第九十二話 毒ではなかった薬
三本の瓶は、同じ薬のように見えた。
だが検査官フィリスは、机に置く順番さえ記録させた。
「一本目は保管された原処方。二本目は押収品。三本目は王宮薬庫の封印品。混同すれば検査の意味がなくなります」
書記が番号札を結び、二人の立会人が封蝋を確認する。
セレナは窓際に立ち、手を出さなかった。
自分が調合した薬を疑われるのは苦しかったが、疑いを晴らすために自分で触れてはならない。
噂はすでに広まっていた。
薬を飲んだ患者が眠り続けた、という話が、いつの間にか『セレナが毒を盛った』に変わっている。
「毒かどうかは、結果を見てから話してください」
フィリスは繰り返した。
若い助手が液の色を比べると、押収品だけわずかに濁っていた。
温度と光の影響を確かめるため、未開封の保存試料と同じ条件で比較する。
魔力を含む成分は熱に弱く、濁りだけでは有害性を判定できない。
午後、患者の家族が検査所に来た。
娘が薬を飲んだあと、半日目を覚まさなかったという。
「毒ではなかったと言われたら、娘が苦しんだことまで嘘になるんですか」
セレナは即座に首を振った。
「なりません。症状が起きたことと、その原因が何かは別です」
フィリスは服用量、投与時刻、患者の体調を聞き取った。
記録には規定量の二倍近い数字が書かれている。
ただし筆跡が違い、後から書き換えられた可能性もあった。
「薬そのものの問題と、投与の問題を分けましょう」
「じゃあ誰の責任なんです」
「今はまだ、断言できません」
答えを急がないことが、家族をさらに怒らせた。
セレナはその怒りを受け止めた。
翌日の試験では、原処方と封印品の主要成分が一致した。
鑑定人は使用した試料の番号、検査方法、結果の限界を報告書に残した。
裁判所に提出する際は検察側と弁護側の双方へ同じ写しを交付し、鑑定人への質問を認めることになった。
押収品には成分の分解が見られたが、既知の毒物は検出されなかった。
フィリスは結果を一行ずつ読み上げる。
「『毒物は検出されない』と『安全性が保証された』は同じ意味ではありません」
保管温度の記録が欠けていたため、劣化の原因は特定できない。
さらに、眠り続けた患者の症状と薬の因果関係も確定しなかった。
裁判所へは、その限界も含めて報告することになった。
検査の前夜、フィリスは三つの瓶を保管室へ移した。
鍵は二人の立会人が別々に管理し、入室時刻も残した。
若い助手は面倒そうに言った。
「これほど厳重にしなくても、見れば違いが分かります」
「見た目で決める人が増えたから、今ここで調べているのです」
助手は口を閉じた。
彼の弟も薬を飲んだあとに眠り続けた患者の一人だった。
毒が見つかれば怒りの向け先が決まる。
見つからなければ、誰を責めればよいか分からなくなる。
その不安をフィリスは理解していた。
検査ではまず封印の傷を写し取り、瓶の重量を量った。
液を採取する量も記録し、残りを再び封じる。
魔力反応の測定は別の技師が担当した。
セレナが配合を説明すると、技師は「それは仮説として記録します」
と言い、処方者の説明と検査結果を別欄に分けた。
「私が作ったのに、信用してもらえないのですね」
とセレナが漏らすと、フィリスは首を横に振った。
「信用しているから、あなたの記憶だけに責任を負わせたくないのです」
診療所に戻ったセレナは、眠り続けた娘の父親と面会した。
父親は夜中に何度も娘の胸へ耳を当てたという。
「息をしているか、確かめずにはいられなかった。あの音が今でも聞こえます」
セレナはすぐに謝罪を口にしかけた。
しかし原因が分からないまま、自分の罪として引き受けるのも、父親の訴えを調査から遠ざける行為かもしれない。
「怖い思いをさせたことは事実です。投与の記録と薬の状態を最後まで調べます」
父親は「責任者の名前だけ教えてくれ」と言った。
セレナは調査が終わるまで断定できないと説明し、代わりに記録の閲覧方法と再診の予定を紙に書いた。
翌日、別の病棟から同じ薬を使った患者の経過表が届いた。
投与量は規定内で、強い眠気も報告されていない。
だからといって薬が無害だとは証明できないが、すべての患者に同じ症状が出たわけではないことが分かった。
フィリスは投与器具も調べた。
目盛りの一部が摩耗し、急いで扱うと読み違える可能性がある。
現場の看護人は「私たちのせいですか」
と身を固くした。
「責める前に、同じ間違いを防ぐ方法を決めます」
とフィリスは答えた。
器具を交換し、二人で量を確認する試行を始める。
人手が足りない夜間は、危険度の高い薬から優先することになった。
助手は最後に、弟の記録の写しを受け取った。
そこには分からないことがいくつも残っていた。
「答えが出ないままでも、調べ続けていいんですね」
「もちろんです。分からないことを隠した瞬間に、検査は終わってしまいます」
フィリスは検査簿を閉じず、次の報告が書けるよう余白を残した。
薬庫の担当者は検査報告書を見て、ほっとしたように笑った。
「これで問題なしですね」
フィリスは書類を閉じた。
「いいえ。問題が残ったことが分かったんです。封印品の管理はできていた。でも現場で使う瓶の保管記録が途切れている」
セレナは診療所への通達案を書いた。
薬瓶ごとに製造日、保管場所、受渡者、投与量を記録し、異常が出たら使用を止める。
検査官が患者のそばにいなくても、誰かが異変に気づける仕組みが必要だった。
翌朝、検査官は裁判所の許可を得て、投与記録を扱った看護人から追加の説明を聴いた。
結果は鑑定の補充報告として双方の当事者に開示され、弁護側にも検証の機会が与えられた。
看護人は薬瓶を前にして泣き出した。
「患者が眠ったとき、私が量を間違えたと思いました。怖くて報告を遅らせました」
フィリスは責めるより先に、記録を二枚並べた。
医師の処方欄には一回分、病棟の転記欄には二回分に近い数字がある。
誰がいつ転記したかは、まだ分からない。
「あなたの沈黙は調査を遅らせました。それは事実です。でも、今ここで推測を自白に変える必要はありません」
セレナは患者の母に調査日程を書いて渡した。
次の説明日と、症状が再び出たときの連絡先を明記する。
「娘はまた薬を飲まなくてはいけませんか」
「同じ瓶は使いません。必要性と代替薬を担当医と相談してください」
母はようやく紙を受け取った。
安心できる答えではない。
それでも、誰に何を尋ねればよいか分かる答えだった。
帰り際、娘の母親が再び現れた。
「娘は、今は元気です。でも薬を見ると泣くんです」
「怖かったんですね」
「あなたも怖かったでしょう。疑われて」
セレナは少し考えた。
「怖かったです。でも、娘さんが苦しんだことまで消したくありません」
母親は何も答えなかった。
ただ、検査報告書の写しを受け取り、丁寧に折って帰っていった。




