けましょう……この子をどうか、よろしく……」
幸は、光が差し込む方を見ながら、そう言った。
その言葉は、激しい息切れと共に途切れ途切れだった。
十兵衛は、生まれたばかりの子どもを抱き、幸のそばに座り込んだ。
幸は、最後の力を振り絞り、満面の笑顔で十兵衛の頬に触れた。
…だがその瞳は既に光が失われていた
「今まで……ありがとう……十兵衛……先に逝く私を……お許しください……」
幸は、大量の汗を流しながら、そのまま静かに息を引き取った。
「幸!幸ッ!」
十兵衛の叫び声は、家中に響き渡った。
彼は、愛する妻を失い、ぶつけどころのない怒りに発狂した。
この世の理不尽さを、そして自分の無力さを呪った。
その後も、生きるのに精一杯の日々が続いた。
十兵衛は山を駆け回り、わずかな木の実やキノコを探す日々。雪の下から枯れ草を掘り起こし、時には木の皮を削って粥に入れた。
だが生活は改善されず、飢えは彼らの命を蝕んでいく。十兵衛自身も痩せ細り、骨の輪郭が浮き出ていた。
特に、生まれたばかりの光は、栄養を満足に与えることができず、日ごとに痩せ細っていった。小さな体は軽く、抱くと折れてしまいそうなほどだった。
春は母の代わりに光を抱き、懸命に世話をした。彼女の細い腕で、弟を必死に抱きしめる。
だが、まだ幼い彼女には授乳ができない。光の弱々しい鳴き声を聞くたびに、胸が締め付けられる思いだった。その鳴き声は日に日に小さくなり、消え入りそうだった。
夜になると、光を抱きながら一人、こっそりと涙を流した。
「母ちゃんがいたら……母ちゃんがいたら、光を助けられたのに……かぁ…ちゃん…」
春の心は徐々に疲弊し、闇に沈んでいった。彼女の目はうつろで、何を見ているのかわからない。時々、突然声を上げて泣き出すこともあった。
鏡を見るたびに、そこに映る自分は母とは似ても似つかない、やつれた顔をしていた。頬はこけ、目はくぼみ、髪は艶を失っていた。母の面影は、どこにもなかった。
十兵衛もまた、娘の様子に気づいていた。食事の時、彼女が自分の分を光に与えようとするのを何度も見た。夜中にこっそり起き出し、光の息を確かめる姿も。
彼は、春の心身が限界に達していることを悟った。そして、このままでは、全員死んでしまうと……。
七
ある夜、十兵衛は春を起こし、囲炉裏の前に呼んだ。
囲炉裏の火は小さく、二人の影が壁に揺れている。外は雪が静かに降り続いていた。
「話がある」
十兵衛の顔は、憔悴しきっていた。目の下にはくまができ、頬はこけている。それでも、彼の目には何かを決意した者の光が宿っていた。
彼は、震える声で話し始めた。
「このままでは……皆、飢えで死んでしまう……だから……」
十兵衛は、生まれたばかりの光を、春からそっと受け取った。その手は震えていた。
「……この子は川に流そう」
(すまない……すまない……幸……俺は…)
その言葉は、十兵衛自身の心を引き裂くものだった。彼の胸の中で、何かが音を立てて崩れていく。それでも、彼は言わなければならなかった。
その言葉を聞いた瞬間、春は息をのんだ。彼女の目が大きく見開かれる。
「この子は……もう、育たない。母乳も飲めず、日ごとに弱っていく。近くに母乳が出る人もいない……俺たちにこの子を育てることは、不可能なんだ……どうか、許してくれ……」
十兵衛の言葉に、春は涙を流した。それは音もなく、ただ静かに頬を伝う涙だった。
「……お父ちゃん……」
春の声は、か細く震えていた。自分自身に言い聞かせるかのようだった。
「……私たち…お母ちゃんとの約束、守れないのね…助け…られないのね……」
春の言葉に、十兵衛は顔を上げた。娘の目は、もう泣いていなかった。かわりに、深い諦めの色が広がっている。
「子どもたちを、どうかよろしく」——幸に託された言葉。
十兵衛は、その約束を守れなかった自分を呪った。拳を握りしめ、唇を噛みしめる。血の味がした。
「……宗助も、この子を助けるために、命を懸けた……すまん…宗助…お前の死は…」
十兵衛は、亡き妻と息子に顔向けができないと感じ、呆然とした。囲炉裏の火が、彼の影を壁に大きく映し出す。
「川の伝説に命運を託そう……光は、まだ衰弱して苦しんでいる……せめて安らかに……」
十兵衛の言葉に、春は涙を流しながら頷いた。
「……わかった、父ちゃん……」
十兵衛の胸は締め付けられた。彼は、自分の決断が正しいのかどうか、永遠にわからない。ただ、この瞬間にできる最善のことを選んだだけだった。
八
1554年9月。
山にはたくさんの桃が熟れて落ちていた。赤く、甘い香りを放つ実。それが地面に落ち、土の上で静かに熟れている。
十兵衛は倒木を切って箱を作り、光を入れる。その手つきは慎重だった。少しでも優しく、少しでも丁寧に。
春は桃を埋葬のお供えとして拾い集め、箱に敷き詰めた。
彼女は、地面に落ちた桃を一つ一つ拾い上げた。その一つ一つに、母の言葉を思い出しながら。
——母はよく言っていた。「桃には魔除けの力がある」と。
この子に、どうか災いが起きませんように。
そして、もしどこかで誰かに拾われるなら、その人に愛されますように。
春は、祈るように桃を箱に並べた。桃の甘い香りが、彼女の指に移る。
真夜中、二人は赤子を川に流した。
月明かりが川面に広がり、水の流れを銀色に染めている。
「どうか、神様。もし存在するならば、この子に安らぎを……もし可能なら、幸福をお願いいたします」
十兵衛は、川と桃に祈りを捧げ、木箱を流した。彼の手から離れた箱は、水面にそっと触れ、ゆっくりと流れ始める。
木箱は、月の光を浴びながら、ゆっくりと静かに川を下っていく。時折、川の流れに揺れ、桃がかすかに音を立てる。
十兵衛は、愛する我が子を流した罪の意識と、わずかな希望を胸に、ただ立ち尽くしていた。彼の影が、月明かりに照らされて長く伸びる。
春は自分の無力さを悔やみ、喉が潰れるまで泣き続けた。彼女の泣き声は、やがて風に乗って遠くへ消えていった。
九
十兵衛は川から家への道を歩いていた。月が彼の影を地面に長く伸ばしている。影は時折、道端の石につまずくように揺れた。
彼の手には、さっきまで光を包んでいた布が、空っぽのまま握られている。その布を捨てることもできず、彼はただ歩き続けた。
家の明かりが見えてきた時、彼の足は止まった。中からは何の音もしない。春はもう眠っているのだろうか。それとも——。
十兵衛は、門の前でしばらく立ち尽くしていた。手に持った布を、月明かりに透かして見る。そこには何も包まれていなかった。
十
月明かりに照らされた川面を、一つの木箱が流れていく。
その中には、名を捨てられた赤子と、たくさんの桃が詰められていた。
川は、赤子を乗せた箱を優しく揺らしながら、下流へ、下流へと運んでいく。月の光が、その行く先を静かに照らしていた。
この子が後に「桃太郎」と呼ばれ、数多の者と出会い、鬼と呼ばれる者たちの真実を知り、そして、歴史の影で生きることを選ぶとは、今は誰も知る由もなかった。
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同じ頃、遠く離れた城の庭で、一人の幼い女が泥だらけになって遊んでいた。着物の裾は汚れ、髪は乱れ、誰も彼女を咎めない。彼女はまだ知らない。自分の本当の名も、この城にいる理由も。ただ、空を流れる雲だけが、彼女の行く末を知っているようだった。
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【次回予告】
山で出会った二人の少年。互いに競い、高め合い、時に支え合う。
「俺はお前を絶対に見捨てない」
言葉にしない友情が、彼らを強くする。それは、山の掟よりも重い、たった一つの約束。
やがてこの絆が、伝説の一端を担うことになる——。
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第3話「希望の誕生と残酷な出会い」
——桃から生まれた少年と、もう一人の少年。運命の出会いが、今、始まる。
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【第2話・完結】




