第1話:「時雨の夢」
第1話「春、ふたたび」
プロローグ:水の記憶
ぬるい。
湯船に浸かったまま、椿はぼんやりと天井を見上げていた。浴室の灯りが、湯面に揺れて映っている。湯気が立ち上り、換気扇の低い唸りだけが空間を満たしていた。
手に持ったスマホの画面には、何度も読み返した小説が表示されている。『時雨の焼印』——春が死ぬ場面だ。
「なんでだよ……」
呟いた声は、タイルの壁に吸い込まれて消えた。
なぜ春は死ななければならなかったのか。なぜ十兵衛は娘を守れなかったのか。なぜ、なぜ、なぜ。
考え始めると、いつも胸の奥が熱くなる。怒りなのか、悲しみなのか、自分でもわからない。ただ、この作者は残酷だと、そう思う。そう思いながらも、この物語から離れられない。
弥助がいるからだ。
弥助の笑顔が、この理不尽な世界で唯一の救いだった。どんな時でも笑っている。仲間が傷ついても、自分が傷ついても。彼はいつも、「過ぎたことを悔やんでも、死んだ人は戻らない。ならば、この屍を乗り越えて、これから先どうするかが大事なんじゃないか」と言う。
軽薄そうに見えて、誰よりも深く生を肯定する男。
——あんな風に生きられたら。
椿はスマホを胸の上に置き、目を閉じた。
「…疲れた」
世界ジュニア新体操選手権。
銀メダル。
父の死。
すべてが、立て続けに押し寄せてきた。
過労で病院に運ばれた父は、病院のテレビで私の競技を見てくれた。
私にとって唯一の救いが、父の最期の直前にビデオ通話ができた事…
父は、私と演技を観て、最期にこう言った。
「椿……立派だった。俺は嬉しいよ……お前は俺の誇りだ……」
涙が溢れた…そのセリフは、太幽が書いた『時雨の焼印』に出てくる衛門が最期に娘に言う言葉だった。父は私が好きだと言っていた小説を、仕事の合間に読んでいたらしい。
最期の最期に、人の台詞と場面をパクるなんて…
——父さんらしいけどさ。
でも、そんなのずるい。
泣くに決まってるじゃないか。
椿は溢れる感情を漏らさないように、声を殺して泣いた。
目を開けると、スマホの画面がぼやけていた。湯気のせいか、涙のせいか。
手が滑った。
スマホが指から離れ、湯船の中へ——ゆっくりと、光る画面が沈んでいく。
あ、と思った瞬間、全身に電気のような衝撃が走った。
(え……)
体が動かない。
指先から、痺れが広がっていく。
感電——頭の片隅で、その言葉が浮かんだ。
でも、それ以上考える余裕はなかった。
耳の奥で、病院のアラート音が鳴っている。違う、これは父の心電図の音だ。規則正しい電子音が、だんだん遠くなる。
息ができない。口を開こうとして、湯が流れ込んでくる。温かい。ぬるい。肺の奥が、熱く満たされていく。
——父の心電図——
病室に響く、規則正しい電子音。ピッ…ピッ…ピッ…。その音が、彼女の耳の奥で何度も何度も繰り返される。遠くなる。消える。
(私、死ぬの?)
視界が暗くなる。浴室の灯りが、水面の向こうで揺れている。
遠くで、誰かが名前を呼んだ気がした。
「——春、」
父の声だった。でも、父はもういない。じゃあ、これは誰の——
意識が、ぷつりと途切れた。
---
白い空間。
上下も左右もなく、ただ優しい光に包まれた場所。椿は、ふと目を覚ました。いや、目を覚ましたという感覚すら曖昧で、ただ「ここにいる」という確信だけがあった。
(ここは……?)
目の前に、一人の少女が立っていた。
年の頃は八つか九つ。
痩せ細り、頬はこけ、目だけが異様に大きく見開かれている。
着物は擦り切れ、泥と煤で汚れていた。
椿は、その顔に見覚えがあった。
いや、見覚えがあるはずがない。
初めて会うはずなのに——
「…てか私くらい読み込んでたら分かるわ!春だ!」
少女は、椿の顔をじっと見つめ、静かに口を開いた。
「……あの、あなたは……?」
その声は、か細く、今にも消え入りそうだった。でも、その瞳の奥には、かすかな光が宿っている。
椿は、なぜか自然に答えていた。
「私は……椿!よろしくね!」
「……春」
少女——春は、自分の名前を言って、少しだけ俯いた。
「……ここどこ!」
「私も人のこと言えないけど…あんた冷静ねぇ」
(ああ、この子は——『時雨の焼印』の春だ。不安げに周りを見渡して、ここはどこ?…か、安土桃山時代ならではの人の真理かな…現実離れなことがあっても受け入れるのだろうか?)
椿は、春の前にしゃがみ込み、その目をまっすぐ見つめ、満面の笑顔を見せた
「私もわからない!」
春の目が、わずかに見開かれた。
「……え?」
「多分、私、死んだんだね!あんたの事を強く考えてたから、あんたの魂?みたいなもの?をこっちに呼んだのかも!」
「た…たま…たま…?」
春は激しく怯えた様子を見せた。
「魂よ!た・ま・し・い!」
「…魂くらい…わ…わかるけど…」
「ちょうど良かった!春!あんた、今のこの状況を変えたくない?」
真剣な眼差しを春に向け椿は言葉を続けた。
「春…私と、ひとつになろう!あなたはこれからたくさんのものを失う…兄が死に、母は命と引き換えに赤ちゃんを産む。その赤ちゃんは口減しで川に流される…」
あり得る話だと感じた春の肩に力が入る。
「そんな…嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!」
「あんたは立派だよ、母が死んだ後も、その若さで母の代わりを務めるために必死に頑張った…私の知識と知恵があれば、あんたは戦える!守れなかったものを守れる!あんたが助けたかった人を、私が助ける」
「守れる……?母ちゃんも?」
「あなたのお母さんは…実際に見てみないと分からない、でも考えがある!」
椿は、腰に手を当て、ふんぞり返って言った。
「私、あんたの世界のことを『小説』で全部読んでるの! 誰がいつどこで死ぬか、ぜーんぶ頭に入ってる! 特に春!あなたは太幽って作者の都合で『最も残酷な死に方』を迎える!でも私が全部書き換えてやる!」
「…しょうせつ?」
春は、きょとんとした顔で椿を見つめ、それから小さく笑った。
「太幽はね、書道家であるが故に『余白の美学』を持っているの、だから彼の執筆の癖なのかな、説明を省き、あえて書かないことで生まれる余白、読者が自由に考えられるこの部分に運命を変える糸口が見つかるはず!」
「……変な人」
「これくらいのメンタルがないと国際選手は務まらないよ!」
二人は顔を見合わせ、くすくすと笑った。白い空間に、その笑い声だけが柔らかく響く。
やがて、春の体が、少しずつ透け始めた。
「……承諾…で、よろしいかしら?」
椿のその目は活力に満ちていた
「私、待ってる!椿さん……任せるね!」
「戦うのはあんたよ。私に呑み込まれないようにね!」
椿は、春の手を握った。冷たく、細い、小さな手。でも、その手のひらだけは、かすかに温かかった。
春は、その温もりを確かめるように、椿の手を握り返した。
「……うん。お願いします」
その瞬間、白い光がすべてを包み込んだ。
でも、その「夢」の感触だけは、なぜか手のひらに残っている気がした。冷たく、細い、小さな手の温もり——。
彼女は、自分の手を見つめ、小さく息を吐いた。
「……さて、行くか!待ってろよ!推し達!」
---
一:土の匂い
目が覚めた時、椿は藁の上に横たわっていた。
(……何だったんだろう、あれ。内容覚えてないけど…変な夢だった)
「……痛っ!」
背中にゴリゴリと藁の感触が突き刺さる。布団はどこだ、スプリングマットレスはどこだ——いや、そもそもこれはどこだ。
ゆっくりと上体を起こす。頭の奥がぼんやりと重い。二日酔いのような、あるいは熱を出した後のような、そんな鈍い痛みがある。
天井は木の梁がむき出しで、壁は土壁。藁を練り込んだ粗い土の表面が、手を伸ばせば届く距離にある。明かりは小さな窓から差し込む陽だけ。部屋の隅には、煤けた囲炉裏。床は板張りすらなく、土間の上に藁が敷かれているだけだった。
携帯も、テレビも、何もない。あるのは、土と藁と木の匂いだけ。
そして——静かだった。
現代では決して味わえない種類の静けさ。冷蔵庫のモーター音も、車の走行音も、遠くのサイレンもない。ただ、風が木々を揺らす音と、どこかで鳥が鳴く声だけが、遠くから聞こえてくる。
(ここは……)
体を起こそうとして——バランスを崩した。
「……っ!」
腕が、細い。短い。何より、重心の位置が違う。新体操で身体に染み込ませた感覚が、まったく役に立たない。国際大会で銀メダルを取ったあの完璧なボディバランスが、たったこれだけの動きで崩れるなんて。
(そうか、これが春の体か……)
手足は細く、華奢で、とても国際大会の舞台に立っていた体とは思えない。手首など、指で輪が作れそうなほど細い。皮膚の下に、骨の形がはっきりと浮かんでいる。栄養失調で、成長が止まっている証拠だ。
でも——不思議と、嫌ではなかった。
この体には、春の九年間が詰まっている。母を想い、兄を想い、弟を想って生きた、九年間が。
彼女はゆっくりと立ち上がった。裸足の裏に、土間の冷たい土の感触。小石が刺さる。痛い。でも、その痛みが「これは現実だ」と全身に教えてくれる。
新体操の感覚を確かめるように、手足を伸ばしてみる。関節の可動域は、現代人である椿の感覚からすると驚くほど広い。毎日の労働で自然に鍛えられた柔軟性だ。体幹は、九歳の体でも安定している。手足が細いのは気になるが、鍛え直せばどうにかなる。
——重力が違う。
ふと、そう感じた。現代よりも、地面に引き寄せられる力が強い気がする。いや、実際に重力が違うはずはない。違うのは、この体だ。筋肉量が足りないから、自重を支えるのが精一杯なのだ。
(大丈夫。鍛え直せばいい。この体で、弥助を超える——)
いや、それはさすがに無理か。弥助はあの弥助だし。山の王、野生の申し子、衛門の授業から逃げ続けた伝説の男。でも、せめて隣に立てるくらいには——
そこまで考えて、椿はハッとした。
(弥助に会える…!?この時代で、本物の弥助に…!?)
心臓が、さっきとは別の意味で跳ねた。バクバクどころではない。全身の血が沸騰するかと思った。
鬼ヶ島で真実を知り、打ちひしがれる仲間たちの中心で、弥助が静かに口を開く。
【過ぎたことを悔やんでも、死んだ人は戻らない。ならば、この屍を乗り越えて、これから先どうするかが重要なんじゃないか】
(『時雨の焼印』第8話:鬼の真実と新たな決意)
(そうだ。弥助は、どんな時でもそうやって、前を向くんだ。軽そうに見えて、誰よりも深くて、あったけぇ。私も——あんな風に、なれたら。)
(でも、弥助は弥助だ。私は私。私には、私のやり方がある。あの人の想像を超えるような、そんな生き方で。)
(待て待て待て、落ち着け、私。まだ宗助も助かってない。光も産まれてない。なのに弥助のことでテンション上げてる場合か。不謹慎にもほどがある)
わかっている。頭ではわかっている。
でも——。
(弥助……存在するんだよな…あの笑顔で、山を駆け回るんだよな……)
彼女の口元が、にやけた。自分でも気持ち悪いと思う。でも、仕方ない。推しが同じ時代に存在しているという事実が、彼女の全身を熱くさせていた。
(太幽ぅぅぅぅっ!この瞬間をありがとうぅぅぅっ!)
心の中での絶叫が、静かな朝の空気に吸い込まれていく。
——でも、その直後、彼女の胸に冷たいものが広がった。
(……待てよ。私が歴史を変えたら、弥助はどうなる?)
歴史を変えるということは、その先にいる弥助の運命も——弥助という存在そのものも——変えてしまう可能性がある。
(もし、弥助が生まれなかったら?もし、弥助が桃太郎と出会わなかったら?もし、弥助があの笑顔を失ったら?)
背筋が冷たくなった。
推しに会いたい。でも、推しの存在を消したくない。
その矛盾が、彼女の胸の奥に小さな棘のように刺さった。
「春、起きたか?」
男の声がした。振り返ると、痩せ細った中年の男が立っている。目はくぼみ、頬はこけている。でも、その手は大きく、かつては力強かったことを物語っている。着物は擦り切れ、あちこちに継ぎが当てられている。
(十兵衛……?)
【『宗助ッ!もう少しだ!もう少し手を伸ばせ!』
『父ちゃん、無理だよ。俺はもう……動けない』
『父ちゃん……俺、ちゃんと兄貴やれてたかな……』
『宗助ッ!宗助ぇッッッ!!』】
(『時雨の焼印』第2話:血と泥の子守唄)
(そうだ、父ちゃんは…宗助が山に行くと言った次の日、転落事故にー)
(これは本編の十兵衛だ。痩せてる。目がくぼんでる。これが、飢饉の中を生き抜いてきた人間の顔なんだ)
「春、どうした?ぼんやりして」
十兵衛が首をかしげる。
椿は、自分の体を見下ろした。小さな手、華奢な腕。着ているものは、粗末な木綿の着物。何度も洗われて、元の色がわからなくなっている。
(春?これは時雨の焼印…?物語の中の夢?……)
いや、さっきから背中に刺さる藁の感触も、土壁から漂う湿った匂いも、十兵衛のくぐもった声も、すべてがあまりにも生々しい。夢ならもっとぼんやりしているはずだ。これは、現実だ。
「えっと……ごめん。ちょっと待ってて」
彼女の意識が回復していく。その中で、春の記憶がはっきりと自分の中にある事に気づいた。
母の匂い。兄の笑い声。弟を抱いた感触。
それらが、自分の記憶のように——いや、実際に自分の記憶として、心の中に存在している。
頭の奥で、二つの記憶が混ざり合っていく。母・幸が子守唄を歌う声と、現代の母が病室で最期に歌った歌。兄・宗助が頭を撫でてくれる手と、体操のコーチが褒めてくれた時の手の感触。
時折、どちらの記憶かわからない断片が、ふと浮かんでは消える。境界線が溶けていくような、不思議な感覚。怖くはなかった。むしろ、長い間バラバラだったピースが、ようやく一つの絵になり始めたような——そんな安堵があった。
椿はふらつく足で立ち上がり、まっすぐ井戸へ走った。
裸足の裏に、冷たい土の感触。小石が刺さる。痛い。痛いということは、やっぱりこれは現実だ。
水桶に顔を近づける。
水面に映ったのは、自分とは違う少女の顔だった。
痩せていて、目は大きく、髪はボサボサ。頬はこけ、唇は乾いてひび割れている。とても九歳には見えない。栄養失調で、体の成長が止まっているのだ。
でも、その目は——彼女がよく知っている、あるキャラクターの目だった。
(ちょっと待って…今、私はなんて思った?『春の身体』って…まるで、それが当たり前みたいに。そうか……私は、春になったんだ)
彼女の手が震えた。
あまりにも現実味がある今の状況に。
(夢にしてはおかしい。痛みも匂いも、ありすぎる…さっき…私の意識の中に春がって思ったけど…逆?)
椿は思い出せる限り記憶を遡ったが、湯船でスマホを落としたところまでの記憶しか思い出せなかった。浴室で感電して——そして、ここにいる。
「…うん、『私』の意識の中に『椿』が入って来たんだ…」
「多分、あの時は寝てない。死んだのかもしれない」
彼女は深呼吸をした。
冷たい空気が、肺の奥まで入ってくる。藁と土と、かすかな煙の匂いが混ざった、戦国時代の空気。
心臓がドクドクと打つ。
でも、彼女の口元は、ほんの少し、上がっていた。
そして…この後訪れる過酷な現実を改めて整理した。
(あー…これ、あれだ…私に明るい未来が無いやつだ…)
椿は何十回と読み返した『時雨の焼印』のストーリーと作家のパターンを考察した。頭の中で、ページをめくるように記憶をたどる。
(この物語を書いた人は、安土桃山時代の生活状況、文化、飢饉と貧困に追い詰められる人々の心理状態を細かく調べて作っている…現代の理不尽がこの時代では当たり前…理不尽だの差別だの考えてたら運命の時を迎える前に命を落とす可能性がある)
椿の数秒の思考で作家の分析と自分の置かれてる状況を把握した。
彼女の脳裏に、SNSで見つけた太幽の書道作品が浮かぶ。墨の線が紙の上で踊り、文字が文字を超えて何かを叫んでいる。彼女は、その線の勢いを、新体操のリボンが描く軌跡に重ねた。一瞬のためらいが線のブレとなり、決断が鋭い跳ねとなる。それは、言葉ではなく、身体で理解する表現だった。
(本気で変えるなら著作者の想像を超えるような力をつけないとダメだ…)
水で濡らした手で、頬を叩く。
パシン、と小気味よい音が、静かな庭に響いた。
冷たい。
その冷たさが、彼女を現実に繋ぎ止めた。井戸の水は、現代の水道水よりずっと冷たくて、肌を刺すようだった。でも、それがいい。この冷たさが、「ここは戦国時代だ」と全身に教えてくれる。
(夢でもなんでもいい——変えてやる。この作者が残酷なまでに書いた物語を。春の運命を)
椿は、水面に映る自分の顔をもう一度見つめた。
痩せた頬。大きな目。ボサボサの髪。
でも、春の目には、さっきまではなかった光が宿っていた。
「やるぞーーーー!」
小さな声で、自分に言い聞かせた。
「絶対に、変えてやる」
二:夜の寝顔
それから数日、椿は慎重に行動した。
宗助はまだ生きている。朝早くから山に入り、日が暮れるまで戻らない。少しでも食料を手に入れようと、必死なのだ。
十兵衛もまだ元気だ。痩せてはいるが、まだ倒れてはいない。毎日、わずかな畑を耕し、山に入り、家族を養おうとしている。
そして、母の幸は——薄い夜具に伏せっているが、まだ光を産んでいない。
(時間はある。でも、多くはない)
彼女はまず、自分の体を動かした。
新体操で鍛えた感覚が、まだ残っている。
この世界の人間とは桁違いの柔軟性とバランス感覚。体幹は、九歳の体でも驚くほど安定している。手足を伸ばし、関節の可動域を確かめる。身体は不完全、手足が細いのは気になるが、鍛えればどうにかなる。
問題は——母・幸だった。
彼女は毎日、幸の部屋に通った。
夜具を直し、汗を拭き、話しかけた。部屋の中は暗く、空気は淀んでいる。窓らしい窓もなく、小さな隙間から光が差し込むだけだ。最初は「誰かがいる」という気配だけで、幸の反応は薄かった。目を開けることも少なく、椿の呼びかけに応えることも稀だった。
でも、何度も何度も、椿は彼女の手を握り続けた。
骨と皮だけになった、冷たい手。でも、その手のひらだけは、かすかに温かかった。生きている証が、そこにあった。
ある夜のこと。
椿は、厠に行くために夜中に目を覚ました。藁の上から起き上がり、暗闇の中を手探りで歩く。現代の夜とは比べものにならない闇。月明かりだけが、わずかに足元を照らしている。
その時、土間の隅で眠る宗助の姿が目に入った。
彼は、着物も着替えず、泥と汗にまみれたまま眠っていた。手足には無数の擦り傷と、枝で切ったような細かい傷跡。爪の間には、土と草の汁が黒く染み込んでいる。
枕元には、小さな木の実が数個、置かれていた。明日の朝、家族に分け与えるつもりなのだろう。自分の分は、もう食べてしまったのか——それとも、最初から自分の分はなかったのか。
椿は、宗助の寝顔を見つめた。
十歳の少年の顔ではなかった。目尻には、疲労の線が刻まれている。頬はこけ、唇は乾いてひび割れていた。それでも、眠っている時の彼は、かすかに口元が緩んでいた。夢の中で、家族が笑っているのを見ているのかもしれない。
(この子が、あと数日で死ぬ)
本編では、宗助は山の崖から落ちて命を落とす。家族のために、栄養のあるものを探しに行って。十歳の少年が、父を支え、母を想い、妹を守ろうとして——命を落とす。
椿の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
(絶対に、守る)
彼女は、宗助の手にそっと自分の手を重ねた。冷たかった。でも、その手のひらには、確かに生きている温もりがあった。
宗助がわずかに身じろぎした。椿は慌てて手を離し、息を潜める。
しばらくして、宗助の寝息が再び規則正しくなるのを確認してから、椿は静かにその場を離れた。
(私が、変えるんだ)
月明かりの下で、彼女はもう一度、心に誓った。
三:母の目
翌日、椿は幸の部屋で夜具の横に座っていた。幸の手を握り、ただ黙って、その温もりを確かめるように。
「春……お前、急に変わったな」
背後から声がした。十兵衛だ。いつの間にか部屋の入り口に立っている。
椿はどきりとしたが、顔に出さなかった。新体操で培ったポーカーフェイスが、こういう時に役立つ。
「え?そう?」
「ああ。前はもっと無口だった。母ちゃんの所に行くこともなかっただろ…何かあったか?」
(まずい……)
椿は頭を巡らせた。本編の春は、確かに無口だった。無口で、内向的で、自分の感情を表に出すのが苦手な子だった。でも、今の椿は違う。どう誤魔化すか——
その時、奥の夜具から声がした。
「春……おいで……」
幸の声だった。か細く、今にも消え入りそうな声。でも、確かに椿を呼んでいる。
椿は十兵衛と顔を見合わせ、ゆっくりと部屋の奥へ入った。心臓が、さっきとは別の意味で早鐘を打つ。
幸は夜具に横たわったまま、椿を見上げていた。その目は、かすかに光を宿している。もうろうとしているが、確かに「何か」を感じ取っているようだった。
「母ちゃん……?」
「女同士の話をしたいから、あなたは宗助を頼みます」
「ん?わかった。春、母ちゃんを頼むぞ!何かあったらすぐ呼びにこいよ!」
十兵衛は爽やかな笑顔で宗助の元へ向かった。その背中が障子の向こうに消えるのを、椿は祈るような気持ちで見送った。
部屋に二人きりになる。
静かだった。遠くで、鳥の鳴き声が聞こえる。囲炉裏の火が、パチパチと音を立てている。
「かぁちゃん、どうしたの?」
椿が声をかけると、幸は小さく微笑んだ。その微笑みは、病に伏せる人のものとは思えないほど、確かな強さを帯びていた。
「お前は…誰?」
その言葉に、椿の心臓が止まった。
(と、と、と、父ちゃん!何かが起こった!助けて~)
心の中で叫びながらも、椿の顔はなぜか笑っていた。引き攣った笑みが、自分の頬に張り付いているのがわかる。
椿は冷や汗を流しながらどう切り抜けるかを考えていた。頭の中が真っ白になる。何か言わなければ。でも、何を。
幸はじっと椿を見つめた。
その目は、病気の人の目ではなかった。
何かを確かめる、強い光を帯びていた。まるで、椿の魂そのものを見透かすような——
(あっ、これダメなやつだ)
椿の本能が警鐘を鳴らしていた。幸の目は、ただの母親の目じゃない。「何か」を感じ取っている。ごまかしが効かないことを、彼女の全身が理解していた。
幸は、ゆっくりと口を開いた。
「今朝、あなたが私の手を握ってくれた時……気づいたの」
「……何を?」
「あなたの手から、春の匂いがしなかった」
椿は息を呑んだ。
「春はね、いつも土の匂いがした。畑を手伝って、野菜を洗って、それでも落ちない土の匂い。それと、囲炉裏の灰の匂い。私が寝込む前、よく一緒に火を焚いたから」
幸の目が、遠くを見るように細められる。
「でも、今朝のあなたの手は……違った。もっと別の匂いがした。なんだろう……知らない匂い。清潔で、でもどこか寂しい匂い」
椿は、自分の手を見つめた。
現代の記憶。消毒液の匂い。体育館のマットの匂い。父の病室の匂い。それらが、この時代の水で洗っても、まだ手に染みついているというのか。
「それに……あなたの目」
「……目?」
「ええ。春の目は、いつも何かに怯えていた。母を失うかもしれない、兄を失うかもしれない、生まれてくるのは…弟でいいのよね?産まれてくる赤子も失うかもしれない——そんな恐怖に、ずっと震えていた」
椿は、本編では語られなかった春の内面を、母の言葉で知った。九年間、ずっと。娘の心の奥底にある怯えを、母は見抜いていた。
「でも、今のあなたの目は違う。何かを守る決意をした者の目だ。まるで——未来を知っているかのような」
椿は何も言えなかった。言う必要がなかった。幸は、すべてを察していた。言葉ではなく、目で。手の匂いで。母としての直感で。
(どうする。隠し通す?いや、無理だ。私は演技なんてできない。新体操は個人競技だ。表情を作る必要なんてなかった。仮面を被る練習なんて、したことがない)
心臓が早鐘を打つ。冷や汗が背中を伝う。着物の下で、全身がじっとりと湿っていく。
(でも、本当のことを言ったら——信じてもらえるのか?「私は五百年先の未来から来ました」って、そんなの頭のおかしい奴だと思われるだけじゃ……)
いや、待て。
(この時代に、精神病院なんてあるのか?ないよな?だとしたら、頭のおかしい奴はどうなる?)
村八分。隔離。最悪、殺される。
(無理無理無理無理!!!)
椿の脳内で、警鐘が激しさを増す。しかし、その時——彼女の心に、別の記憶が浮かんだ。
父の声だ。
「これからどう生きるかが重要だ」
(……そうだ。父さんはそう言った。私は、春として生きると決めたんだ。なら——)
嘘をついて生きるのか?この人に、母に、偽りの自分を見せ続けるのか?
(いやだ)
答えは、すぐに出た。
(私は、本当のことを話す。信じてもらえなくてもいい。でも、この人にだけは——春の人生をくれたこの人にだけは、嘘をつきたくない)
椿は唇を噛んだ。そして、顔を上げた。
「…春です……でもなんと言えばいいか…私自身もまだ整理がついてなくて」
椿は深呼吸をした。息を吸うたびに、胸の奥が震える。
そして、すべてを話した。
自分が別の世界から来たこと。自分が元々「椿」という名前だったこと。父を病気で亡くしたばかりだということ。『時雨の焼印』という物語の中で、春という少女の運命を知っていること。
この先、何が起こるか。宗助の死。光の誕生。そして、幸の最期。
言葉を紡ぐたびに、幸の顔から表情が消えていった。でも、その目だけは、ずっと椿を見つめ続けていた。
部屋の中が静まり返った。囲炉裏の火の音だけが、時を刻むようにパチパチと鳴っている。
幸は、長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「……その物語の中で、光は生きるの?」
「はい。川下で老夫婦に拾われ、近隣の母から母乳をもらい、大きく育ちます。そして、後に鬼ヶ島を平定し、伝説の英雄となります」
幸は、そっと自分の腹を撫でた。その手は、もう力がなかった。それでも、優しかった。何かを慈しむように、ゆっくりと、円を描くように。
「……それでいい」
「幸さん……!」
「光が生きるなら、それでいい。私は、そのために産む。それが、私の役目だ…」
幸は、少しだけ間を置いてから、続けた。
「お前も、母と呼んでくれる?あなたに二度、母を失う悲しみを背負わせる事になるけど、母と呼んで欲しい」
椿の目から涙が溢れた。
本編の春は、この言葉を聞けなかった。
母が、自分の命と引き換えに産むことを「選んだ」という事実を知らなかった。
「ただ…この子を頼みますと言って死んだ私の願いを聞かず口減しですか」
微笑みながら、涼しい顔をする幸を前に、椿の表情は涙を流しながら恐怖で引き攣った顔をしていた。
(この人、全部わかってる……!本編で十兵衛が選んだ『口減し』も、それを止められなかった自分の無力さも、全部知った上で——それでも、私を『娘』と呼ぶの?)
幸の微笑みは、慈愛に満ちているのに、どこか現実を超越した恐ろしさがあった。この時代を生き抜く母の、凄みのようなものが、椿の背筋を凍らせた。死を目前にした人間の、すべてを達観した強さ。
でも、今の椿は知っている。
この人が、自分の命を差し出してでも、光を産むことを選んだと。
「母ちゃん……私、約束します。今度こそ光を守ります。宗助も守ります。そして——」
【『(この子は……私が守る!)』
『(……守る……こ…んど…そ)』
(『時雨の焼印』第3話:希望の誕生と残酷な出会い)】
彼女は拳を握りしめた。その拳は、新体操で鍛えた小さな拳。でも、この世界で最も強い拳になるかもしれない。指の関節が白くなるほど、強く、強く。
「絶対に、この物語を変えてみせます」
幸は、その拳を両手で包み込んだ。
「うん。信じてる」
その声は、今までで一番、優しかった。
幸は、しばらく椿の手を握ったまま、何かを考えるように天井を見つめていた。そして、ふと口元を緩めた。
「椿、あなたに話しておきたいことがあるの」
「……はい」
「私ね、若い頃、都に行ったことがあるの。一度だけ。父に連れられて、お祭りを見に」
椿は黙って耳を傾けた。幸の声は、少しだけ昔を懐かしむように、柔らかくなっていた。
「そこで見たの。都の女の人たちが、きれいな着物を着て、髪を結い上げて、笑いながら歩いているのを。私はね、その時思ったの。いつか私も、あんな風になりたいって」
幸は、自分の痩せ細った手を見つめた。
「でも、この村に戻って、十兵衛と出会って、宗助が生まれて、春が生まれて……気づいたら、あの時の夢は、どこかに消えてた。でもね、後悔はしていないの」
「……どうして?」
「だって、あの時の夢より、ずっと大切なものができたから」
幸は、椿の頬に手を伸ばした。冷たい手だった。でも、その冷たさが、かえって言葉の重みを増した。骨ばった指が、椿の頬の輪郭をそっとなぞる。
「あなたもね、椿。あなたの人生で、大切なものを見つけてほしい。この時代で、あなただけの、大切なものを」
椿は、声を上げて泣いた。声を殺さず、我慢もせず、ただ子どものように、母の前で泣きじゃくった。九年分の春の涙と、十七年分の椿の涙が、混ざり合って夜具に染み込んでいく。
現代で父を亡くした時、彼女は声を殺して泣いた。誰にも気づかれないように。それが、彼女の泣き方だった。
でも、今は違う。
この人の前では、我慢しなくていい。子どもみたいに泣いていい。そう思えた。
幸は、そんな椿の頭を、ずっと撫で続けていた。
「……そういえばね」
ふと、幸が何かを思い出したように口を開いた。
「その『時雨の焼印』という物語に出てくる、時雨という娘が、いつも手首をなぞっている……そう言ってたわね」
椿は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「……はい」
「私もね、同じことをしていたの。宗助を産んですぐの頃、何もかもが不安で、夜になると自分の手首をなぞっていた。生きていることを確かめるように。この手で、この子を守れるかどうか、確かめるように」
幸は、自分の手首を見つめながら、少しだけ笑った。
「だから、わかるの。その娘の気持ち。誰かのために何かをしようとして、でもそれが上手くできなくて、それでも諦められなくて——そんな時、人は自分の手首をなぞるのよ」
椿の胸に、熱いものが込み上げてきた。
『時雨の焼印』で、時雨が手首をなぞる仕草。あれは、団子作りの火傷の記憶であり、誰かのために何かをしようとした証であり、そして——母から娘へと受け継がれる、無意識の祈りだったのかもしれない。
「母ちゃん……」
「だからね、椿。あなたがこれから、誰かのために何かをしようとして、傷つくことがあっても——それは、無駄じゃないから」
幸の声は、だんだんと小さくなっていた。話し疲れたのだろう。でも、その目だけは、最後まで椿を見つめていた。
「約束、覚えてる?」
「……はい。光を守ります。宗助も守ります」
「それと、もう一つ」
幸は、椿の手をぎゅっと握った。
「あなた自身も、守るのよ」
椿は、言葉が出なかった。代わりに、何度も何度も頷いた。
幸は、満足そうに微笑むと、ゆっくりと目を閉じた。
その寝顔は、安らかだった。
椿は、その場を動けなかった。幸の手を握ったまま、ただじっと、母の寝顔を見つめていた。囲炉裏の火が、部屋の隅で静かに燃えている。その灯りが、幸の頬に柔らかな影を落としていた。
どれくらい時間が経っただろう。
椿は、ゆっくりと立ち上がった。幸の手をそっと夜具の中に戻し、布団の端を整える。
「母ちゃん、行ってくる」
声には出さなかった。でも、心の中で、確かにそう言った。
彼女は部屋の入り口で振り返り、もう一度だけ、幸の寝顔を見つめた。
そして、決意を胸に、外へと踏み出した。
【次回予告】
(頭の中で、二つの声がする。一つは「春」としての私。もう一つは「椿」としての私。まだ完全には混ざらない、変な感じ)
春(九歳):「あの……兄ちゃんが、もうすぐ山で……死ぬの……? 私、どうすれば……」
椿:「落ち着け春! 私がついてる! 宗助の死に様は『時雨の焼印』第2話で暗記済みだ! 崖の位置も、時間も、天候も、ぜーんぶ頭に入ってる!」
春:「で、でも……私、兄ちゃんに『山に行かないで』って言えるかな……言ったとして、聞いてくれるかな……」
椿:「そこだよ問題は! 宗助は家族のために山に行くんだ。それを止めるってことは、彼の誇りを傷つけることでもある。ああもう、なんでこの作者はこういう『どうしようもない葛藤』を書くのが上手いんだ! 太幽め……!」
春:「あの……太幽って……?」
椿:「あっ、ごめん! 今のはこっちの話! とにかく次回、私は兄ちゃんを止めに行く! 本編の知識をフル活用して、新体操で鍛えたこの体で、絶対に守ってみせる!」
春:「……私も、頑張る。兄ちゃんを、失いたくない」
椿:「そうだ、その意気だ! 二人でやれば怖くない! ……って、二人って言っても体は一つなんだけどね! この微妙に噛み合わない感じ、読者の皆さんにも伝わってますか? 伝わってなくてもいいや、私が楽しんでるから!」
(よし、書けた。でもこの時代、これ誰が読むんだろう。まあいいや)
「次回、第2話『山の朝』。兄ちゃん、待ってて。私が絶対に、あなたの未来を変えてみせるから」
【第1話・完】




