第十一話 帝国皇女は、石鹸の値段を尋ねた
「上流の井戸水しか飲んでいない兵士が、三人倒れた?」
国境砦の医務室で、軍医エドガーは伝令の報告を聞き返した。
セレナは首から下げた赤い木札を握った。
王国から逃れてきた彼女は、まだ帝国の仮収容者だ。
昨日、下流の取水場を疑って配水を切り替えたばかりだった。
「井戸水が原因ではなかったのでしょうか」
「それは、まだ分かりません」
セレナは発症した兵士の記録を並べた。
二人は同じ寝室、一人は別棟。
三人とも昨夜、同じ炊事場で夕食を受け取っていた。
しかし食べた物は全員同じではない。
「下流の水に問題がある可能性は残っています。でも、別の経路もある。食事、手洗い、患者との接触を分けて調べたいです」
「全部を調べる人手はないぞ」
「だから、まず発症時刻と共通点だけでも」
エドガーは短く頷いた。
「診断と軍への命令は私が出す。君は監視付きで聞き取りを続けろ」
そのとき、廊下が騒がしくなった。
泥のついた旅靴のまま、一人の少女が医務室へ入ってきた。
年の頃は十七、八。
護衛が二歩後ろを歩き、将校たちが慌てて膝をつく。
「アーデリア殿下!」
帝国第二皇女アーデリアは、寝台の兵士たちを見渡したあと、セレナの手元の記録に目を止めた。
「あなたが、王国から来た治癒師?」
「セレナと申します。ただ、今は診療の許可を持っていません」
「では、その紙は?」
「患者の話を聞いた記録です。私の推測が間違っていないか、確かめるためのものです」
皇女は一枚目と二枚目を見比べた。
「最初の考えと違う患者が出たから、調べ直しているのね」
「はい」
「いいわ。間違った可能性を隠す人より、ずっと信用できる」
将校が口を挟んだ。
「殿下、この女はアルディス王国の追放者です。軍の情報を集めている疑いもあります」
「だから監視を付けているのでしょう。監視の記録も一緒に見せて」
皇女は一歩も引かなかった。
会議室へ移ると、アーデリアは配水表を机に広げた。
昨日の新規患者十一名、重症七名。
軍民合わせて四十六名が治療を受けている。
「配水を変えて、患者は減った?」
「まだ判断できません」とエドガーが答えた。
「症状が現れるまで時間差があります。上流の井戸水を使った隊でも発症しました」
「なら、成果が出たと報告してはいけないわね」
皇女は記録を閉じた。
「ところで、石鹸一個はいくらで作れるの?」
あまりに唐突な質問に、将校たちが顔を見合わせた。
セレナも一瞬言葉を失った。
「……材料と製造数によります。ベルナでは職人ダンと、庶民が買い続けられる値段を目指しました」
「一度買える値段と、使い続けられる値段は違う?」
「はい。食費を削らなければ買えないなら、病気を防ぐために別の健康を損ないます」
「水がなければ、石鹸だけ渡しても洗えない」
「そのとおりです」
皇女は指先で机を叩いた。
「では百の村に一年間配るには、いくら必要?」
「今は答えられません。人口も水の量も輸送費も、村によって違います」
財務担当の将校が鼻を鳴らした。
「費用も分からず、軍の物資を民間人に回せと?」
「回せとは申し上げていません。必要な量を調べてから、続けられる範囲を決めたいのです」
「それなら、まず百の村ではなく一つの地区ね」
アーデリアは白紙を三枚出した。
「一枚目に費用。二枚目に人手。三枚目に、うまくいったかどうかの確かめ方を書いて」
セレナは三枚目に、手洗い設備を使えた世帯、診察までの待ち時間、新しく症状を訴えた人数を書いた。
「死亡者数は?」
「必要です。ただ、短期間で人数が少なければ偶然にも左右されます。数字がよく見えるものだけ選ぶべきではありません」
「石鹸を使わなかった人の数も要るわね」
セレナは顔を上げた。
「なぜですか?」
「配って終わりにしたら、誰も使わなくても成功したことになるでしょう」
その答えに、セレナは思わず笑みをこぼした。
午後、皇女はエドガーとともに収容区画を歩いた。
昨日、セレナが補水を手伝った六歳のミアは、母親の膝にもたれていた。
まだ顔色は悪いが、呼びかけにはしっかり答えられる。
「お名前は?」
「ミア」
「お水は飲めた?」
「うん。でも、お母さんの分がなくなるのが嫌だった」
母親が慌てて頭を下げた。
「私の分はいいんです。娘だけでも……」
皇女は返事をせず、配水係の兵士を呼んだ。
「飲用水は、患者と付き添いの家族にどう配っているの?」
「患者優先です。家族は残りがあれば」
「家族が倒れたら、誰が子供の面倒を見るの?」
兵士は答えられなかった。
アーデリアはエドガーを見た。
「配水の優先順位を、付き添いの人数も含めて見直して。軍の水を無制限に出せと言っているのではないわ。必要量を数えてほしいの」
「承知しました」
ミアの母親が何度も礼を言う。
皇女は首を振った。
「まだ水は増えていないの。礼は、ちゃんと届いてからにして」
夕方、会議室に戻ると、補給将校が見積書を突き返した。
「倉庫を病院に改修する? 新しい建物など認められません。しかも責任者は王国の追放者です」
「私も新築は求めていません」
セレナは窓の外を指した。
砦の向こうに、使われなくなった穀物倉庫がある。
「雨漏りを直し、飲み水と汚れた布の動線を分けられれば、今の医務室より多くの人を診られるかもしれません。ただし、実際に使えるかは調べなければ」
「修繕費は誰が出す」
「三か月の試験事業として、皇女府の予備費から上限を設けるわ」
アーデリアが答えた。
「軍の物資を勝手に流用しない。支出は公開し、医療上の判断はエドガー軍医が監督する。それでも反対?」
将校は唇を噛んだ。
「……失敗した場合は」
「失敗も報告書に書く。中止する条件も最初に決めるわ」
その場にいた誰も、すぐには賛成しなかった。
それでも、反対するためには具体的な数字が必要になった。
最後にアーデリアは、セレナの首の赤札を指さした。
「それを外してあげたいけれど、私の一存ではできないのね」
エドガーが答える。
「身元審査は継続中です。王国から引き渡し要求があれば、別途審査が必要になります」
「なら、身分は変えない。監視を付けたまま、試験事業の協力者として活動を許可する」
「殿下、前例がありません」
「前例がないことと、危険がないことは違います」
アーデリアは言葉を継いだ。
「軍医長、患者の診療責任はあなたに置く。資材の出納は砦の補給官が毎週監査する。セレナが持ち込む手順は、実施前に医師と看護人の双方が読んで、反対意見も残す」
「殿下。王国の追放者が計画の中心にいると知れれば、宮廷で反発が起きます」
「だから名前ではなく成果で審査するの。三か月で感染の疑い例、受診までの時間、費用を比べる。改善がなければ私の責任で止める」
セレナは皇女を見た。
味方になったのではない。
失敗したときの責任を負う条件を、皇女は今、皆の前で引き受けていた。
「だから三か月で検証するの。前例の代わりに記録を残しましょう」
セレナは赤札に触れた。
自由になったわけではない。
王国の追手が来れば、明日にもすべてが終わるかもしれない。
「一つ、お願いがあります」
「何?」
「もし私が連れ戻されても、病院が閉まらないようにしたいのです。私だけが知っている仕事にしたくありません」
アーデリアはしばらくセレナを見つめた。
「あなた自身の身の安全より、病院の先のこと?」
「怖くないわけではありません。でも、私一人を追放すれば医療まで消える仕組みは、もう作りたくない」
皇女は書類の余白に一行を書き足した。
『看護人の育成および手順書の作成を試験事業に含む』
「これでどう?」
「……ありがとうございます」
「お礼は三か月後。患者が減ったか、助けを求めやすくなったか、その両方を教えて」
帝国の公印が押された許可証が、セレナの前に置かれた。
『国境共同施療院・設立準備許可』
ただし末尾には、小さく条件が記されている。
『王国からの引き渡し要求があった場合、本許可を再審査する』
セレナはその一行を指でなぞった。
期限は三か月。
自由も保証されていない。
それでも、病人を寝かせる場所と、人を育てるための時間を手に入れた。
窓の外では、使われなくなった倉庫の屋根が夕日に照らされていた。
明日、まず雨漏りを調べよう。
そして、自分がいなくても誰かを助けられる病院を作ろう。




