第九十四話 救援隊は戻らない
裁判所が次回期日を定め、証拠調べが続く間、国境では別の危機が起きていた。
セレナは救援現場へ向かい、法廷での事実認定には関与しなかった。
救援隊からの定時連絡が途絶えたのは、山道の雪が雨に変わった夕刻だった。
検疫所では子ども三人と高熱の老人が到着を待っている。
薬の残りは一晩分しかない。
衛生隊の責任者は地図に赤い印を付けた。
「最後に確認されたのは崖沿いの旧道です」
セレナは馬を出すよう求めたが、ガレスは首を振った。
「見通しが悪い。救助隊まで遭難すれば、誰も戻れない」
「じゃあ待つの?」
「待たない。道を確かめてから動く」
村の猟師が二人、古い木橋を避ける抜け道を知っていた。
彼らは賃金の話より先に、山の天気を説明した。
雨が凍れば夜明けには通れなくなる。
荷車は諦め、人が通れる道だけを確保する。
セレナは救援班を二組に分けた。
先行班は位置の確認と連絡、後続班は担架と防寒具。
誰も単独で動かさない。
検疫所にはエドガーが残り、患者の容体が変わったときの手順を引き受けた。
崖道では、荷車の車輪が泥にはまり、負傷者を乗せた担架が傾いていた。
ミラが肩で支えている。
患者の顔は青白く、指先が冷たい。
「ここで治療を始めます」
ガレスは護衛を二人だけ見張りに置き、残りの兵へ車輪を外すよう指示した。
石を詰めても動かない。
村人は斧で枝を切り、荷の下に敷いた。
「急いで運ぶな」
セレナが言った。
「まず呼吸を確かめて。揺らせば傷が開く」
彼女は治癒魔法で出血を抑えたが、失われた体力までは一瞬で戻せない。
温かい布と少量ずつの水分、継続的な観察が必要だった。
夜半、道の向こうに松明が現れた。
兵士たちは武器に手をかける。
現れたのは、行方不明になっていた別の救援車を探していた王国側の村人だった。
「帝国の隊だと聞いて、助けていいのか迷った」
「迷っている間に患者が冷えます」
ミラが答えた。
村人は顔を赤くして、背負ってきた薪を置いた。
敵国の者に渡すために運んだのではない。
ただ山で人が凍えるのを見過ごせなかった。
出発前、エドガーは救助隊員を集め、戻る時刻を決めた。
予定を過ぎても連絡がなければ追跡隊を増やさず、麓の見張り所へ知らせる。
勇敢さに任せて次々と山へ入れば、救助されるべき人が増えるだけだった。
「私が行くべきだ」
と若い治癒師が名乗り出たが、セレナは尋ねた。
「凍えた患者の搬送訓練は受けた?」
「魔法で治療できます」
「それは答えにならないわ。滑った担架を支える方法を知らなければ、あなたも患者も崖へ落ちる」
若者は唇を噛み、後続班で毛布を準備する役を引き受けた。
検疫所では高熱の老人の娘が、窓の外を見続けていた。
「薬が来れば父は助かるんですよね」
エドガーはすぐに頷けなかった。
「必要な薬が届いても、必ず回復するとは言えません。ただ、今できる処置は続けます」
娘は泣き出しそうになりながら、父親の額の布を取り替えた。
言葉が足りなくても、嘘の安心を渡すわけにはいかなかった。
山道では救援車の先頭が横倒しになり、後ろの車も進めなくなっていた。
負傷した御者は足を挟まれ、仲間は荷を捨てるかどうかで争っていた。
食料を運ぶ袋を谷へ落とせば、向こうの村に届かない。
だが荷を守れば御者を引き出せない。
ガレスは全員を黙らせ、袋に印を付けて安全な岩陰へ運ぶよう命じた。
捨てるのではなく、一時的に分ける。
村の猟師が帰路の目印を作り、別の班が回収できるようにした。
御者の足を引き出したとき、彼はまず「荷は」と尋ねた。
ミラは答えた。
「数えています。あなたの足も、同じくらい大切に扱わせてください」
若い兵士が水を差し出したが、セレナは患者の意識と飲み込みを確かめてからにするよう止めた。
急いで善意を示すことが、かえって危険になる場合がある。
兵士はうなだれたが、次に患者の体を冷やさないよう布を掛ける仕事を選んだ。
下山途中、救援隊は橋のたもとで足止めされた。
増水で丸太が一本流され、担架を渡すには人手が足りない。
王国側の村人は帝国兵の腕章を見てためらった。
「誰を運んでいる」
と村人が聞く。
「怪我をした御者です。国籍はここでは関係ない」
村人は腕章から目を離し、担架の上の男を見た。
「うちの息子と同じくらいだ」
彼が橋を支えると、ほかの村人も続いた。
帰還後、セレナは隊員の疲労を確認し、翌日の輸送をいったん減らした。
予定数を運べなかった責任を問う声はあったが、傷んだ物資をそのまま配るわけにはいかない。
エドガーは検疫所の壁に新しい表を貼った。
物資の残量だけでなく、届く見込みの確かさを三段階で示す。
見込みが外れたらすぐ更新する。
娘は表を見て言った。
「待つだけじゃなくて、今何があるか分かるんですね」
「分かることを増やすのが、私たちの仕事です」
その夜、老人の熱はまだ下がらなかった。
それでも当直者は交代し、薬の残量を確かめ、次の朝を迎える準備を続けた。
朝、検疫所に戻った隊員たちは全員が疲れ切っていた。
救援物資は予定より少なく、薬の一箱は水をかぶって使えなくなった。
成功と呼ぶには損失が大きかった。
エドガーは濡れた箱に印を付けた。
「検査が終わるまで使わない」
「せっかく運んだのに」
若い兵が言った。
「使えない薬を配るほうが、運ばなかったより悪い」
セレナは輸送路の危険箇所、到着遅延、物資の損傷を記録した。
次からは山を越える隊に予備の毛布を増やし、出発前に天候と連絡時刻を確認する。
救助の翌日、村の猟師は崖道の見取り図を持ってきた。
赤く塗られた場所は、荷車が通るには狭すぎる曲がり角だった。
「前から危ないと知らせていたんだ」
ガレスは報告書をめくった。
確かに修繕の申請は三度出され、いずれも予算不足として保留されていた。
「今度は通す」
「口約束なら四度目だ」
猟師は首を振った。
セレナは二人の間に立った。
「応急の歩行路と、荷車の通行止めを先に決めましょう。修繕の予算は別に申請する。その間、病人をどの道で運ぶかも必要です」
エドガーは検疫所に残った患者の状態を報告した。
老人の熱は続いているが、呼吸は落ち着き始めた。
山道を越えた薬だけで助かったわけではない。
夜を通して観察した人々の仕事があった。
猟師は見取り図の端に自分の名前を書いた。
今度は危険を知っている者の声が、正式な記録に残るように。
村人が帰ろうとすると、ミラが呼び止めた。
「薪をありがとう。あなたが来なければ、あの人は朝を迎えられなかったかもしれません」
村人は首を振った。
「礼なら、山の向こうの人にも言ってくれ。あいつらが道を教えた」
救援隊は予定の時刻には戻らなかった。
それでも、戻るために手を貸した人の名が、国境の両側に残った。




