第九話 敵の騎士を救ったら、国境が開いた
診療所を発って間もなく、森に朝の薄明かりが差し始めた。
王都の審問所へ移送すると告げられたセレナは、手錠をかけられたまま南の森へ運ばれていた。
王都へ向かう道は北にある。
騎士隊長ヴァージは出発時から右腕を押さえ、顔色が悪かった。
「隊長、傷を診てもらったほうが……」
「黙っていろ」
その返事から間もなく、馬車が止まった。
床に崩れ落ちたヴァージの額には汗が浮かび、右腕の包帯からは嫌な臭いがした。
「隊長! しっかりしてください!」
若い騎士が肩を揺する。
ヴァージは答えず、荒い息を繰り返した。
「揺らさないで。まず呼吸を確かめてください」
セレナが言うと、騎士は剣の柄に手を掛けた。
「罪人が命令するな!」
「命令ではありません。お願いです。隊長を死なせたくないなら、私の手錠を外してください」
「逃がすわけにはいかない」
「なら、あなたが脈を見て。手首に二本の指を当ててください」
騎士は渋々従った。
やがて表情が変わる。
「速い……。それに、手が冷たい」
年長の騎士が馬車へ乗り込んできた。
「南の宿場に医師がいる。半刻だ」
「そこへ運びましょう。ただし急いで揺らせばいいわけではありません。隊長を横にして、様子を見ながら」
年長の騎士はセレナを見つめた。
「おまえは、こいつに何をされたか分かっているのか」
「王都の審問所へ移送すると告げられました。でも、馬車は逆方向へ進んでいます」
「それでも助けるのか」
「今、死にかけているのは患者です」
沈黙の末、鍵が回った。
手首から鉄が外れる。
赤く擦れた皮膚を気にする暇はなかった。
セレナはヴァージの意識と呼吸を確かめ、包帯の外側から腕の腫れを観察した。
肘を越えて赤みが広がっている。
「傷を負ったのは?」
「……四日前」
「洗いましたか」
「包帯だけだ。任務が……あった」
「任務は、あなたの代わりに生きてくれません」
ヴァージは薄く目を開いたが、反論する力も残っていなかった。
宿場の医師は白髪の男だった。
傷と高熱を見て、顔を曇らせる。
「感染が深い。命の保証はできん。処置を急ぐ」
「私にも手伝わせてください」
「おまえが噂の追放治癒師か。魔法は?」
「使えません。ですが、清潔な器具の準備と経過の記録ならできます。判断は先生にお願いします」
医師は一瞬だけ眉を上げた。
「分かった。湯を沸かし、布を用意しろ。騎士たちは外へ」
処置が始まると、廊下から足音が消えた。
医師は傷の状態を見極め、必要な処置を行う。
セレナは手洗いを徹底し、清潔な布を渡し、脈と呼吸、意識の変化を書き留めた。
ヴァージが痛みに身をよじるたび、二人は声を掛け合った。
夕方になっても高熱は続いた。
「助かるんだろうな」
扉の前で若い騎士が尋ねた。
「まだ分かりません。今夜も急変する恐れがあります」
「隊長は王国でも指折りの剣士だぞ」
「病気は、剣の腕を見てくれません」
騎士は唇を噛んだ。
怒鳴る代わりに、水桶を取り替えに走った。
夜半、ヴァージがセレナを呼んだ。
「……なぜ逃げなかった」
「あなたを診ている途中でしたから」
「俺は、あんたを王都へ連れ戻すつもりじゃなかった」
筆先が止まった。
「南の森で処分しろと、命じられた」
セレナは胸の奥が冷たくなるのを感じた。
馬車の進路がおかしいと気づいていた。
それでも、聞き違いであってほしかった。
「レオニス王子の命令ですか」
ヴァージはうなずいた。
「表向きの移送命令とは別に、封書がある。胸の内側だ。出発前に王宮の密使から渡された」
「今は無理に動かないで。私が取っても?」
返事を待ち、革紐をほどく。
王家の封蝋が押された命令書には、セレナを王都へ帰還させず、身柄を処分する旨が記されていた。
末尾の『生死を問わず』という文字が、目に焼きついた。
「私が何をしたというのです」
「シーラという娘の件を、調べられたくないらしい」
「あなたは、シーラの遺体を見ましたか」
「いや。死亡を確認した者の名も聞いていない」
セレナは命令書を握り潰しそうになり、手を開いた。
ここで怒りをぶつけても、シーラの居場所は分からない。
目の前の患者の容体も良くならない。
「この命令書は証拠になります。原本を守れますか」
「俺が持っていれば、王子に取り上げられる」
「では、文面を写させてください。あなたの署名と、私が見た日付も残します」
「……俺は命令を受けた。実行するつもりだった」
「それも書きます。都合の悪い部分を消したら、証拠になりません」
ヴァージはしばらく黙り、やがて左手で署名した。
翌朝、医師は包帯を確かめ、ようやく息をついた。
「熱は少し下がった。だが、動かせば危ない。数日はここに置く」
廊下の騎士たちが顔を見合わせる。
「王子への報告が遅れます」
「俺が責任を取る」
寝台からヴァージが言った。
「隊長、しかし……」
「命令違反も、俺が引き受ける。おまえたちは医師の指示に従え」
年長の騎士は敬礼した。
若い騎士は何も言わず、握りしめていた手をほどいた。
ヴァージはセレナに向き直る。
「国境へ行け。帝国側にエドガーという医師がいる。昔、国境の流行病を一緒に調べた。俺の名を出せば、話だけは聞くだろう」
「あなたの命令書は?」
「原本はこの宿場の医師に封印して預ける。預けた日時と立会人を受領書に残し、あんたには写しを渡す。医師には、俺が戻らなくても記録を保管してもらう。正式な調査が始まれば、受領書を照合して原本を提出してもらう。俺が生きて戻れば、証言もする」
宿場の医師は騎士二人を立会人に呼び、封印の縁に印を押した。
受領書には文書の枚数、封蝋の紋章、預かった時刻を記した。
医師は控えを別の箱へしまった。
「調査官が来ても、名乗っただけでは渡さん。正式な照会状と受領書の番号を照合する」
ヴァージは頷いた。
原本を隠すだけでは足りない。
誰が、いつ、どの状態で預かったかを残して初めて証拠になる。
「命を狙われるかもしれません」
「分かっている。だが、知らなかったことにはできない」
セレナは深く頭を下げた。
許したわけではない。
彼が犯そうとした罪は消えない。
それでも、彼が今、別の道を選んだことまで否定するつもりはなかった。
出発を前に、宿場の医師は封書の受領書を二通書いた。
封の状態、受け取った日時、立会人の名前を記し、一通を保管し、もう一通をセレナへ渡す。
「原本を預かる以上、勝手に開くわけにはいかん。正式な照会があれば、受領した記録と照らして引き渡す」
ヴァージは左手で受領欄に署名した。
右腕はまだ動かせない。
「俺の言葉だけでは足りない」
「はい。だから記録を残します」
セレナは写しと受領書を別々に包んだ。
片方を失っても、もう片方が証拠の所在を示す。
怒りを形にするより先に、事実が消えないようにする。
それが今できる抵抗だった。
出発時、若い騎士が干しパンと水筒を差し出した。
「隊長の分だ。……あんたがいなければ、死んでいたのか」
「分かりません。ただ、傷を隠さず早く診せていれば、危険は小さかったはずです」
騎士は自分の袖を見た。
古い傷が、布の下に隠れていた。
「次は、俺も診せる」
「そうしてください」
国境の橋には、長い避難民の列ができていた。
帝国兵が槍を交差させる。
「王国からの通行は制限中だ。許可証は?」
「ありません。医師エドガー先生に、ヴァージ隊長からの紹介だと伝えてください」
「王国の騎士の名など、通行許可にはならん」
そのとき、列の後方で悲鳴が上がった。
少女が倒れ、母親が必死に呼びかけている。
「その子を日陰へ! 呼吸を確かめてください!」
セレナが駆け出そうとすると、槍が目の前を塞いだ。
「越境するな!」
「なら、そちらの医師を呼んでください。国境の線を越えなくても、助けは呼べます!」
「その声は誰だ」
橋の向こうから、灰色の外套を着た男が歩いてきた。
「私です。セレナと申します」
「エドガーだ。ヴァージの名を聞いた。事情は後だ。まず、その子を診よう」
男は兵士に指示し、母子を検査場所へ運ばせた。
橋の脇には手洗い用の水と石鹸が置かれている。
「ここでは、患者に触れる前に手を洗う」
「私も同じことを教えてきました」
「なら、話が早い」
エドガーはセレナに目を向けた。
「医療区画への同行は私の責任で認める。入国の正式な審査は後で受けてもらう。それでいいか」
「はい。ありがとうございます」
槍が上がった。
王国の騎士を救ったから、国境が無条件に開いたわけではない。
彼の紹介が医師を呼ぶきっかけになり、目の前の患者が、セレナに再び働く場所を与えたのだ。
セレナはオルドへ託した修道院の調査依頼を思い出した。
少年の証言はまだ確かめられていない。
ここで捕まれば、自分も少女も真実に近づけなくなる。
彼女は研究ノートを胸に抱き、橋を渡った。
その間には命令書の写しを挟み、まだ救えていない少女の名も記していた。
シーラ。
その名を消させないためにも、まずは目の前の命を救わなければならなかった。




