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王子に追放された天才治癒師、隣国で病院を建てたら英雄になりました  作者: レモンティー


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第九十三話 王子の最後の切り札

封書が届いたのは、証人宿舎の夕食前だった。

シーラの兄は使者の顔を覚えていた。

かつて王宮の文書係として働いていた男だ。

「ご家族のためです」

男は言った。

「証言を撤回すれば、没収予定の財産は守られます」

兄は扉を閉めることができなかった。

家族の商売はすでに傾き、母親の薬代さえ借りている。

「返事は明日までに」

使者が去ったあと、兄は封書を握りつぶした。

妹に見せれば傷つける。

隠せば、自分が妹の人生を決めることになる。

シーラは兄の震える手に気づいた。

「何があったの」

「お前は知らなくていい」

「また私のことを、私抜きで決めるの?」

その一言に、兄は紙を差し出した。

少女は最後まで読んだ。

読み終わるころには顔が青ざめていたが、破ろうとはしなかった。

「これも、裁判所に見せて」

「でも、家を失うかもしれない」

「家は大事。だから、家を守るために私を黙らせようとした人がいたって、残してほしい」

セレナは宿舎へ呼ばれ、封筒をその場で封印した。

受け取った時刻、触れた人、紙の状態を記録する。

使者を捕まえることより、家族を移すことを優先した。

護衛のガレスは「これでは王子の思うつぼだ」

と歯ぎしりした。

「怒るのはあとで」

セレナは言った。

「今夜眠れる場所を先に探して」

宿舎の裏口から移動するとき、シーラは兄の手を握らなかった。

兄は自分から近づき、少し離れたところを歩いた。

謝罪を急がせない距離だった。

翌朝、裁判所では王子側から別の申し立てが出た。

国境の医療協定を一時停止すべきだという。

裁判と外交を一緒に扱えば、救援を必要とする患者まで交渉材料になる。

皇女アーデリアは使節として明言した。

「協定は両国の患者のためのものです。被告人の要求によって停止する理由にはなりません」

宿舎を移る前、ガレスは家族に荷物を一つずつ確認させた。

使い慣れた食器も、店の帳簿も置いていくことになる。

兄は古い帳簿を抱え、「これがなければ店を立て直せない」

と言い張った。

「持っていけるのは手に持てる分だけだ」

とガレスは答えた。

「居場所が知られれば、妹さんを守れない」

シーラは帳簿を受け取り、最後の頁だけを破らずに写した。

仕入先と未払いの金額が並んでいる。

兄は驚いた。

「いつ覚えた?」

「寝ていた間に、お兄ちゃんが話してくれたでしょう。店を続けたいって」

少女の記憶に残っていたのは脅迫の言葉だけではない。

家族が日々の暮らしを守ろうとしていた声も残っていた。

新しい宿舎では、護衛を増やす代わりに出入りする人を減らした。

食事を運ぶ者も固定し、家族が外出する場合は行き先を共有する。

シーラは「閉じ込められるみたい」

と不満を漏らした。

「そう感じるのは当然だ」

とガレスは言った。

「明日の昼に庭へ出る時間を作ろう。守ることを理由に、君の生活を全部奪うわけにはいかない」

セレナはその約束を書面にした。

危険が増せば見直すが、本人に説明なく変更しない。

証人を保護する側もまた、力を持っているからだ。

別室での事情聴取で、王子側の執務長は、封書が自分の指示で送られたと認めた。

その供述は調書となり、後日の法廷で本人に確認するまで確定した事実とは扱われなかった。

しかし「家族の生活を案じただけだ」

と弁解する。

法務官は文面を読み上げた。

「撤回しなければ財産が失われる、とあります。これは助言ですか」

執務長は「そう受け取る者もいるでしょう」と答えた。

「受け取る者がいる、ではありません。実際に財産の処分を命じる権限があったのですか」

執務長は答えられなかった。

処分の権限は別の役所にあり、彼が口にした没収は決定されていなかった。

脅しは現実の権力を借りて作られた虚偽だった。

裁判長は封書の作成者、運搬者、執務長の指示を分けて調べるよう命じた。

レオニスが直接命じたかどうかは、この時点ではなお争われている。

傍聴人の一部は不満そうだったが、セレナはその慎重さに救われた。

彼女自身もかつて、調べられる前に罪人と決めつけられたのだから。

夕刻、兄は妹に店の帳簿の写しを見せた。

「借金は残る。でも、家族で返す方法を考えたい」

シーラは首を傾げた。

「私も働かないといけない?」

「違う。お前は学校へ戻りたいって言ってただろう」

少女は長く黙ったあと、小さく頷いた。

裁判の勝敗よりも、明日どんな暮らしを選べるか。

その話を家族ができるようになったことが、脅迫者の計算にはなかった変化だった。

王国の法務官も同意したが、書類の末尾には署名をためらう余白が残った。

アーデリアはその場で期限を区切った。

「明朝までに正式な回答を。遅れた場合は現行協定を維持したまま、医療搬送だけ継続します」

翌日の法廷では、使者の出廷について双方の意見を聞き、脅迫の疑いに関する補充証拠として採用した。

使者は宣誓のうえ証人として呼ばれ、検察側の質問に続いて弁護側の反対尋問を受けた。

彼は命令を受けたと主張したが、誰から直接受けたのかは曖昧だった。

封書の筆跡と封印は王子の執務室で使われたものに似ている。

しかし、それだけではレオニス本人の指示と断定できない。

「使者に不利益が及ぶと脅した人は?」

マルセルが尋ねた。

男は長い沈黙のあと、執務長の名前を口にした。

新しい証人の保護が必要になった。

使者の証言を受け、裁判所は封書の差出経路を確認した。

王子の執務室で使われた紙と同じ透かしがあったが、同じ紙は複数の部署に配られていた。

書記官がその事実を読み上げると、傍聴席がざわめいた。

「王子の仕業ではないというのか」

ガレスが低く言う。

「そう決まったわけでもない」

セレナは答えた。

「証明できないところを飛び越えれば、証明できたところまで疑われる」

一方、証人宿舎では兄が家業の帳簿を開いていた。

財産を守るという脅しがどれほど現実的か、初めて家族に説明した。

母は長い間黙ってから言った。

「家がなくなるのは怖い。でも、あの子がもう一度死んだことにされるほうが怖い」

シーラは母を抱きしめなかった。

抱きしめれば泣いてしまい、翌日の証言を続けられなくなりそうだった。

ただ同じ机で、冷めたスープを一緒に飲んだ。

閉廷後、兄はシーラに頭を下げた。

「お前のためと言いながら、俺が怖かったんだ」

「私も怖いよ」

「それでも話すのか」

「うん。でも、次は一人にしないで」

兄は初めて妹の手を取った。

証言を撤回しなかったことが勝利なのではない。

怖いと口にできる家族に、少しずつ戻れたことが、その日の小さな救いだった。

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