第九十五話 王冠より重いもの
勅書の原案は短かった。
救援を再開し、通行を許可し、責任者を調査する。
それだけだ。
国王アルディスは三度読み返し、署名欄で筆を止めた。
勅書が扱うのは救援路と行政命令の整理だけであり、係属中の刑事裁判の有罪・無罪には触れない。
息子レオニスの名が、救援妨害に関する報告書にある。
「王家の名が傷つく」
法務官は答えた。
「すでに傷ついております。今、問題なのはその傷を隠すかどうかです」
国王は窓を開けた。
広場には補償を求める遺族と、王子を支持する兵士の家族が向かい合っていた。
双方とも国を憎んでいるわけではない。
大切なものを失うのが怖いのだ。
「私が息子を見捨てれば、国が割れる」
「陛下が息子だけを守れば、法が割れます」
法務官は静かに言った。
そこへ救援路からの報告が届いた。
山道で荷車が止まり、患者の搬送が遅れたという。
救援隊は帰還したが、次の便を出すには道路修繕と費用の承認が必要だった。
国王は書類の束を見つめた。
息子の裁判は大きな事件だ。
しかし王国の病人は、裁判の結論が出るまで待ってくれない。
「道路の修繕は、どの部署が引き受ける」
「地方行政局です。ただし費用の決裁が止まっています」
「なぜだ」
「王子の旧命令と衝突するためです」
国王は初めて、過去の命令が現在の患者を縛っていることを実感した。
自分が一度出した命令も、間違っていれば止められなければならない。
法務官と財務官を呼び、緊急支出の上限、事後監査、地方からの異議申し立てを条文に入れさせた。
王命を盾に救援を妨げた者への調査は、国王自身の承認記録も対象とする。
「陛下、それでは王宮の失策まで公開されます」
「隠しても死者は戻らない」
署名を終えると、国王は自ら広場へ出ようとした。
護衛長が止める。
「危険です。王子の支持者もおります」
勅書の起草会議には、法務官のほかに地方行政局の職員が呼ばれた。
彼女は王宮に入るのが初めてで、床の模様を踏まないように歩いていた。
「旧命令を停止すれば、現場はすぐ動けるのか」
国王が尋ねる。
「いいえ」
と彼女は答えた。
「命令を読んだことのない役人もいます。新しい文書が届いても、誰の責任で実行するのか分からなければ、同じことが起きます」
重臣が眉をひそめた。
「陛下の命令があれば十分だろう」
「十分なら、救援車は止まっていません」
部屋が静まった。
彼女は震える手で現場の申請書を広げた。
道路修繕の依頼は三度提出され、そのたびに別の部署へ戻されている。
王子の旧命令を盾にした者もいたが、責任を取りたくないために決裁を避けた者もいた。
国王は書類を見て言った。
「私が命じたから動く国では、私が誤れば誰も止められない」
財務官は緊急支出の額に異議を唱えた。
財源を決めずに支出を増やせば、冬の学校給食が削られる可能性がある。
国王は「命を救うのだから仕方ない」と言いかけたが、机の上の児童名簿を見て止めた。
「学校の食事も命を支えている。どちらかを見捨てる数字にしてはならない」
予備費の一部を使い、足りない分は議会へ追加承認を求める。
道路修繕は危険度の高い区間から始め、支出と完了状況を掲示する。
誰かが反対できる手続きを残すことも、勅書の一部となった。
その日の夕方、国王は広場の人々から直接話を聞いた。
王子を支持する退役兵は「殿下がいなければ国境は守れなかった」と訴えた。
遺族の男は「国境を守るために娘を死んだことにする必要があったのか」
と問い返した。
二人の声は次第に大きくなり、護衛が間へ入ろうとした。
「話す順番を決めよう」
と国王は言った。
「互いを黙らせるためではなく、最後まで聞くために」
退役兵は娘の話を聞き、目を伏せた。
遺族の男も兵士が冬に物資を失ったことを初めて知った。
二人は和解しなかった。
それでも、同じ広場で言葉を終えることができた。
夜、法務官は息子からの手紙を国王へ差し出した。
「裁判とは別に、父としてお読みになりますか」
国王は長く迷い、封筒を開いた。
そこには救援妨害の正当性が書かれ、最後に一行だけ「父上なら分かるはずです」
とあった。
「分かりたかった」
と国王は呟いた。
「だから、見たくないものを見なかった」
彼は手紙を保管させた。
私的な手紙を裁判の証拠に使うなら、正式な手続きを踏まねばならない。
父親の悲しみと国王の権限を混ぜないこと。
それが今できる、最初の償いだった。
「だからこそ、誰かの声だけを聞いてはいけない」
広場の女は、息子の死亡記録を掲げた。
「この子は死んだことにされていました。生きて帰ったのに、配給を受けられない」
国王はその場で名簿を訂正すると約束しかけたが、言葉を飲み込んだ。
個人の命令で帳簿を直せば、また別の不正を生む。
「確認窓口を明日開く。必要な記録と異議の手順を掲示する」
女は不満そうだった。
「明日、ですか」
「今日中にできないことを、今日できるとは言わない」
緊急支出の決裁を終えたあと、国王は財務官を呼び戻した。
「費用を出せば、道は直るのか」
「工事の人手と資材が必要です。金だけでは明日には直りません」
国王は苦い顔をした。
命令を出せば世界が動くと思い込んでいた頃の自分なら、担当官の無能を叱責しただろう。
「では、工事が終わるまでの代替路と、運べない患者への巡回診療を組み込め」
財務官は驚いて顔を上げた。
「それには帝国側との協議も要ります」
「協議する。私が謝罪すべき相手なら、なおさらだ」
広場の遺族代表にも、救援費の使途を月ごとに掲示する案を示した。
代表は言った。
「私たちは、王様に泣いてほしいんじゃありません。明日、同じように子どもを失う家を減らしてほしいんです」
国王は返す言葉を持たなかった。
その沈黙のあと、報告書に初めて自分の承認印を押した。
王宮に戻ると、机には息子からの手紙が届いていた。
封は切らなかった。
私情で裁判の記録を変えることを恐れたからではない。
父親として読むなら、裁判の外で読むべきだと分かったからだ。
王冠を外した国王の頭には、白い髪が増えていた。
「私は、正しい父親ではなかった」
法務官は答えなかった。
「せめて、間違いを止められる国にはしたい」
窓の向こうで、救援車の車輪が石畳を鳴らした。




