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第二話 Voyage 02: 思いもよらぬ嵐

―― 2025年 9月末。

「お疲れ様〜、沙耶ちゃん。今日も駅まで一緒に帰る?」


退勤のタイムカードを押し終えた本郷穂花(ほんごう ほのか)は、

部下の若林沙耶に声をかけた。

「お疲れ様です、本郷さん。帰りましょ!」


沙耶はいつも通り、パッと弾けるような明るい笑顔で応じた。

職場から駅までは歩いて五分程度だ。いつもなら

「今晩のおかず、何にする?」なんて他愛のない会話をしているうちに

終わってしまう短い道のり。けれど、

穂花にとってはこの何気ない時間がささやかな癒やしだった。

沙耶は仕事に熱心な、本当に可愛い後輩だ。

以前は少し人の顔色を伺いすぎて、

自分の気持ちを飲み込みがちな危うさがあったけれど、

最近の彼女はどこか吹っ切れたような、

凛とした強さをまとっているように見える。

だからこそ、

我が子か年の離れた妹のように、余計に可愛く思えてしまうのだ。

「沙耶ちゃん、今晩のご飯は何にするの?」


「そうですねぇ。昨日作ったキノコの炊き込みご飯が残っているので、

お味噌汁をパパッと作って、あとは鮭でも焼こうかなって」


「いいね! 美味しそう。

最近、日が沈むのもすっかり早くなったもんね。外はまだまだ暑いけど」


「そうなんですよね。まだエアコンは手放せないです。

本郷さんは今晩どうするんですか?」


「私はね、残ってる素麺を茹でて、

オクラととろろをトッピングしようかなって。

あとは帰りにコンビニでおにぎりでも買って」


「あ、それ最高ですね! もう少ししたら、

秋の味覚も安くなってスーパーに並びますし、楽しみですね」


そんな他愛のないお喋りをしているうちに、

二人はいつの間にか駅のコンコースへと辿り着いていた。

沙耶とは乗る路線が違うため、いつもこのコンコースで別れる。

「じゃあね、お疲れ様」


「お疲れ様でした!」


元気に手を振る沙耶を見送り、穂花は改札に向かって歩き出した。

その時、耳元のイヤホン越しに、無機質なLINEの着信音がぽつりと響いた。

画面を見ると、そこには「お父さん」の文字。

普段はほとんど連絡をよこさない父からのポップアップに、

穂花は足を止めた。


『相談したいことがあるんだ』

(なんだろう……なんか、嫌な予感がする)


行き交う通勤客の邪魔にならないよう、通路の端へ寄る。

ざわざわとした駅の雑踏の中、

胸のざわつきを抑えながら通話ボタンを押した。


「もしもし、お父さん? どうしたの?」


『……すまん、穂花。急に連絡して』


スピーカーから聞こえてきたのは、

終始やつれきった、ひどく自信なさげな父親の声だった。

『単刀直入に言うと……お金を、貸してほしいんだ』


「お金……?」


『結菜の、大学の入学金なんだ。恥ずかしい話、俺、借金があってな……。奨学金は入ってくる予定なんだが、その前に、

入学金の振り込み締め切りが来ちまうんだ。本当に、ごめん』


頭を殴られたような衝撃に、穂花は一瞬、言葉を失った。


「えっ……ちょっと待って。結菜自身はなんて言ってるの?」


『結菜は……「大学は諦めるからいい」って言ってる。だけど、あいつ、

ずっと行きたがってた大学なんだ。父親として、

それだけはさせたくないんだよ……』


妹の顔が浮かぶ。自分のやりたいことを引っ込めて、

家族の顔色を窺って諦めようとする妹の姿が。

「……分かった。とりあえず、今週の金曜日が仕事休みだから、

実家に帰る。その時にもう少し詳しくワケを話して。言っておくけど、

私だってそんな大金、余裕があるわけじゃないからね!」


『ああ、分かった。すまん……』


絞り出すような声の後、通話が切れた。

スマホを握りしめたまま、穂花は立ち尽くした。

予想通り、いや、予想以上に最悪な形で当たってしまった嫌な予感。

家に帰って素麺を食べようと考えていた、さっきまでの平穏な日常が、

一瞬でガラスのように粉々に砕け散っていくのを、

穂花はただ呆然と感じていた。

穂花は滑り込んできた電車に乗り込み、吊り革を掴んだ。

揺れる車内でスマホを取り出し、妹の結菜にLINEを送る。

今年で三十二歳になる穂花にとって、

歳の離れた高校三年生の結菜は、妹であり、

どこか我が子のように目に入れても痛くない存在だった。

今はまさに、受験真っ只中の張り詰めた時期のはずだ。

『今日、帰ったら少し電話してもいい?』


画面を見つめる間もなく、すぐに既読がついた。

『うん、大丈夫だよ! 今仕事?』


返ってきたのはいつも通りの明るいメッセージだった。少しだけホッとしたものの、父親のやつれた声を思い出すと、

どうしても無理をしているように思えてならない。

『今、帰りの電車。最寄り駅に着いたら電話するね』


穂花もできる限り、いつも通りのトーンを意識して文字を打った。

『わかった!』


かわいいスタンプと共に届いた文字を見ながら、

穂花はどう切り出すべきか迷っていた。

雑談から入って、それとなく大学の話を振るべきか。

それとも、単刀直入に本題に入るべきか。

答えが出ないまま、電車は最寄り駅に滑り込んだ。

改札を出て、家へと続く夜道を歩きながら通話ボタンを押す。

二回ほどの呼び出し音の後、すぐに繋がった。

「もしもし、お姉ちゃん……私――」


穂花が言葉を発するより先に、

受話器の向こうの結菜の声が震えているのが分かった。

今にも泣き出しそうな、必死に感情を堪えている声。

穂花は咄嗟に先手を打った。


「さっき、お父さんから聞いた。……金曜日に実家に帰るから。

結菜もそのとき、家にいて」


「……うん」


「詳しい内容は、私もお父さんたちと直接話してみないと分からないから。いい? 分かった?」


責めるつもりなんてないのに、焦りから、

どうしても口調が硬くなってしまう。

電話の向こうで、結菜がとうとう堪えきれずに鼻をすする音が聞こえた。

声を振り絞るようにして、妹が呟く。

「……わかった。ごめんね、お姉ちゃん。私のせいで……」


その「ごめん」という言葉に、穂花の心に熱いものが込み上げた。思わず、さっきより強い口調で遮ってしまう。

「何言ってるの! 結菜が謝ることなんて、ひとつもないでしょ!

大学、行きたいんでしょ?

あんなに夜遅くまで、毎日必死に頑張ってたじゃん!」


「……うん……っ」


泣きじゃくる妹を前に、

今の自分にはこうして感情的に励ますことしかできない。

そんな自分の無力さが、悔しくてたまらなかった。

「とりあえず、金曜日に帰るから。ちゃんとご飯食べて待っててね」


逃げるように電話を切った。

いつものアパートに辿り着き、重いドアを開ける。

穂花は部屋の明かりもつけないまま、靴も脱がずに玄関に座り込んだ。

カーテンの隙間から差し込む街灯だけが、

狭いワンルームを薄暗く照らしている。

誰もいない無機質な闇に向かって、穂花はぽつりと、掠れた声をこぼした。

「ただいま……」


昼間の賑やかなアパレルショップでの笑顔が、

まるで遠い前世の出来事のように思えた。


(はぁ……どうしよう。私の貯金、いまいくら残ってたっけ。

金曜日はもともと公休だけど、お父さんたちと話したところで、

今後のお金のこととかで絶対にゴタゴタするはず。

一番お店が忙しい土曜日だけど……続けて休みをもらって、

あっちに残って対応しなきゃダメかも。

明日、お店に出たら店長に相談しなきゃ……)


支払いの計算と、

土曜日のシフトに穴をあけてしまうかもしれない仕事の段取りが

頭の中で渦巻き、気が滅入る。


翌朝。


穂花は昼前までゆっくりできる遅番のシフトを利用して、

実家へ帰る支度を始めた。

といっても、一泊二日の身軽な荷物だ。

すぐに終わってしまった支度を持て余し、落ち着かない足取りのまま、

予定より早く家を出た。

向かったのは、お気に入りのアパレルセレクトショップ『ルミエール』。

駅までの道すがら、ギラつく太陽の下で、

穂花の目は無意識に通行人へと向く。

(今日も暑いなぁ……あ、でもあのTシャツ、

ネックラインのカッティングが絶妙。

あの人の着こなし、小物使いが効いてる)


穂花が今の会社を選んだのは、アパレルデザイナーになりたかったからだ。だが、入社して三年が経った頃、

会社の方針転換で自社デザイン部門が廃止されてしまった。

それ以来、彼女の仕事は「管理」と「販売」へと変わった。

それでも、街を歩けばどうしても人々の装いに目がいく。

相手に視線を悟られず、一瞬で服の立体構造をスキャンする。

今の売上管理の仕事には一ミリも必要のないそのスキルだけが、

彼女の奥底にしぶとく生き続けていた。

電車に揺られ、少し歩いて『ルミエール』の前に着く。

アンティーク調のドアを開けようとした瞬間、

聞き馴染みのある上品な声に呼び止められた。

「あら、ほのちゃん?」


「あっ、北原さん!」


声の主は、北原希(きたはら のぞみ)。

このショップを営みながら、フリーのデザインの仕事もこなしている、

穂花にとって心から尊敬する憧れの人だ。

「今日は、お店にいらっしゃったんですね」

「ええ、午前中だけね。

 午後からは新しいデザイン依頼の打ち合わせがあるのよ」

北原はそう言って微笑んだが、すぐに穂花の顔をじっと見つめた。

その聡明な瞳が、穂花の表情にあるわずかな陰りを捉える。

「ほのちゃん……何かあった?」

「えっ」

穂花は咄嗟に、少し裏返った声で返事をした。

「な、何かおかしいですか?」

「だって、ほのちゃんがうちの店にフラッと来る時って、

 決まって何か悩み事がある時なんだもの」

北原に悪戯っぽく微笑まれて、穂花は観念したように肩の力を抜いた。

「……隠せないですね。自分でも不思議なんですけど、

 悩み事や不安があると、なぜか自然とここに足が向いちゃうんです」


「ふふ、嬉しいこと言ってくれるじゃない。今日はこれからお仕事?」


「はい、今日は十三時から遅番です」


「じゃあ、もし少し時間があるなら、裏でお茶でもどう?」


「えっ、いいんですか……?」


「もちろん。すぐ準備するから、店内で待ってて」


北原が奥のバックヤードへ向かうのを見送り、

穂花はショップのフロアを見渡した。

家族の問題で押し潰されそうだったはずなのに、

並んでいる美しい洋服たちを前にすると、

自然と瞳がキラキラと輝いてしまう。

お気に入りの生地の感触を確かめるように、

穂花は一つ一つの商品を丁寧に、愛おしそうに見つめていた。

ものの五分ほどで、北原が支度を終えてバックヤードから戻ってきた。

「ほのちゃん、行こ! 米澤くん、あとはよろしくね」


「はい、いってらっしゃいませ。お気をつけて」


スタッフに見送られ、二人は阪急3番街の方面へと歩き出した。

9月の強い日差しの中を歩きながら、北原が優しく隣から声をかける。

「で、何があったの? ここじゃ言いにくい話?」


「……少しだけ。ただ、仕事のことじゃなくて、父親とちょっとあって」


「あら、プライベートね」


北原は終始、柔らかな笑顔を絶やさなかった。その隣にいるだけで、

穂花のトゲトゲしていた心が少しずつ落ち着きを取り戻していく。

北原は、穂花の緊張をほぐすためか、すれ違う通行人をあごで指した。

「ねえ、あの人の服のデザイン良くない?

 今度のアトリエの参考にもーらい」


穂花は目を丸くした。

「えっ……北原さんも、街行く人のファッションチェック、

 するんですか?」


「当たり前じゃない。これでもデザインで生計を立ててるんだよ?

たとえ今すれ違った人がファッションに興味があろうがなかろうが、

年齢とか、性別とか、季節や気温に対してどういう服を選んでいるのか……色々と考えながら生きてるのよ。ははっ」


北原は快活に笑うと、いたずらっぽく穂花を覗き込んできた。

「――ほのちゃんも、同じでしょ?」


「えっ……」


「前々から言おうと思ってたんだけどね。うちの店にいる時も、

 ほのちゃん、通りかかる人のファッションをすごくよく見てるなぁって

 思ってたの」


誰にも気づかれずに観察できていると思っていたので、

穂花は一気に顔が熱くなった。

「……気づいてたんですか?

 バレてないと思って、こっそりスキャンしてたんですけど」


「ふふ、バレバレ。デザイナーの勘ってやつよ」


北原はさらに顔をパッと輝かせ、一軒のカフェの前で足を止めた。

「ほら、着いた! ここのモンブラン、とっても美味しいのよ」


北原に促されて店内に入り、落ち着いた席に着く。

北原はメニューを開きながら

「好きなもの選んでいいよ!」と言ってくれたが、

穂花は咄嗟に手を振った。

「いえ! 相談に乗ってもらうのに、私に出させてください」


北原は少し困ったような顔をしたものの、

穂花の真剣な目に降参したように微笑んだ。

「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな。

 その代わり、しっかり相談に乗るね」


二人ともケーキセットを注文した。

数分後、

運ばれてきたアイスコーヒーとアイスティー、

そして大きなモンブランを前に、穂花は意を決して、恐る恐る切り出した。

「実は昨日、父からお金を貸してほしいって連絡がきて……。

 なんでも、父には借金があって、高校三年の妹の、

 大学の入学費用が払えないから貸してほしいって言うんです。

 明日、急遽実家に帰って、家族会議をすることになって」


北原はさっきまでの柔らかい表情から一転、真剣な眼差しで聞いてくれた。

「なるほど……。

 今はまだ、話の全容が見えなくて、

 不安で押し潰されそうになってる、ってところかな」


「……そうなんです」


穂花が不安げに視線を落とすと、北原は優しくマグカップを包み込んだ。

「じゃあ、今は正直、何とも言えないわね。でもね、

 明日その家族会議が終わったら、いつでもいいから私に連絡しておいで」


「え?」


「うちね、お母さん一人で私と弟を育ててくれたのよ。だから、

 今のほのちゃんと似たような『お金のゴタゴタ』が、昔、

 私の家でもあったの。きっと、具体的なアドバイスができると思うんだ」


北原の温かい言葉に、穂花は胸の奥がじんわりと軽くなるのを感じた。

「いいんですか……? ご迷惑じゃ」


「常連さんの悩みの一つや二つ、

 いつも背負ってるわよ、私は。気にしないで」


北原はあっけらかんと笑い、それから二人は、

少しの間だけ嫌なことを忘れて美味しいケーキを堪能した。

――その足で、穂花は自分の職場へと出社した。

忙しい木曜日の営業をこなし、夜。

閉店業務が終わったタイミングを見計らって、

穂花は店長の新島(にいじま)の元へ歩み寄った。


「店長。少し、シフトの件でお願いがありまして……」

新島はパソコンの手を止め、神妙な顔つきで振り返った。

「ん? 何? 穂花ちゃんがそんな風に言ってくるなんて、珍しいね」

まだ実家の件がどうなるか分からないため、

穂花は詳細を濁しながら申し出た。

「昨日の夜、父から急に連絡があって……

 ちょっと実家で相談事があるから、

 帰ってきてほしいって言われまして。

 明日、金曜日はもともと公休なんですけど、

 できれば土曜日もシフトを誰かと入れ替わっていただけないでしょうか」


すると、店長は一瞬、ハッとしたように不安そうな顔を浮かべた。

「土曜日のシフトは全然大丈夫だよ。

 この前、沙耶ちゃんが休んだ日があるから、

 そこの出勤と振り替えてもらうように調整するね。

 ……でも、まさか、辞めたりしないよね?」


「えっ! それはないです! 大丈夫ですよ!」


穂花は慌てて手を振って否定した。

店長は目に見えて一安心すると、すぐにきまり悪そうに頭を掻いた。

「ごめんごめん! 今の聞き方は不謹慎だったね、申し訳ない。

 とにかく、事情があるなら金曜、土曜って、

 ゆっくり実家に帰っておいで」


穂花は店長の少し大袈裟な心配に、思わず小さく笑ってしまった。

「ありがとうございます。助かります」


そう答えたものの、店長の「辞めたりしないよね?」という言葉が、

なぜか胸の奥に冷たい棘のようにチクリと刺さって残っていた。

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