第九十一話 裁判の第一日
法廷の扉の前で、シーラの母は娘の髪を結び直していた。
三度結び直して、ようやく手を止める。
「途中で帰りたくなったら、帰っていいのよ」
「うん。でも、私が話さなかったら、誰かが私の代わりに話を作るでしょう」
セレナは母娘の隣に立った。
証言を勧める言葉は用意しなかった。
生き残った少女に、さらに勇気まで要求したくなかったからだ。
これは第五十二話の共同監督による非公開審問とは別の、王国裁判所による公開の刑事裁判だった。
前の審問記録は捜査資料として提出されるが、それだけで有罪の証拠とはしない。
裁判長は検察側に訴因を読み上げさせ、被告人と弁護人に認否を確認した。
開廷後、検察側が死亡届の原本と訂正履歴を証拠として提示した。
弁護人はその成立過程と本人確認の方法を争い、反対尋問を求めた。
公印も受付番号もある。
形式だけを見れば完璧だった。
「この記録によれば、証人はすでに亡くなっている」
裁判長マルセルは首を振った。
「死亡届は死亡を証明するための資料だ。虚偽作成が争点である以上、その届だけを根拠に証言を拒むことはできない」
「では本人確認を」
「もちろん行う。異議は記録する」
シーラは小さく息を吐いた。
守られたのは彼女の発言権であって、証言の正しさまで保証されたわけではない。
それがかえって安心できた。
証人台には二枚の地図が置かれた。
王宮医療院の旧病棟と、救護用の裏門の位置を示したものだ。
シーラは自分の足で通った道を指した。
廊下の曲がり角にあった欠けた灯具、雨の日に滑った石段、門の横で鳴いていた犬。
細部は多かったが、彼女は日付については「覚えていない」と答えた。
「覚えていないことを、覚えていると言わなくていい」
マルセルが言った。
弁護人は縫合痕を確認するよう求めた。
セレナは治療者として処置日誌を提出したが、傷痕だけでは本人の同一性を確定できないと自分から述べた。
入院時の身体特徴、当直者の署名、搬送札の番号を別々に照合する必要がある。
「あなたの記録が誤っていた可能性は?」
「あります。だから私一人の記録では決めないでください」
傍聴席にかすかな動揺が走った。
自分に有利な証拠を疑う治癒師を、人々は初めて見たのかもしれない。
開廷前、書記官は証人待機室でシーラに手順を説明した。
質問の意味が分からなければ聞き返せること、休憩を求められること、答えたくない質問があれば裁判長に申し出られること。
母親は「全部守ってもらえるのですか」
と念を押した。
「守るために私がここにいます」
と書記官は言った。
「ただし、聞きたくないことまで聞こえなくすることはできません」
少女は頷いた。
法廷へ向かう前に、母から渡された小さな布袋を握りしめた。
中には病床にいたころの木彫りの鳥が入っている。
何かを思い出すためではなく、今いる場所を忘れないためのお守りだった。
法廷では、証人の本人確認と証拠書類の照合を済ませてから、公開の証言に移った。
第五十二話の共同審問で得た供述は捜査資料として扱われ、この法廷では証人本人への質問と弁護側の反対尋問を別に行う。
かつて搬送を担当した門衛は、少女の顔を見て「間違いありません」
と断言したが、弁護人に「何年も前に一度見ただけでは」
と問われると、言葉に詰まった。
「見覚えがあることと、本人だと確認できることは違います」
とマルセルは告げた。
当直日誌には搬送された子の年齢が一つ違っていた。
記録係フィオナは当時の計算方法を調べ、年齢の記載が誕生日を迎える前の数字であると説明した。
それでも裁判長は、その説明だけで矛盾が消えたとは扱わず、診療記録と家族の申告を別々の証拠として採用した。
シーラの兄は廊下で待ちながら、何度も同じ場所を歩いた。
「妹が間違ったことを言ったら、全部台無しになるんですか」
セレナは答えた。
「思い違いが一つあっても、その子が嘘つきになるわけではありません。間違いを訂正できる場所にするための裁判です」
兄は足を止めた。
以前の自分なら、妹に完璧な証言を求めていただろう。
だが、あの夜のことを最も鮮明に覚えているのは、救われた少女ではなく、救えなかったと泣いた母親かもしれない。
午後の尋問では、弁護人が裏門の鍵の色を尋ねた。
シーラは「黒かった」と答えたが、門衛は「鉄の色だ」
と訂正した。
傍聴席がざわつく。
「暗かったので、色はよく分かりません」
少女は自分で言い直した。
マルセルはその訂正をそのまま記録させた。
弁護人にも反対尋問の機会を与えたうえで、見えたものと後で聞いたものを区別するよう質問を整えた。
休廷中、シーラは母親に言った。
「間違えたから、みんな怒った?」
「いいえ。お母さんも、あの夜の空の色は覚えていないわ」
「でも、私が生きていたのは覚えてる?」
母親は布袋の上から娘の手を包んだ。
「それは、今ここにいるあなたが教えてくれる」
法廷へ戻ると、シーラはもう一度自分の足で証人台へ上がった。
誰かの期待どおりに話すためではなかった。
自分が覚えている範囲を、自分の言葉で残すためだった。
休廷中、シーラは水を飲もうとして杯を落とした。
指先が震えていた。
母親が拾おうとすると、少女は首を振る。
「自分で拾う」
しゃがんだ拍子に、裾の縫い目がほどけた。
母親は笑いかけて、すぐ泣きそうな顔になった。
娘の服を繕える日が来るとは、あの死亡通知を受け取った夜には思わなかったのだ。
午後、元当直係が呼ばれた。
彼は「王子の命令だった」と繰り返したが、シーラを見てから声が細くなった。
「命令書を受け取ったのは、患者を運び出したあとです」
それまで誰も指摘していなかった時間のずれだった。
マルセルは証言を止め、書記官に時刻を確認させた。
命令があったから行ったのか、行ったことを正当化するため命令が作られたのか。
裁判は新たな問いを抱えた。
法廷を出る前、書記官が元当直係の証言時刻を読み上げた。
命令書の受付印は夕刻、搬送記録の出発欄はその一刻前だった。
ただし時計の基準が同じとは限らない。
裁判長は両方の時計の管理記録を取り寄せるよう命じた。
「それでは今日の証言が無駄になるのですか」
シーラの母が尋ねた。
「いいえ」
書記官は答えた。
「一つの記憶が、別の記録を調べる理由になりました」
シーラは廊下の長椅子に腰を下ろした。
自分が思い出した石段の雨の匂いと、帳簿に記された数字が、同じ重さで扱われることに不思議な気持ちがした。
どちらか一方だけで人を裁けば、また誰かの声が消える。
母は娘の肩に上着を掛けた。
「明日は来なくてもいいのよ」
「明日は、まだ決めない」
少女はそう答えた。
今まで誰かが決めてきた自分の予定を、初めて自分で選ぶためだった。
閉廷の鐘が鳴った。
シーラは傍聴席の出口で立ち止まる。
「今日は、全部言えなかった」
「全部言う必要はないわ」
セレナは答えた。
「今日、あなたが見たことを、あなたの言葉で話した。それが残ったの」
シーラは母の手を取った。
死亡届に引かれた赤線よりも、まだ温かいその手のほうが確かだった。




