失敗したなあ 【失敗】《2200字》
喉がカラカラに渇いていた。まだ夏など遠い春だというのに。空に輝くのは焦がすような日ではなく淡やかな月だというのに。
煌々と輝く月が眩しい。白い光を、彼女の白い肌が反射していた。風が何も知らぬようにゴウと吹き、ほのかな桃色の花弁を散らせる。地面に横たわったままの彼女に点々を残す。失敗した。こんなはずではなかったとわかっているのに、思わず肌の上の花弁に見とれる。ハッとして彼女を抱きかかえる。未だ身体は暖かい。けれどその身体は軟体動物のように、あるいは精巧な人形のように力なく弛緩していた。あたりを見回し、誰もいないことを確認してから車へと運び込んだ。その途中、一本の桜の枝を手折った。満開の桜が、数輪ついていた。
こんなつもりはなかった。僕はただ彼女が好きだった。だから恋人ができたと笑う彼女に、せめてもの思い出作りに夜桜見物に誘ったのだ。最後の最後、これで終わりにしようと決めていた。桜が散り葉桜に変わるころにはただの友達として、親しい知人としての立場に甘んじようと。
名所は騒がしいから嫌だと、彼女が言った。だから人の集まる場所じゃなくて、彼女の家の近くの公園に来たのだ。桜は満開の手前くらいだった。決して大きくはない池があり、その周りを桜が植わっている。公園内には安っぽい白い明かりが申し訳程度についていた。
煌々と天に昇る月のせいで、夜の割に明るい闇だった。桜はほの白さを纏い、心のなしか発光しているようにさえ見えた。
コンビニで買った缶ビールとチューハイ、小さなビニールに入ったするめを食べながら静かに僕たちは桜を見ていた。
沈黙が辛くない間柄だった。言葉がなくとも満たされる、気の置けない仲。それでも僕は彼女の特別にはなれなかったのだが。
彼女はきっと幸せになるのだろう。彼女の恋人がどんな人間なのか知らない。いや聞けばきっと彼女は答えてくれるのだろうが、聞く勇気も僕にはなかった。
穏やかな夜だった。
ふと、彼女が空を仰いで呟いた。
「月が綺麗だね。」
きっと他意なんてなかっただろう。それなのに僕は深読みしてしまった。深読みせずにはいられなかった。I love you.なんて、あるはずがない。口にするにはあまりにも有名すぎて、ちんけすぎた。何より彼女がそんなつもりで呟いたわけではないことくらいわかっていた。なのに馬鹿馬鹿しくも僕は聞いてしまった。
「死んでもいいって?」
使い古された口説き文句とその返事。本来なら逆のセリフなのだろうが。
ここで間違えたのだ。僕はそう訊くべきでなく、彼女はこれに「何の話?」と怪訝な顔をすればよかった。そうすればなにも失敗など起こらず、ささやかな恋が一つ終わるだけで済んだのだ。
それなのに、彼女あろうこと微笑んだのだ。不審げな顔もせず、小馬鹿にして鼻で笑うこともなく、穏やかに微笑んだ。その美しさ儚さは、月の女神でさえ恥じ隠れ、花でさえも羞恥を覚えるだろう。
間違えた間違えてしまったのだ。こんなはずではなかったのに、気が付けば僕は君の首に手を伸ばしてしまった。
そのままペンキの剥げかけたベンチにその身体を押し倒し、力の限りその白い首を締め上げた。しばらくして、彼女は動かなくなった。
こんなつもりじゃなかった。僕はただ一つの恋を葬らんとしていただけで、まさか彼女の生を終わらせる気など微塵もなかったのだ。
不幸が重なったのだ。月が綺麗だった。公園には桜以外なにもいなかった。僕が間違った問いかけをした。彼女があまりにも美しかった。これはただの不幸だったのだ。
公園の側につけていた車のトランクに彼女の身体を横たわらせる。丁度よく大きなシャベルが一つ入っていた。近くの山へ埋めてしまおう。ああそうだ、桜が咲いている山がいい。月が見えて桜が咲くところ。彼女が一人でも寂しくないように。そこに咲く桜はきっと来年からより綺麗な花を咲かせるだろう。
トランクに彼女とシャベルと枝一つ入れて車を走らせる。
何もかもが夢のようだった。夜が明けたら、じつはすべてが夢で、トランクの中には使われた形跡のないシャベルだけがあって、彼女は何でもない風に笑っていて。
でも僕は同時にひどく興奮していた。彼女は諦めるつもりだった。手に入らないものと、手の届かないものだと。それなのに、僕は彼女の全てを手に入れてしまった。命も、彼女の存在も、その未来も、奪うことで手に入れてしまった。
想定外の失敗だった。けれど同時に想定外の喜びも僕は感じていた。僕だけが知っている。彼女がどのように死んだか、彼女がどこにいるか。僕だけが彼女に会いに行こう。山の中、寂しくないように。
山道の途中で、車を止める。これ以上は歩いていくしかない。彼女を抱えて、彼女が永遠を過ごす場所に相応しい場所を探そう。桜が咲いて、月が見える場所。
トランクを開けると彼女がいた。息を止める。彼女の黒い両目と、視線が合った。一瞬だった。何もできなあった。鈍色のシャベルが目の前に迫って、
「失敗したなあ。私が殺されそうになるなんて。」
本当は殺すつもりだった。なのに逆に私が殺されかけるなんて、馬鹿馬鹿しい。しつこい男だった。だから終わらせようとした。花見に乗ってやって、酒を飲ませ泥酔させ、ポケットに忍ばせたロープで首を。
しかしまあ不幸中の幸い。怪我の功名。
運ぶ手間もなく、男の死体は山中にある。おまけにシャベルまでついているのだから。トランクに入っていた桜の枝を放り、頭の潰れた男の死体と濡れたシャベルを持って、私は木々の中を歩き出した。




