第十話 国境を越えた日、私は敵国の罪人になった
橋の中央には、白い線が引かれていた。
アルディス王国と帝国を分ける、たった一本の線だ。
セレナがそれを越えた途端、帝国兵の槍が交差した。
「名と身分を」
「セレナ・アルヴェイン。元アルディス王国王宮治癒師です」
書記官の羽根ペンが止まる。
「王宮の治癒師が、なぜ護衛もなく越境する?」
「王国を追放され、その後、王宮の騎士に拘束されました。命を狙われたため、国境を越えました」
「追放理由は?」
「王都の洗濯場で働く母親の娘、シーラという少女の診療記録を巡る争いです。私は罪を認めていません」
書記官は隣の兵士と目を合わせ、赤い印を木札に押した。
「身元審査が終わるまで仮収容だ。指定区画から出るな」
罪人と書かれてはいない。
それでも赤札を首に掛けられた人々は、帝国の町へ入ることを許されなかった。
橋の向こうでは、先ほど国境で倒れた少女が担架に乗せられていた。
第九話でセレナに同行を認めた軍医エドガーが、少女の呼吸を確かめている。
「待ってください。あの子の診察を――」
「収容者は動くな」
槍の先が胸元で止まった。
「その娘に近づけば、逃亡を図ったと報告する」
セレナは足を止めた。
ここで争えば、診察を受けるはずの少女まで連れ戻されかねない。
橋の向こうに、王国の旗が見えた。
追手が戻ってこない保証はない。
帝国にとっても自分は信用できない王宮の元治癒師だ。
帰れず、進めず、助けを求めることさえ許可が要る。
「彼女の移動は私が監督する」
エドガーが軍医の徽章を示した。
「入国許可ではない。医療区画への同行だけだ。私の責任で連れていく」
兵士は槍を下ろしたが、赤札は外さなかった。
医療区画と呼ばれた場所は、古い厩舎だった。
藁は湿り、入口には洗われていない桶が並んでいる。
奥では幼い子どもが泣き、誰かが何度も便所へ走った。
「娘を助けてください」
担架に付き添っていた母親が、セレナの袖を掴んだ。
「昨日から下痢が続いて、今朝から立てなくなったんです。まだ六つなのに」
少女は目を開けたが、声が出ない。
唇は乾き、指先が冷たい。
「名前は?」
「ミアです」
「ミア、聞こえる? 私はセレナ。お母さんと一緒にいるからね」
少女のまぶたがかすかに動いた。
セレナはエドガーとともに脱水の程度を確かめ、意識と呼吸を繰り返し確認した。
飲める状態かを慎重に見ながら、清潔な水と適切に調製した経口補水液を少量ずつ与える。
状態が悪化すれば、軍医の管理下で別の処置が必要になる。
「この水を飲ませても大丈夫ですか」
母親が指した桶の底には、細かな泥が沈んでいた。
「そのままでは使えません」
「でも、ほかには……」
エドガーが低く言った。
「煮沸用の薪は軍の炊事にも必要だ。水の追加申請は三度却下された」
「患者の数は報告していますか」
「毎朝な。昨日は下痢の患者が十一人だった」
「今日は?」
「数えていない。朝から増え続けている」
セレナは周囲を見回した。
母親が飲ませる水も、兵士が運ぶ水も、同じ桶に注がれている。
「まず患者の数と、いつから具合が悪いかを記録させてください。水をどこで受け取ったかも」
「帝国軍の診療簿に触れるつもりか?」
「触れません。私が別の紙に書きます。名前も本人が望まなければ記しません」
エドガーはしばらく黙り、やがて白紙を一束差し出した。
「監視付きだ。診断と処置の責任は私が持つ」
「はい」
セレナは礼を言った。
王国で奪われた仕事が、敵国の厩舎で少しだけ戻ってきた。
夕刻までに三十七人から話を聞いた。
症状のある者は下流の共同取水場を使った人に多かった。
一方、上流の井戸から配水を受けた兵舎では、今のところ報告が少ない。
ただし、住む場所も食事も違う。
水だけが原因とは言い切れなかった。
「この数字を見てください」
セレナは取水場所と発症時刻を並べた紙をエドガーに見せた。
「下流の水を飲んだ人に偏りがあります。まず取水場を確認したいんです」
「井戸の水を使えば解決すると?」
「まだ分かりません。だから、飲用水を一時的に切り替えて、その後の発症を比べます。食事や患者同士の接触も記録します」
エドガーは表を指でなぞった。
「一つ問題がある。上流の井戸だけでは、兵士と収容者の全員に行き渡らない」
「では優先順位を決めましょう。飲み水と患者の処置に使う分を先に確保して、洗い物には用途を分けた水を使います。容器も混ぜないように」
「軍の水を、王国から来た者に配分させろと?」
入口にいた水係の兵士が声を荒らげた。
セレナは首の赤札を握った。
自分に命令する権限はない。
「決めるのは軍医殿です。私は、患者が増える危険を伝えているだけです」
エドガーは水係に向き直った。
「蓋付きの桶はいくつある?」
「十二です」
「飲用専用にしろ。ほかの桶には用途を書け。取水場には見張りを置く。井戸水で足りない分は、燃料を調整して煮沸する」
「ですが、軍の炊事が遅れます」
水係はセレナを睨んだ。
「昨冬、王国軍に村を焼かれた兵士もいる。あの国の元宮廷人の言葉で、俺たちの食事を減らすんですか」
セレナは言い返せなかった。
自分はその村を焼いていない。
しかし、彼が怒る理由を知らないまま、正しさだけを掲げることもできなかった。
「食事を減らすためではありません。病人が増えれば、炊事をする人も倒れます。判断に必要な記録は全部残します。私の名前も」
「その遅れは私が司令部に説明する」
水係は敬礼して走り去った。
エドガーはセレナを見た。
「君の案が正しいと決まったわけじゃない」
「分かっています」
「それでも、何もしないよりは検証できる。命令の責任は私が負う」
セレナはその言葉を胸に刻んだ。
夜、ミアが母親の手を引いた。
「……おなか、すいた」
母親は泣きながら笑った。
セレナも息をついたが、安心しきることはできなかった。
下痢が止まったわけではなく、ほかの寝台では熱のある患者がうめいている。
赤札を掛けたまま、彼女は記録に時刻を書き込んだ。
「明日も調査を手伝ってもらう」
エドガーが言った。
「監視付きで、取水場までだ。正式な診療許可ではない」
「それで構いません」
「自由になりたくないのか」
「なりたいです。けれど、ここで自由を要求している間に、誰かが死ぬかもしれません」
軍医は返事をせず、記録の写しを一枚取った。
「君の身元審査には、私から経過を添えて報告する。結果は約束できない」
「もし却下されたら?」
「収容区画に戻る。場合によっては送還だ」
王国へ送り返されれば、再び騎士に捕まるだろう。
セレナは記録紙の端を握り締めた。
「それでも、調査は続けます」
「君は自分の命を軽く見ている」
「怖いです。でも、怖いからこそ、誰が何を決めたか残したいんです。私のことも、患者のことも」
「ありがとうございます」
セレナは礼を言った。
信じてもらえたのではない。
確かめる価値があると認められただけだ。
それで十分だった。
夜明け前、兵舎から伝令が駆け込んできた。
「軍医殿! 別の隊で三人倒れました!」
「下流の取水場を使った隊か?」
「いいえ。昨日から上流の井戸水だけです!」
エドガーの表情が変わる。
セレナは記録を開いた。
「発症した時刻と、昨日の食事を確認しましょう。三人は同じ場所で寝ていますか」
「二人は同じ寝室です。一人は別棟です」
「接触した人と、配給所も調べたいです」
エドガーは頷き、衛兵二人に命じた。
「彼女を検査所へ同行させろ。監視は解くな。聞き取りは許可する」
セレナは赤札を首に下げたまま、兵舎へ向かった。
王国では、彼女の記録は罪を作るために書き換えられた。
帝国では、その記録が初めて、誰かを救うための命令になった。
ただし、次の患者は、最初の仮説では説明できない。
セレナの背を、二人の衛兵が挟んだ。
自由になったわけではない。
上流の水を飲んだ患者が出た以上、自分の最初の見立ても十分ではなかった。
それでも、エドガーは新しい報告を隠さなかった。
「仮説が外れたら、次を調べる。そういう場所なら、働けます」
セレナが言うと、軍医は短く答えた。
「働けるかどうかは、これから決まる」
赤札はまだ首にあった。
だが彼女は初めて、それを外すために誰かの命を取引材料にしなくて済むかもしれないと思った。




