馬鹿でもできる
サラがすっと音もなく立ち上がると、そのまま颯爽と壁にかけてある刃物へ手を伸ばす。
まさか、いきなり刃傷沙汰か? と怯む伯爵とダリア。しかしサラがそれを恐ろしい形相で振り回すことはなく、くるりと壁の上で一回転させる。すると壁の一角に扉――なぜか近未来感のある銀色の扉だ――が現れる。サラはその取っ手を開こうとする前に、どこからか二枚の布切れを取り出す。
「申し訳ありませんが、お二人には目隠しを。伯爵とダリア様は手を繋いで、ダリア様は私の腕を掴んでください。この先は私が先導いたしますので……さぁ、参りましょう」
静かな、しかし有無を言わさぬ口調でそう指示するサラ。ここから先は、本当に後戻りできない領分に入るのだ……今更、尻込みしてしまう伯爵と違いダリアはもう腹を決めたようだ。可愛らしい顔立ちに確かな覚悟を見せつつ、ダリアは頷いてみせる。
「行きましょう、ブルーノ様」
静かに告げるダリアの目を見れば、美女に弱い伯爵が抗う術もなく――サラに導かれる形で、二人は井戸の底を進んでいくことになった。
視界が塞がれているとはいえ、その道のりは長く奇妙なものだった。
時にジャンプやダッシュを指示され、時に亀の甲羅を蹴るような感触やコインを獲得するような甲高い音が聞こえる。どうやらサラ以外の人間も伯爵たちの道案内をしているらしく、ヤッフー! というハイテンションな男性の気配も存在した。一体どこに向かっているんだ? というか自分たちが今どんな世界にいるんだ? などと不安を抱えながらも伯爵はそれでもダリアの腕をしっかりと掴んでいた。その姿はさながら、夜中に一人でトイレに行けず泣きべそをかきながら「怖いから着いてきて」と親を起こす駄々っ子のようだ。その情けない姿をダリアに見られなかったのは、伯爵にとって幸運だったかもしれない……そうして、どれほど歩を進めただろうか。
「さぁ、お二人とも。もう目隠しを外していいですよ」
サラの言葉と共に、何者かの手で伯爵たちの視界が開かれる。
いきなり、もたされた明るい光景に少し目を細めたが――その二人を見つめる男もまた、にこやかに目尻を下げてみせた。
「やぁ、優秀なるサラ。先触れもそこそこに、この私のところを訪れてモンターニャ伯爵とその最愛の美女たるダリア嬢を連れてくるとは……ずいぶんと大荷物じゃないか」
一人掛けのソファに腰を下ろす、身なりの良い男性。その姿に伯爵は、嫌と言うほど見覚えがあった。特に何か恐ろしいことを口にしたわけではなく、直接的な危害を加えようとしたこともないが伯爵に強烈な恐怖心を植え付けた人物――王弟殿下が伯爵とダリア、そしてサラを値踏みするかのような目で見下ろしている。普段は誰に対しても臆することなく、のらりくらりと会話するサラもやや緊張しているのか警戒心を滲ませ口を開く。
「世界を救うために、囚われの姫を助けに行くヒーローなんてごまんといるでしょう。私はデイジー様の専属侍女として、このお二人が協力者になりうると判断いたしました。そのため、ここまでこのお二人をお連れしたのです……」
「なるほど、そこまでしてデイジー嬢を返してほしいと……まぁ、君にとってデイジー嬢こそが最愛の人だろうからな。だが、そこのブルーノ・モンターニャ伯爵は違うのではないか? 彼女は契約妻だし、その身柄を拘束することに異を唱えないと前に聞いたと思うのだが……はて、私の記憶違いだったかな?」
さりげなく、しかし鋭い王弟殿下の目を向けられ伯爵はみっともなく体を震わせる。
本当ならこんなところすぐに逃げ出したい、さっさと何もかも放り出してまた女のところに遊びに行きたい……そんな呆れた本音を、ダリアと王弟殿下の前という場で伯爵は必死に己を保つ。
「……無礼であることも、非常識であることも承知しております。ですが、デイジーはやはり……僕の妻なのです。契約結婚とはいえ、夫である僕が彼女の状況を知らされないのは……その、やはりいただけないというか……」
「おや、貴殿でも『無礼』だとか『非常識』だとかいう言葉を存じていたか。意外だな、私はモンターニャ伯爵のように大勢の女性からから言い寄られる男にとって無縁の言葉だと思っていたが……まぁ、言葉を知っていることそれ自体は決して不思議なことではないな。そこに込められた意味を知らずとも、単語を口にするだけなら馬鹿でもできることだ」
伯爵を小馬鹿にするような発言の数々に、ダリアは反発心を覚えるがさすがに相手が王家とあっては言い返すこともできない。ぐっと堪え、その場に踏ん張るダリアと伯爵をよそに王弟殿下はまたしてもサラの方へ視線を戻した。
「だがサラ、そんなモンターニャ伯爵とダリア嬢が一体どんな『協力者』になる? そもそもポッツオ伯爵家からは既に『あの娘はモンターニャ伯爵に妻として差し上げたもので、後のことは知らない』というお決まりの回答が示されている。わざわざデイジー嬢と異なる、自分の黒髪を弄りながらだ……曲がりも何も彼女の親がそれ以上の追及をしないんだ。これ以上、話をどうやって広げる? デイジー嬢を取り戻すための理由が、どこにある?」
ご丁寧にポッツオ伯爵が前髪を弄る真似をしながら、王弟殿下は問いかけてみせる。その瞳は獲物を物色する肉食獣のような、絶対的強者の瞳だ。その凄まじい圧力を前に、さすがのサラも冷や汗を流す。
王弟殿下は間違いなく、修羅場を潜り抜けてきた人間だ、しかもそれは女好き色ボケ伯爵のような『痴情のもつれ』なんて軽いものではない。正妻の子でないというだけで受けた、心無い差別や偏見。王家の血筋、そしてそれを受け継ぐ権利が存在するという強大なプレッシャー。本人が望むことなく、拒むこともできなかったそれは王弟殿下に確かな強さをもたらした。人脈、地位、精神力、決断力……どれを取っても一級品だろう。その気になれば玉座も狙える彼の前では、狂気の凶器侍女であるサラも慎重にならざるをえない。
だが――
「……確かに僕は、たくさんの女性を虜にできる男だと思っています。ですが……その僕が妻の一人も守れないなんて、屈辱でしかありません」
いいこと言ったみたいな感じで、しかしかなり自己中心的な発言をする馬鹿がいた。
それはサラでもダリアでも、当たり前だが王弟殿下でもない。この場でそこまで愚かで、クズで、ゴミで、まぬけでアホのダメ人間は一人しかいなかった。恐怖に慄きながら、緊張でフラフラしながら、惨めでみっともない姿を晒す天下一品の馬鹿――伯爵に、さすがの王弟殿下も目を見張る。
「僕はデイジーを愛しているわけではありません……彼女とは契約結婚、所詮はお飾りの妻です。ですが……このブルーノ・モンターニャ伯爵の妻となったからには、勝手に離れていくなんて許しません。『あの男は妻に逃げられた』だなんて悪評がついたら……僕にとってそれは、一生の不覚です……!」
……こんなに自惚れ屋の馬鹿、初めて見た。
きっと王弟殿下の本音は、その一言に尽きるだろう。実際、伯爵はものすごい馬鹿だった。自分が女にモテることを自覚し、それを鼻にかけるぐらいには馬鹿だった。馬鹿と女好きを究極まで煮詰めて、人間にしたのが伯爵というぐらいの大馬鹿者だった。
しかし――そんな馬鹿でも、いや、むしろそんな馬鹿だからこそ声を上げることができた。
どうしようもなくしょうもない理由でも、別に評価するほどでもないくだらない理由でも、譲れない信念がある……伯爵はそういう馬鹿だから、この場で愚かな発言ができたのだった。




