↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
3/6

第二話 Voyage 03: 崩れゆく歯車

翌日の昼前。

プロペラ機の軽い衝撃と共に、穂花は松山空港に降り立った。

ここからレンタカーの手続きをして、ハンドルを握ること約四十分。

見慣れた地元の景色を通り抜け、ようやく実家へと辿り着いた。

スマホの画面を見ると、時刻はちょうど十四時を回ったところだった。

車を降りて見上げる実家は、

昔はあんなに新しくて綺麗に見えたはずなのに、

今はどこか色褪せ、疲れているように見えた。

久しぶりの帰省だというのに、

胸を占めているのは温かい懐かしさではなく、

心臓を雑に掴まれるような妙な緊張感だった。

穂花はひとつ深呼吸をして、恐る恐るインターホンに顔を近づけた。

「……ただいま」


少しの静寂の後、スピーカーから女性の声が返ってきた。

『おかえり。今開けるから、ちょっと待っててね』


懐かしい母親の声。

けれど、やっぱり電話の向こうの父親と同じように、

いつもの元気が感じられない。

ガチャリ、と重い鍵が開く音がして、玄関のドアが開いた。

「おかえり、ほのちゃん」


母親は出迎えると同時に、愛おしそうに、

そしてすがるように穂花の身体を強く抱きしめてくれた。

「……ごめんね。急に呼び出して。

 色々と、迷惑かけることになるかもしれない」


母の肩越しに見える実家の暗さに、

穂花はぐっと奥歯を噛み締めて気を引き直した。

「ただいま、お母さん。

 ……とりあえず、詳しい話を聞きに来たから。大丈夫だよ」


「うん、入って」


母に促されて中に進むと、背後でパチンと玄関の鍵が閉まる、

重い音が響いた。

二人で廊下を歩き、奥のリビングへと向かう。

小学生の頃、真夏のプールの帰りに、

冷たい麦茶を飲んでから妹の結菜と二人でゴロゴロと昼寝をした、

懐かしい和室。

だが、今のその場所には、

かつての眩しい夏の思い出なんて微塵も残っていなかった。

薄暗い和室の奥にある仏壇の前で、父親が小さく背中を丸め、

静かに手を合わせていた。

「お父さん……ただいま」


声をかけると、父親はゆっくりとこちらを振り向いた。

その顔は、一昨日電話で想像していた以上に

生気を失っているように見えた。

「おかえり……。せっかく帰ってきたのに、こんな出迎え方で、すまん」


「ううん、いいのよ。……とりあえず、手を洗ってくるね」


父親の痛々しい姿を直視し続けるのが苦しくて、

穂花は逃げるように一度リビングを出て、洗面台へと向かった。

冷たい水で手を洗い、鏡に映る自分の顔を見る。

大阪の店舗で「次店長」として笑顔を作っている本郷穂花の顔は、

そこにはなかった。

頬を叩いてリビングに戻ると、

母がキッチンでお茶を淹れてくれているところだった。

父親はすでにリビングのローテーブルの前に腰掛け、

神妙な面持ちで硬く拳を握りしめていた。

「結菜は、部屋にいるの?」


穂花が尋ねると、母は切なげに眉を下げた。

「ええ、自室にいるわ。すぐに呼んでくるわね」


「ううん、私が上に行く」


穂花は、グラスの表面を滑り落ちる冷たい麦茶の水滴に視線を落とした。

「お金の話は、お父さんとお母さんと、三人だけで先にしたいの。

 ……話を聞いて、すぐに『はい、払えます』って

 言える額じゃないことくらい分かってるから」


厳しい現実に、両親は何も言えず、ただ痛ましそうに顔を見合わせた。

「ちょっと、結菜に話してくるね」


穂花はリビングを出て、軋む階段を上がった。二階の一番手前にある、

妹の部屋のドアを静かにノックする。

「結菜? 私、穂花。入ってもいい?」


ほんの少しの間を置いて、ガチャリと扉が開いた。

隙間から顔を覗かせた結菜は、泣き腫らしたような目で姉を見つめた。

「おかえり、お姉ちゃん……ごめんね、本当に」


「いいのよ、謝らなくて。ーー入るね」


結菜に促されて部屋に入る。

勉強机の上に広げられたままの参考書が、

彼女のこれまでの努力を無言で物語っていた。

「結菜、早速で悪いんだけど……結菜の本心を、私に聞かせてほしいの」


いつもなら、久しぶりの再会を喜ぶ和やかな雑談を挟んでから、

本題に入るはずだった。

けれど、一刻を争う状況と、この後に控える両親との話し合いの重圧が、

穂花に回り道を許さなかった。自然と、

固く張り詰めた声が口から飛び出していた。

結菜は一瞬ビクッと肩を揺らしたが、

すぐに目を潤ませながらも、真っ直ぐな真剣な眼差しを穂花に向けた。

「私……どうしても、城愛大学(じょうえだいがく)で、

 “心理学”の勉強がしたいの。

 ……これが、私の本当の気持ち。でも、厳しいよね、

 今のうちの状況じゃ。分かってるんだけど……」


結菜は溢れそうになる涙を必死に堪えるように、ぎゅっと唇を噛み締めた。

妹がこの大学を目指して、

高校での成績を優秀なまま維持し続けていたことも、

自分で少しでも足しにしようとアルバイトを必死に頑張っていたことも、

穂花は遠く大阪の地からずっと見守ってきた。

だからこそ、何としてでも力になりたい。

妹の口から直接その「本音」を聴き、

どんなに厳しい現実が待っていようとも背負う覚悟を決めるために、

穂花はこの数日間、狂いそうなほど考え抜いて実家へ戻ってきたのだ。

穂花は努めて明るく、けれど決してブレない力強さで宣言した。

「わかった。

 どこまで力になれるかはまだ分からない。

 でも、お姉ちゃん、やれるだけのことは全部やってみるから」


「お姉ちゃん……」


「今から下でお父さんたちと話してくる。

 私が呼ぶまで、結菜はここで待ってて。いい?」


結菜は、すがるような、

けれど自分という存在のせいで大好きな姉に重荷を背負わせてしまう

申し訳なさに押しつぶされそうな瞳で、穂花を見つめ返していた。

部屋を出て、階段の踊り場に立つ。

ぐっと拳を握りしめると、手のひらにじっとりとした嫌な汗を感じた。

職場で重要な会議やトラブルの対応に臨む前の、

あの肌がヒリつくような緊張感。

(さぁ……ここからが正念場だ)


穂花は一段ずつ、

自分を鼓舞するように階段を踏みしめて一階へと降りていった。

リビングに戻ると、

両親はすでにローテーブルを挟んで並んで席に着いていた。

穂花も重い足取りで二人の正面に腰を下ろす。

コップの結露がテーブルに小さな水溜まりを作っていく中、

しばらく張り詰めた沈黙が続いた。

やがて、父親が重い口を開き、消え入りそうな声で話し出した。

「順を追って話すと……四年前の年末に、

 知り合いから、松山から少し離れた場所にある土地を

 買ってみないかって誘われたんだ」


「土地……?」


「ああ。父さんはまず、その男とその土地を見に行って、

 何度か話し合いをした。そこにアパートが建つ予定だったんだ……。

 いわゆる『サブリース』というやつで、

 建ててしまえば毎月決まった家賃収入が入ってくるっていう説明を、

 すっかり信じ込んでしまって。

 登記の手続きも、その男が一括でやるから書類を預かると言われて、

 三百万の土地代と、二百万の工事の前払い金を……払ってしまったんだ」


父親はそこまで言うと、がっくりと首を垂れて声を絞り出した。

「その後……その男と、連絡が取れなくなった。

 会社も、最初から存在していなかったんだ。

 騙されたと気づいた時には、もう遅かった。その五百万は……」


「待って」


穂花は冷たい声を絞り出した。

 「その五百万って……まさか、

 結菜の学費のために貯めてたお金じゃないよね?」


父親は何も答えず、ただ床を見つめて肩を震わせた。

それが何よりの肯定だった。

穂花は机を叩きたい衝動を、必死で抑えつけた。

「はぁ!? 何やってるのよ!

 結菜がどれだけ努力して、あの大学を目指してたか知ってるでしょ!?

 そのための大切な貯金を、

 どこの誰だかも分からない詐欺師の土地に替えたっていうの!?」


リビングには、西側の窓から容赦ない西日が差し込み、

室内の空気をじりじりとしつこく熱していた。

古い扇風機が生温い風をただかき回しているが、

穂花の脳裏を焼くような怒りと相まって、呼吸が苦しくなるほどの熱気だ。

父親はもはや、返す言葉もなく、

同じ言い訳をただ力なく繰り返すことしかできなかった。

「とりあえず、お父さんの借金のことは私は知らない。

 それは二人でなんとかして」

穂花は冷徹に言い放った。

感情的に怒るフェーズは終わり、

脳は完全に現実的な計算モードへと切り替わっている。

「それで、結菜の入学費用と、

 最初に必要になる諸々の費用は……予定でいくらになるの?」


父親が完全に黙りこくってしまったため、

母親が代わりに消え入りそうな声で告げた。

「入学金と、前期分の授業料とかもろもろ込みで

 ……百万円を、貸してほしいの」


百万――。


穂花は心の中でその数字を反唱し、腕を組んで思案した。

32歳、独身。アパレルの次店長としての給料から

コツコツ貯めてきた貯蓄はある。

けれど、今すぐに動かせる現金として、

ぽんと差し出せるほど甘い額ではない。


「……今すぐに百万円は、正直ないよ。

 この話は、一度大阪に持ち帰らせて」


「そうよね。急にこんなこと……ごめんね、ほのちゃん」


母親が申し訳なさそうに肩を落とす。

穂花は小さく息を吐き、父親を真っ直ぐに見据えた。

「これから先、高額な買い物や契約をする場合は、

 絶対に一度私を通して。

 何度も『騙された』じゃ、本当に家族全員路頭に迷うから。わかった?」


父親は静かに頷き、小さく「申し訳ない……」と呟いた。


穂花はこれ以上リビングの重苦しい空気に耐えかねて席を立ち、二階の結菜の部屋へと向かった。

ドアの前で立ち止まり、呼吸を整えてから声をかける。

「結菜、入るよ」


待っていたかのように、すぐに扉が開いた。

「お姉ちゃん……私、どうしたらいいの?」


泣き出しそうな妹の前で、

穂花はさっきまでの冷たい仮面を外し、優しい笑顔を作った。

「とりあえず、お金のことはお姉ちゃんがなんとかしてみる。

 だからあんたは予定通り、城愛大学の入試にだけ専念しなさい」


それでもまだ不安げに視線を彷徨わせる妹の肩を、

穂花は両手で強く掴んだ。

「しっかりしなさい! あんたが合格しなきゃ、

 お金をどうするかって話にすらならないの。

 城愛大学に行きたいんでしょ? なら、あんたが今すべきことは何?」


姉の強い眼差しに背中を押され、結菜の瞳に光が戻った。

意を決したように、涙を拭って頷く。

「……受験勉強する! やれるだけのことを、全部やってみる!」


「それでいいの」


穂花はホッと胸をなでおろした。

「私もやれるだけのことはやるから。

 家のゴタゴタは、しばらく忘れなさい」


「うん……! ありがとう、お姉ちゃん」


二人はようやく、お互いにニッコリと笑みを交わした。

形は違えど、二人の未来をかけた戦いが、今ここから始まったのだ。

穂花は再び一階のリビングに戻り、待っていた両親に告げた。

「結菜の受験の合否が決まったら、また連絡して。

 それまでにお金をどうするか、色々と当たってみるから。

 ……それと、直近の受験費用はいくらなの?」


母親が手元のメモを見ながら、申し訳なさそうに言った。

「それが……願書代とか諸々込みで、五万円になるの」


「五万……」


穂花はひとまず、心の底から安堵した。

もし受験費用の時点で十万円を超えていたらどうしようかと

身構えていたのだ。五万なら、いまの貯金を少し崩せばすぐに用意できる。残りの貯蓄は、

これからの本格的な学費のために一円でも多く残しておきたかった。

「ひとまず、その五万円は今すぐお母さんの通帳に振り込むわ。

 ――じゃあ、私はもう大阪に戻るね」

滞在時間はわずか数時間。けれど、引き受けた重荷のせいで、

帰りのカバンは来た時よりも何倍も重く感じられた。

一度そこで話を区切り、穂花は両親に向けて、

今までにないほど鋭い睨みを効かせた。

「私が現状でできるのは、結菜の受験費用だけ。

 お父さんの借金に関しては、私は一切手を回せないから。

 そこは二人でどうにかしてよ!」

母親も覚悟を決めたような顔つきで、深く頭を下げた。

「本当にありがとう……。そして、ごめんなさい。

 ほのちゃんに、こんな迷惑をかけてしまって」


父親は、奥の和室の畳に膝をついたまま頭を下げていた。

何も言葉は聞こえなかったが、

激しく上下する背中の動きで、声を殺して泣いているのだと悟った。

穂花には、もうこれ以上この家に留まって、

ゆっくりする気力なんて残っていなかった。

すぐに実家を後にすると、

松山空港近くのビジネスホテルに素泊まりすることに決めた。

四十分かけてレンタカーショップへ戻り、

返却手続きを済ませてから、近くのホテルへ飛び込む。

幸いにも空室があり、すぐにチェックインを済ませることができた。

あてがわれた部屋は、シングルベッドが一つ辛うじて収まり、

その隙間に小さなデスクと冷蔵庫があるだけの、必要最低限の空間だった。だが、今の穂花にとっては、

今後の身の振り方を一人で静かに考え抜くために、

むしろこの狭さがちょうどよかった。

穂花はカバンを床に放り出し、大きな溜息と共にベッドへ倒れ込んだ。

いつもの癖だ。どこからともなく湧き出る妙な正義感に駆られて、

家族の前では大口を叩いてしまったものの、

現状、百万円を工面する当てなんてどこにもなかった。

仰向けの姿勢のまま、シミの浮いた天井をじっと見つめる。

静寂が訪れた途端、せき止めていた不安がドッと押し寄せてきて、

心臓の鼓動が速くなる。それでも、深く息を吐き出しながら、

少しずつ冷静さを取り戻していった。

気がつけば、吸い寄せられるようにスマホ画面を叩き、

北原さんにメッセージを送っていた。


【お疲れ様です。突然のメッセージ、

申し訳ありません。家族との話し合いが、ひとまず終わりました】


送信ボタンを押した直後、穂花は我に返って眉をひそめた。

(私……一体何やってるんだろう。いくらお世話になってるからって、

 他人の北原さんにこんな重い家庭の悩みを打ち明けるなんて……)


自己嫌悪に陥りかけたその瞬間、

スマホが激しく振動した。画面には『北原さん』の文字。


穂花は慌てて通話をスワイプし、耳に当てた。

「もしもし! 北原さん」


『もしもし〜、ほのちゃん。大丈夫?』


スピーカーから聞こえてきたのは、いつもと全く変わらない、

上品で軽やかな北原さんの声だった。

その響きだけで、穂花の張り詰めていた心が、

底の方からじんわりと救われていく。

「すみません、本当に……勢いで連絡してしまいました」


恐縮する穂花に、北原さんからは意表を突く言葉が返ってきた。

『何言ってるのよ!

 私が「終わったら連絡しなさい」って言ったんでしょうが。

 ――で、状況はどうだった?』


北原さんのサバサバとした促しに、

穂花は実家で起きたこと、父親の詐欺被害、

そして結菜の夢と百万円の学費について、包み隠さず全てを吐き出した。

北原さんは、その長く重い話を、

途中で遮ることもなく静かに最後まで聞いてくれた。

そして、一通り聞き終えると、電話の向こうでクスッと小さく笑ったのだ。

『ふふっ、わかったわ。

 ほのちゃん、また出たわね。

 その無駄に強い正義感からの、安請け合い』


「え……」


『いい、ほのちゃん。

 明日大阪に帰ってきたら、そのまま家じゃなくて私の店に来なさい。

 話はそれからよ。勝負はこれからなんだから、

 そんなところで気落ちしてんじゃないわよ、うちの常連さん!』


間髪入れずに、愛のある檄(げき)が飛んでくる。

穂花は思いもよらない力強い言葉に、驚きと、

そして言葉にできないほどの感謝で胸がいっぱいになった。

視界が少しだけ潤むのを自覚しながら、声を震わせて答える。

「……はい。ありがとうございます」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。