第二話 Voyage 04: 昼夜関係なく輝く日輪
北原さんとの電話を終え、張り詰めていた緊張が解けると、
急に猛烈な空腹感が襲ってきた。
そういえば、昼前から何も口にしていない。
穂花はベッドから起き上がり、
スマホで近くにある安くて美味しい店を探した。
徒歩数分の場所に、地元で有名らしい活気のある大衆居酒屋を見つけ、
そこで遅めの夕食を手早く済ませることにした。
店を出てホテルへの帰り道。
ようやく瀬戸内の厳しい日差しが沈んだ街は、
9月末の夜風を連れて急に肌寒さを帯び始めていた。
カバンの奥で、スマホが短く震えた。
メールの着信を知らせるバイブ音。
穂花は何気なくスマホを取り出し、
画面に目を落とした――その瞬間、息を呑んだ。
画面に映し出されたメールのアイコンが、
まるでホログラムのように液晶から立体的に浮き上がってきたのだ。
「え……?」
呆然とする穂花の目の前で、
その立体的な手紙はスマホの画面上でなめらかに三回ほど
クルクルと回った。
ひっくり返ったその裏面には、
鈍く輝く金色のシーリングスタンプが押されている。
刻まれているのは、まるで燃え盛る太陽のような、
見たこともない緻密な紋章。
ひとしきり回り終えると、その不思議な手紙は、
まるで水面に溶けるように吸い込まれてスマホ画面の中へと消えていった。
穂花はあっけにとられ、光る画面を凝視したまま立ち尽くした。
十秒ほど経っただろうか、ハッと我に返り、慌てて周囲を見回す。
駅前のホテル周辺とはいえ、一本入った薄暗い路地裏だったため、
幸いにも人影はなかった。
えげつない心霊現象か、あるいは新手のタチの悪い詐欺か。
得体の知れない不安に駆られた穂花は、
静まり返った路地を全力で駆け抜け、街灯の明るい大通りへと飛び出した。行き交う車のヘッドライトと通行人の姿を確認してようやく走るのをやめ、激しく上がる息を整えながら、逃げ込むようにビジネスホテルへと戻った。
エレベーターに乗り、八階の自室の前へ。
ドアノブの上にあるセンサーにプラスチックのカードキーをかざす。
電子音が鳴り、カチャリと鍵が開いた。
穂花は安堵のため息を漏らしながら、部屋の一歩を踏み出した。
――だが、そこに、ベッドが一つ辛うじて入るだけの狭いホテルの一室は、存在しなかった。
「――っ!?」
ゴロゴロと鼓膜を揺らす雷鳴。激しく肌を叩く、冷たい激しい雨。
気がつけば穂花は、
夜の闇に紛れる歪な石畳の道の上にぽつんと立っていた。
慌てて後ろを振り返るが、
さっきまで触れていたはずのホテルのドアなどどこにもない。
そこにあるのは、暗闇の奥へと永遠に続いているかのような石畳の道と、
左右から聞こえてくる波のさざめきと潮の香りが香ってくるのと
背後になだらかな丘の輪郭だけだった。
処理しきれない異常事態に、穂花は周囲に人がいるかどうかも確かめず、
本能のままに大声を張り上げた。
「ちょっと……どうなってるのよ――!」
叫び声は激しい雨音にかき消され、返事はない。
あたりには人っ子一人見当たらなかった。
いきなり見ず知らずの奇妙な土地に放り出され、
パニックになりそうな心を必死で押さえつけながら周囲を見渡す。
すると、丘とは反対側の暗い視界の先に、
ぽつりと影が浮かび上がっていた。
それは、天に向かってまっすぐ伸びる、古びた灯台のような建物だった。
他に行くあてもない。
穂花は濡れて重くなったカバンを抱え、
土砂降りの雨の中をその建物へと向かってがむしゃらに走り出した。
近づくにつれて、
やはりそれが巨大な石造りの灯台であることがはっきりしてくる。
すぐ横からは、激しい雨音に混ざって、轟々(ごうごう)と
荒れ狂う海の波音が不気味に響いていた。
視界の端には、底の知れない真っ黒な海が広がっている。
だが、肝心の頂部にあるはずの巨大なレンズは、
完全に沈黙して光を失っていた。
急な大雨で自慢の服も髪も一瞬で台無しにされ、
穂花は恐怖を通り越してイライラが頂点に達した。
灯台の入り口に辿り着くと同時に、激しく愚痴をこぼす。
「ちょっと! 灯台なんだから、光くらいまともに灯しといてよバカ!」
びしょ濡れになりながら、穂花がその灯台の重厚なドアノブに手をかけた
――その瞬間だった。
ドクン、と心臓が跳ね上がる。
激しい落雷のような衝撃と共に、
穂花の脳内に、人間のものではないあまりにも長大で圧倒的な
「記憶の履歴書」が直接流れ込んできた。
――アポロンではなく、太陽そのものである神。
――かつてクロノスが統治した、
働かなくても糧が得られた「黄金の時代」。
――そして、ゼウスによってもたらされた「冬」と、
生きるための「労働」。
津波のように押し寄せるその記憶の主の名は――太陽神ヘリオス。
現代の人間が知るギリシャ・ローマ神話において、
太陽神といえばアポロンの名が有名だ。しかしヘリオスは、
アポロンよりも遥か古来より、
太陽そのものとして崇められてきた絶対的な神であった。
──そう、あの世界の覇権をかけた大戦が起きるまでは。
オリンポス神族のゼウスと、その父でありティタン神族の頂点に立つ
『時の神』クロノスとの戦争。
後に『ティタノマキア』と呼ばれるその大戦の前、
世界はクロノスが治める『黄金の時代』だった。
大地には食べ物が溢れ、人間は労働をする必要すら記述になかった。
だが、ゼウスがクロノスを破ったことで世界の秩序は一変し、
この地上に『季節』が回り始めたのだ。
食べ物が一切実らない『冬』という過酷な季節の誕生。
その結果、人間は生きるために働かざるを得なくなり、
楽をしようと互いを騙し合う者が後を絶たなくなった。
勝利したゼウスは、敗れたティタン神族の権力を奪い去るため、
神々の権能を一つに統合する『習合条例』を打ち出す。
それは、大戦においてどちらの陣営にも加担しなかった
中立の太陽神ヘリオスとて例外ではなかった。
ゼウスは己の息子であるアポロンに
「今日からお前が太陽神の仕事をしろ」と命じたのだ。
しかし、広大な天を駆ける太陽神の職務は、
若きアポロンにとってあまりにも荷が重い重責だった。
困り果てたアポロンとヘリオスは、
最高神ゼウスの目を欺くための策を講じる。
オリンポスの公式な会合の場ではアポロンが『太陽神』の名義を借りるが、実際の過酷な運行業務は、
今まで通りすべてヘリオスが裏で執り行う
……という秘密の共犯関係を結んだのだ。
実のところ、ゼウスはその欺瞞にすぐに気づいていた。
だが、大戦にも加担せず、
ただひたすらに地上の平和と運行を守り続けるヘリオスの誠実さに、
ゼウス自身も幾度となく助けられてきた。
だからこそ最高神はあえてそれを黙認し、アポロンには太陽神ではなく、
新たに『光明神』と名乗りなさいと命じるに留めたのだった。
一方、
戦争に敗れた時の神クロノスは、
命からがらイタリアの地へと降り立っていた。
そこで現地の人間たちに助けられたクロノスは、
その恩返しとして、人々に『農耕』の技術を伝えた。
飢えに苦しむ人間たちを救おうとする父のその姿を、
天界から見つめていたゼウスは、
そこに反乱の意思がないことを察して父を許した。
そして、時を操る父クロノスに、
時空の狭間に佇むこの『魂の造船図書館』の管理を
丸ごと一任したのだった――。
激しい雨の音。自分の荒い呼吸。
すべての記憶が脳を駆け抜けた時、穂花はドアノブを掴んだまま、
あまりのスケールの大きさに完全に硬直していた。
だが、彼女はまだ知らない。
穂花がこの地に迷い込む、わずか一時間ほど前のこと。
この図書館の重厚な扉の向こうでは、
まさにその神々の緊迫した邂逅が繰り広げられていたということを――。
── 一時間前。
「ヘリオス様、お待ちしておりました!」
黄金の馬車の気配を察知した献酒の女神スポンデが扉を開け、
最敬礼をもってその場に膝をついた。
だが、返ってきたのは、大地を揺るがすような深く落ち着いた、
別の男の声だった。
「……スポンデよ。ワシだ、ゼウスだ。ヘリオスは後ろにおる」
「――えっ?」
スポンデは慌てて顔を上げた。
「ゼウス様……! どうして、ヘリオス様とご一緒に……?」
ゼウスの背後から、圧倒的な威圧感と、
肌を焦がすような熱を放つ巨大な影が豪快に笑った。
太陽神ヘリオスその人である。
『はっはっは!
スポンデよ、またメセンブリアの奴め、
事前に何も知らせていなかったな?
今日は急に押しかけて迷惑をかけた、すまない。……だがな、
今回この図書館に呼ばれた『迷い人』は、
かつてゼウスとアレスがいがみ合いをしていた時に生まれた子だ。
ゆえに、今回はゼウスだけでなく、
アレスもここに呼ぶ必要があったのだよ』
「左様でございましたか……。
メセンブリアの抜かった仕事に関しては、
後ほど詳しく締め上げておきます」
スポンデは珍しく、美しく白い拳をぎゅっと握りしめて怒りを露わにした。
「スポンデ、今日ばかりは許してやりなさい。
……ヘリオス、アレスならもう到着している。
ゼウスも、二階のラウンジへ上がるが良い。
今日はもうじき、天王星が近づく。大きな嵐になるぞ」
スポンデの背後の暗がりから現れたのは、この図書館の管理人であり、
時の神であるクロノスだった。
「父上、お久しゅうございますな」
最高神ゼウスは、静かにクロノスを見据えた。
「……お爺様も、こちらに来られるのですか?」
今でこそ、
こうして何気ない親子としての会話を交わしている二人だが、
『ティタノマキア』の戦争直後から数千年間は、
互いに口も利かず、
顔を見るのすら忌まわしかったという冷え切った仲だ。
クロノスは首を横に振った。
「いや、父上は来られない。
ウラノス様までが今この地に降り立たれては、
時空の狭間にあるこの造船図書館とて、
その強大すぎる力に耐えきれず崩壊してしまう」
クロノスが言う「父」とは、原初の神々の王であり、
初代最高神の座に君臨した天空神ウラノスのことだ。
――ゼウス、アレス、ヘリオス。
これほどまでに強大な神々の力が一箇所に集ったのだ。
それゆえに、さっきまでジリジリと照りつけていた地上の気候は一変し、
急激に禍々しい暗雲が立ち込めて激しい雷雨となった。
神々は、それが自分たちの神威と、
刻一刻と接近しつつある天王星の凶暴な星位の影響で
あることを、肌で感じ取っていた。
献酒の女神スポンデは、激しい雷雨が降り出す直前、
滑り込みで来客である神々を二階のラウンジへと通した。
二階の広々としたラウンジに腰を落ち着けると、
時の神クロノスが太陽神ヘリオスに向かって、静かに問いかけた。
「今日は天界において、太陽と天王星が『トライン』を組んでいる。
ヘリオス……お主、この日をずっと待っていたのだろう?」
ヘリオスはクロノスの顔を見ると、
その厳格な唇の端をニヤリと吊り上げた。
『左様。今日、この星位の刻でなくてはならんのだ。
それに、今回ここへ導かれる“迷い人”の運命も、
自然とこの日を選び取ったようだしな。
……彼女がここに辿り着くまで、暫し待つとしよう』
その時、三階にある通信室から、
一人の女神が慌ただしく階段を駆け降りてきた。
祈りの女神エレテーである。金髪のボブヘアを揺らす彼女の首元には、
古代ギリシャ・ローマにおける念珠のような首飾り『ロザリオ』が
静かに光っている。
「ヘリオス様! アポロン様から、
事前にお調べを依頼されていた件のご返答がございましたわ」
エレテーがヘリオスの傍らに寄り添い、耳打ちでそっと報告を始める。
すると、同じく三階の通信室から、
大きく両腕を伸ばしてあくびをしながら、
だらしなく降りてくるもう一人の女神の姿があった。
彼女の顔を見た瞬間、スポンデはすぐさまそちらへと駆け寄り、
キッと眉を吊り上げて文句をぶつけた。
「メセンブリア!
あなたはいつも、どうしてこう重要な報告を事前にしてくれないの!?」
「へっへー。ついつい、報告し忘れちゃってぇ」
悪びれもせず呑気に言い訳をしているのは、真昼の女神メセンブリアだ。
彼女もエレテーと同じボブヘアだが、その髪は鮮やかなオレンジ色で、
澄み渡った夏の青空のような瞳をしているのが特徴だった。
ヘリオスはエレテーからの報告を聞き終えると、
二人のもとへ視線を向けた。
『スポンデよ、お主の怒る気持ちはよく分かる。
……メセンブリア、その悪癖はどうにかならんのか』
ヘリオスが冷静な口調で二人のいざこざを仲裁している間にも、
外の雷雨は一層激しさを増し、窓を叩きつけていく。
天王星の接近による嵐のエネルギーは、刻一刻と高まっていた。
──そして、一時間が経過した、まさにその時。
ヘリオスが、何者かが一階の重厚な扉に手をかけたことを敏感に察知した。
太陽神が入り口の方角へ向けて鋭い一睨みを利かせると、
さっきまで和気あいあいと会話していた神々は、
ピタリと一斉に口を閉ざした。
ラウンジを支配する、圧倒的な静寂。
──その一時間後の現在。
激しい雨の音と、自分の荒い呼吸の中、
穂花は意を決して目の前にある重い扉を、ついに押し開けた。
瞬間、世界の色が、綺麗に反転した。
叩きつけるような激しい雨音は嘘のように消え去り、代わりに、
肌を焦がすほどの猛烈な熱気が押し寄せてくる。
けれど不思議と不快感はなく、
むしろ凍えていた身体を芯から解きほぐすような、心地よい熱気だった。
「っ……あっつ。でも、なんか、あったかい……」
独り言のように漏らした声が、
天井の見えない広大な空間へと吸い込まれていく。
ふと気づけば、
あれほど自分を苦しめていた冷たい雫は一滴も残っていなかった。
お気に入りの服も、髪の一房までもが、
まるで最初から雨など降っていなかったかのように、
ふんわりと乾ききっている。
唖然としながらあたりを見渡すと、重厚な本棚に囲まれたロビーの奥に、
受付らしきカウンターが見えた。
そこには二人の女性が佇んでいる。
穂花は意を決して、彼女たちの方へと歩み寄った。
近くで見ると、二人ともどこか本当の姉妹を思わせるほど、
顔立ちや雰囲気がよく似ていた。
穂花が声をかけるより早く、ふっくらとした体つきで背の高い女性が、
優しく、けれど少し先急ぐように話しかけてきた。
「よくぞ! お越しくださいました。お待ちしておりましたよ。早速ですが、
こちらをお持ちのうえ、
二階にございますラウンジへとお向かいくださいな!」
いきなり重厚な本を差し出してきた彼女に、
隣の小柄な女性が慌てて割って入った。
「ちょっとポティノポロン、違うでしょ!?
いきなり本を渡して行かせたら、
ここが何処で私たちが何者かも分からなくて不安になるじゃない!」
穂花が口にするはずだった疑問をすべて代弁してくれた彼女に、
穂花は思わず苦笑いを返した。
怒られたポティノポロンは
「あ、ごめんなさいね。ついつい焦ってしまって……」
と恥ずかしそうに手を引っ込める。
代わりに、隣のしっかり者な女性が、穂花に向かって丁寧に頭を下げた。
「お昼から色々とバタバタしていたもので、
この子が焦ってしまってごめんなさいね。
改めてご説明します。
私はカルポー。結実と収穫の女神、そして『秋の女神』でもあるの。
で、こっちの慌てん坊なのが、同じく秋の女神のポティノポロン」
そこからは、カルポーの説明を補うように、
今度はポティノポロンが名誉挽回とばかりに流暢に話し出した。
「――ここはね、『魂の造船図書館』。
単に古い本を保存している場所ではないの。
ここに並んでいるのは『時の書』と呼ばれていて、
人や物、あらゆる生き物がどのような選択をして生きてきたか、
その生涯のすべてが記録されている本なのよ」
ポティノポロンの言葉に、穂花は「時の書……」と小さく呟いた。
カルポーが優しく微笑みながら、言葉を引き継ぐ。
「ええ。だから今日、あなたがここに迷い込んだのは偶然ではないわ。
ある偉大な御方に呼ばれて、必然としてここへ来たの。
その方は、二階のラウンジであなたをずっとお待ちよ。
さあ、いってらっしゃい!」
カルポーが二階へと続く美しい螺旋階段を優しく手で差し示す。
隣でポティノポロンも何度も深く頷きながら、
同じように階段を案内してくれた。
なんだかんだで、やっぱり息がぴったりな二人ね、
と心の中で微笑みながら、穂花は階段に足をかけた。
受付で手渡された本は、
ずっしりとした重厚感のある革製の表紙で覆われていた。
階段を上がりながら、
何気なくその表紙にぎゅっと力を込めて指先を握りしめた――その瞬間。
ドクン、と胸の奥が跳ねた。
(……なに、これ……?)
強く握れば握るほど、まるで誰かに直接心臓を掴まれているかのような、生々しい衝動が手のひらから伝わってくる。
それだけではない。心の奥底に眠らせていた、冷たくて重たい、
あのどうしようもない未来への不安が、
本を通じてじわじわと身体中に侵入してくるような、
恐ろしい錯覚に囚われていた
古びた案内板を頼りに二階のラウンジへとたどり着いた穂花は、
入り口で足を止め、思わず息を呑んだ
「おとぎ話みたい……」
見上げてみれば、
そこは一面がガラス仕様となった見上げるほど高い天井だった。
本来なら美しい夜空が眺められるのだろうが、
今は激しい緑色の稲光が走り、
叩きつけるような凄まじい雷雨がガラスの向こうで渦巻いている。
だが不思議なことに、その嵐の音は室内には一切響いてこない。
遮断された静寂の空間が、そこには広がっていた。
階下は、中央のカウンターキッチンを核として、
まるで太陽の光条を描くように本棚が放射状に設置された、
奇妙で幻想的な空間だった。
右手にあるステージのような舞台では、
対照的な二人の女性が楽しげに談笑している。
一人は白いワンピースに、鮮烈な黄色いプルメリアの髪飾り。
もう一人は夜を切り取ったような黒いドレスを纏い、
様々な色彩のサンダーソニアの花をあしらって、
首元にクラシカルな十字架を光らせていた。
(……私、今までファッションのことばかりに囚われてたな。
お花の名前や意味にもっと詳しかったら、
あのドレスの魅力をさらに深く理解して、
もっと素敵なデザインを想像できたのかな)
脳の片隅でそんな場違いな職業反省をしていると、
中央のカウンターの奥から、
部屋全体の空気を支配するほどの圧倒的な存在感が
放たれていることに気づく。
カウンター席に腰を下ろしている男性の周囲には、
ゆらゆらと透明な陽炎が立ち上っていた。
しかし、不快な蒸し暑さは微塵もない。
むしろ、天日干ししたばかりのふかふかの布団に包まれているかのような、陽だまりの温かさだった。彼が纏う白い衣には、
緻密で美しい金色の刺繍模様が施されており、
穂花は不意にデザイナーとしての血がじりじりと騒ぐのを覚えた。
――だが、その心地よい温もりを強引に切り裂くように、
少し離れたテーブル席から、
バチバチと鼓膜を刺す激しい放電の音が響いた。
甲冑が擦れ合うような重い金属音。そこにいたのは、
時折衣服の隙間から緑色の稲光を放つ、冷徹な眼差しの厳格な老紳士。
そして、その対面に座る、
顔中に幾つもの深い傷を負った穂花と同年代ほどの青年だった。
青年の首元に巻かれた紅いマフラーは、ボロボロに引き裂かれている。
それがストリートファッションの流行りである『ダメージ加工』などで
はなく、正真正銘、本物の死線を潜り抜けて肉体を削られてきた
凄惨な傷跡なのだと直感した瞬間
――プゥンと、鼻腔を突く生々しい血の匂いが漂ってきた。
ゾッとするような戦慄が、穂花の背筋を駆け上がる。
本能が「危ない」と警鐘を鳴らしていた。
その時、カウンターの陽だまりを纏った男性が静かに振り返り、
穂花に向けてニッコリと慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
そして、優しく手招きをする。
穂花は緊張で強張った指先で、恐る恐る自分を指差した。
男性は、すべてを受け入れるように、深く、優しく頷いた。
二人の男が放つ一触即発のピリピリとした空気の横を、
穂花はできるだけ身を縮めながら通り抜けた。
カウンターの席を促され、警戒を解かないまま恐る恐る腰を下ろすと、
目の前の男性はすべてを見透かすような、包み込むような声で言った。
「よくぞ、ここまで来てくれた。
私は太陽神ヘリオス。其方をここへ呼び出した者だ」
(か、神様……!? 本当に神話の神様がいるんだ……)
穂花が現実逃避気味に目を丸くしていると、
カウンターの中からスッと白く美しい手が差し伸べられた。
「私は献酒の女神スポンデと申します。
お話の途中恐れ入りますが、
受付でお預かりした“時の書”を一度拝借いたしますね」
穂花がまだ冷たい不安を宿す重厚な革の本を手渡すと、
スポンデはそれを一瞥し、満足そうに深く頷いた。
そこからの彼女の動きは、まさに一流の職人技だった。
目にも止まらぬ速さで果実をスライスし、
数本のボトルから透き通った液体をシェイカーへ注ぐ。
小気味よい音を立ててリズミカルに振られたカクテルが、
気品あるグラスに注がれ、仕上げに美しくカットされた洋梨が
トッピングされた。
「“クラシックペアマティーニ”でございます。洋梨の瑞々しい甘みを、
ドライジンのキリッとした風味で引き締めました。どうぞ」
ヘリオスは慣れた手つきでグラスを持ち上げ、
「相変わらず見事な仕事だ」と目を細めて微笑む。
促されるまま、穂花も渇いた喉を潤すようにグラスを傾けた。
途端、洋梨の芳醇な香りとジンの清涼感が鼻腔を抜け、
張り詰めていた身体の強張りが、底の方から心地よくほどけていく。
「足早ですまぬが、なぜ其方をこの地に呼んだのかを話さねばな。
……穂花よ。其方は今、家族のことで酷く悩んでいる。そうではないか?」
「えっ……! どうしてそれを……」
初対面の、しかも神様に家庭の事情をズバリと言い当てられ、
穂花は息を呑んだ。
ヘリオスはフッと、慈愛に満ちた含み笑いを漏らす。
『その“頃合い”だからだ』
「おっと、それより先は私から説明させてもらおう」
背後から響いた、深く落ち着いた声に、穂花は驚いて振り返った。
いつの間にか、仕立てのいい上質なスーツを端正に着こなした男性が
歩み寄ってきていた。
彼はヘリオスと穂花の間に流れるように滑り込むと、カウンターに腰掛け、胸ポケットからアンティークな黄金の懐中時計を取り出した。
チカッ、と押し込まれたリューズの音とともに、
時計の文字盤から光が放たれる。
それはまるで最新の3Dプロジェクションマッピングのように空中へと
広がり、光り輝く巨大な『三重の円』となって浮かび上がった。
(神様の世界、本当に何でもありだわ……)
唖然とする穂花に、男性は朗らかな笑みを向けた。
不思議なことに、テーブル席の老人や青年が放つ圧倒的な威圧感とは違い、彼からはどこか親しみやすい、温かな空気が感じられる。
「まずは自己紹介を。私はこの図書館の館長であり、時の神・クロノスだ」
「あ、よろしくお願いします……。本郷穂花です」
緊張しながらも、ビジネスマナーが染み付いた挨拶を返す穂花に、
クロノスは満足そうに頷いた。そして、
宙でゆっくりと回転する眩い光の円を指差した。
「君はここにいる神々の心を動かしたんだ。さあ、話を続けよう。
この美しい幾何学模様は『ホロスコープ』という。
今回は特別に『三重円』という形で展開しているよ。一番内側の円が君が生まれた瞬間の星空。
真ん中が君のこれまでの心の成長。
そして一番外側が、たった今、この瞬間の宇宙の配置だ」
「占い……ですか?」
穂花が小首を傾げると、
クロノスは「そう、命の地図さ」と言って、光る円の一部を少し拡大した。
「まず、君が生まれたとき、ある二つの星が『スクエア(90度)』という、お互いに一歩も引かない緊張状態の角度をとっていた。
一つはエネルギーを外へ表現する『火星』。
もう一つは物事を拡大させる『木星』だ」
クロノスは楽しげに、親指で後ろのテーブル席を示した。
「噛み砕いて言うならね、あそこで今にも掴み合いの喧嘩を始めそうな二人
——火星の軍神アレスと、木星の最高神ゼウスの親子喧嘩しているときに
穂香くんは生まれた」
穂花はハッと後ろを振り返った。あの緑色の稲光を放つ老紳士がゼウスで、ボロボロのマフラーを巻いた凄惨な傷の青年がアレス。そう言われると、
あの恐ろしいほどの威圧感も、血の気の多い佇まいも、
すべてに合点がいった。
「生まれ持った星のエネルギーがそんな風にぶつかり合っていると、
人生に小さな歪みが生まれ、
それがいつの間にか大きな摩擦に育ちやすくなる。
……そしてね、穂花くん」
クロノスは今度は、隣のヘリオスと自分自身を交互に指差した。
「今、この瞬間、空の上では『太陽』と『土星』が、
真向かいから睨み合う『オポジション(180度)』という配置を
とっている。これは、ここにいる太陽神ヘリオスと、
土星の神である私が対立しやすい立ち位置にいるということさ。
そして占星術において、太陽は『父親』の象徴でもあるんだ」
クロノスの言葉が、穂花の胸の奥に深く突き刺さる。
「つまり君はここ数日、
父親と激しく対立しやすい状況に置かれているはずだ。
今まさに君の現実世界で起きているその歪みを、
どうにか突破してほしくてね。
それでヘリオスが君をここに招いたというわけさ」
今度はヘリオスが、それまでの柔和な笑みを消し、神としての厳格な声音で静かに話を続けた。
『実のところ、それだけならば私もここへ其方を呼びはしない。
この程度の諍いで一々手を差し伸べていては、
ここは何万、何億もの人間で溢れかえってしまうからな。
……だが、其方を呼んだのは、君が“自分自身の大事なもの”を、
その手で壊そうとしたからだ』
ヘリオスの瞳の奥で、黄金の炎がゆらりと揺らめいた。
『このままでは、
今直面している問題さえも取り返しのつかないことになる。
君がどれほど大きな運命の渦中にいるのかを、
どうしても伝えねばならなかったのだよ』
重苦しい沈黙が流れる。しかし次の瞬間、
クロノスが苦笑しながらヘリオスを見た。
「おっと、それを言うなら、この件で先日、
私とヘリオスが激しく対立したばかりなんだけどね」
二人は顔を見合わせ、悪戯が成功した少年のようにフッと笑い合った。
二人の神の言葉を聞きながら、穂花は、自分でも気づいていなかった
「私の大事なもの」の正体について、考えあぐねていた。当たっている。
当たっているけれど、何かが足りない。
クロノスは、今こそがその頃合いだと言わんばかりに、優しく、
けれど確実に核心を突くように、ゆっくりと話し出した。
「穂花くん。……君は今の職場を選んだ理由を、
ちゃんと覚えているかな?」
急に過去の記憶を突かれ、穂花は驚きながらも、
当時の熱い気持ちを掘り起こすように、ぽつりぽつりと話し始めた。
「就活をしていたときは、うちの会社、
自社のアパレルデザインから販売まで、
全てを社内で行っていたんです。
……でも、私が入社して二年が経った頃から、
デザインはフリーランスの方に一任する体制に変わってしまって。
私はどうしても、自社のアパレルのデザインがやりたくて……。
販売の知識も一緒に学べたらいいなと思って、
見事内定をもらえたから、即決で入社を決めたのに……」
二人の神は、穂花の少し寂しげな告白を、途中で遮ることなく、
真剣な眼差しで聞いてくれていた。
「なるほど。……やはりね」
クロノスは深く頷き、瞳を細めた。
「そうしてデザインをする場所を奪われ、
さらに今回の父親との揉め事が重なった。
……穂花くん。君は今、本当の夢から目を背けて、
ただ『収入面』のためだけに、転職活動をしようとしていないか?」
「っ……!」
穂花は息を呑んだ。胸の奥の、一番見たくない場所に隠していた、
格好悪い、自暴自棄な妥協の根源。
それを、出会ってまだ一時間も経たない異世界の神様に、
あっさりと、看破されてしまったのだ
言い返せない穂花を見つめ、クロノスはさらに深く、
彼女の魂を揺さぶるように言葉を重ねる。
「確かに、生きていく上で収入面の話は凄く大事だ。
綺麗事だけでは腹は満たされない。
…… だがね、穂花くん。君はこれからの一生を、
ずっと『誰かのため』という免罪符を掲げて、
自分を欺き続けるために費やすつもりなのかい?」
「自分を、欺く……」
「そう。家族のため、お金のため、仕方がなかった。
そうやって自分の本当の願いに嘘をつき、
諦める言い訳を他人のせいにする。
それは、優しさに見せた自分への裏切りだ」
容赦なく突き刺さる言葉に、
穂花は拳をギュッと握りしめた。
悔しさと、図星を突かれた気まずさで、視界が熱くなる。
「君の本来の姿は、
やりたいことに向かって真っ直ぐに突き進む特攻隊長のはずだ。
なんと言っても、君の太陽は『牡羊座』にあるのだから。
どんな悩みや不安があっても、猪突猛進で道を切り拓く力がある。
その結果、無意識に周囲の組織をまとめ上げ、
力強く引っ張っていることも多いはずだよ」
星読みの知識が全くない穂花は、頭の中がハテナマークで
埋め尽くされていた。
オポジションだの牡羊座だの、言葉の表面を追うので精一杯だ。
そんな彼女の混乱を察して、クロノスはふっと目元を和らげた。
「テレビや雑誌の星座占いは知っているだろう?
あれは、君という人間を形作る星の、
ほんの『一要素』を切り取ったものに過ぎないんだ。
何に悩んでいるかによって、読み解くべき星(天体)は変わる。
心の内なら月を、宿命なら冥王星をね。
地上の多くの人は、自分の『太陽』しか知らないが……」
クロノスは右手の人差し指を立てながら、
浮かび上がるホロスコープの別の場所を指し示した。
「あともう一つ。
……今日は『太陽』と『天王星』が、
完璧な『トライン(120度)』を組んでいるんだ。
穂花くん、君はここへ来る直前、
あの石畳の道で酷い雷雨に見舞われただろう?」
穂花は、この建物へたどり着くまでに自分の髪や服を容赦なく濡らした、
あの凄まじい嵐を思い出し、
今も天井のガラス越しに渦巻く稲光を見上げてコクンと頷いた。
「これは、晴れ(太陽)と雷雨(天王星)が、
お互いの領域を邪魔し合わずに、天候を譲り合った結果なんだ。
……この特殊な調和が、今まさに君の頭上で起きている。
これは、君の運命が、常識とは違う『特殊な形』で、
成功を収める兆しがある、ということだ」
クルクルと回転するホロスコープの、太陽と天王星を繋ぐ光の線。
それは、これから穂花くんに訪れる、
想像もしなかった新しい未来への道を、静かに指し示しているようだった。
クロノスの鋭く、けれど深い慈愛を湛えた視線が、
穂花の魂の奥底をじっと見据える。
「ホロスコープが告げる結論は一つだ。
君は本来、目上の者との距離の取り方が非常に上手い。
だからこそ穂花くん、今、君に向かって差し伸べられている手を、
しっかりと、臆せず握り返すことだ。遠慮して引き下がれば、
それこそ失敗のどん底へ真っ逆さまに落ちてしまうよ」
――差し伸べられている、手。
その言葉を聞いた瞬間、穂花の脳裏に、
真っ先に一人の女性の顔がよぎった。
大阪のアパレルショップ『ルミエール』の北原さんだ。
(……そうか。北原さんが私に差し伸べてくれているあの手が、
今この最悪な現状を打破できる、唯一の手段なのかもしれない)
家族の重荷に押しつぶされ、
独りで自暴自棄になっていた時には見えなくなっていた。
けれど、あの人は確かに自分を評価し、
可能性を信じて手を差し伸べてくれていたのだ。
そう気づいた途端、胸の奥から熱い衝動が突き上げてくる。
会いたい。今すぐにでも、北原さんに会って、
あの言葉の続きを聞きたい――。
自分の運命の舵をもう一度自分で握り直した穂花の瞳に、
先ほどまでの絶望の影は消え、
牡羊座の太陽らしい力強い光が宿り始めていた。




