第十二話 治癒魔法を使わない病院が完成した
「ここに病人を寝かせるのか?」
倉庫の扉を開けたエドガーが、思わず足を止めた。
天井には雨漏りの染み。
床板は一歩踏むたびに軋み、壁際には穀物の粉が白く積もっている。
窓の下を鼠が走り抜けた。
「今のままでは、一人も寝かせられません」
セレナは皇女アーデリアから預かった許可状を取り出した。
三か月の試験事業。
軍医の監督下で、使えるのは古い倉庫と限られた予算だけだ。
「屋根、床、給水、洗濯。それから、汚れた物を清潔な物から離す場所が必要です」
「全部は無理だ。寝台を二十用意するだけでも苦しい」
「では、十二から始めます」
エドガーは目を丸くした。
「患者を減らすのか?」
「受け入れられる人数を正しく数えるんです。汚れた寝具を替えられない寝台は、空いているのと同じではありません」
セレナは帳面の二十という数字を消した。
王宮では、数字を大きく書くほど功績になる。
けれど、この町で見栄を張れば、その代償を払うのは患者だった。
翌朝、集まった大工の棟梁は許可状を一瞥しただけで言った。
「王国の追放者のために働けと?」
「この町の病人のために、です」
「口だけなら誰でも言える。皇女様の約束で、俺たちの賃金が払えるのか」
セレナは支出表を差し出した。
屋根の補修材、床板、窓枠。
作業ごとの金額と支払日を記してある。
「支払いが遅れたら、工事を止めてください。その条件も契約に入れます」
「……ずいぶん変わった治癒師だな」
「治す場所がなければ、治療も始められませんから」
棟梁は紙を二度読み、ようやく手を差し出した。
工事は順調ではなかった。
屋根を剥がせば腐った梁が見つかり、床を直せば下から湿気が上がった。
寝台を並べるはずの部屋は、いつまでも木屑の匂いが消えない。
三日目の夕方、配給係が古い寝具を運んできた。
「十二床分だ。これで足りるな?」
布の端には、乾ききらない湿り気があった。
「洗い替えは?」
「二組だけだ。軍でも不足している」
「洗濯場を先に作らせてください」
「寝台の部屋が一つ減るぞ」
セレナは一瞬だけ迷った。
門の外には、診察を待つ人がすでに集まり始めている。
寝台を減らす決断は、その人々に待ってもらうということだった。
「それでも、必要です」
エドガーが横から図面を取った。
「東の作業室なら風が通る。雨除けを付けて、洗った布を乾かそう。寝台は当面十一だ」
セレナは新しい数字を書き込んだ。
十二から十一へ。
開院が近づくほど、できることの少なさが身に染みた。
開院二日前、別の問題が起きた。
「診断もできない者に患者の記録を書かせるなど、認められん」
視察に来た帝国の医師が、看護人用の観察票を机に叩きつけた。
「呼吸が苦しい、熱が高い。それを素人が判断するのか?」
「診断は医師が行います。看護人には、見たことと時刻を残してもらうんです」
「読み書きも満足にできない者がいると聞いたぞ」
「だから印を使います。水を飲めたか、呼びかけに応じるか、息づかいが変わったか。変化があれば医師を呼ぶ。それ以上の判断は任せません」
医師は鼻を鳴らした。
「治癒魔法を失った女が、医療の仕組みを語るとはな」
胸の奥に、王宮の冷たい廊下が蘇った。
シーラの記録を守ろうとした夜も、同じように嘲笑された。
だが、セレナが答えるより先に、入口で道具を磨いていた若い看護人が口を開いた。
「先生がいない夜、患者さんが苦しそうになったら、私たちは何をすればいいんですか」
名をイーナという。
まだ研修も受けていない、宿屋で働いていた娘だ。
医師は黙った。
「その問いに答えるための紙です」
セレナは観察票を机に戻した。
エドガーがそれを受け取り、しばらく眺めた。
「三か月の試験だ。問題があれば止める。だが、試す前から取り上げる理由もない」
医師は不満げに去った。
勝ったとは思わなかった。
明日、本当に患者を守れるかどうか。
それだけが問われている。
開院前夜、セレナはイーナと一緒に建物を歩いた。
受付から病室まで担架を運ぶと、曲がり角で壁にぶつかりそうになった。
棚を移す。
廊下の灯りが足りない。
予備のランプを置く。
薬棚まで遠回りになる。
寝台の配置を変える。
「こんなに直しても、まだ間違いが見つかるんですね」
「見つかったのが、患者さんが来る前でよかった」
イーナは小さく笑ったが、病室の入口で足を止めた。
「夜中に誰かの具合が悪くなって、私が気づかなかったら……」
セレナは鐘を指さした。
「息苦しさが急に強くなる、呼びかけても反応が鈍い。そんな変化を見たら、鐘を二度鳴らして当直医を呼んで。迷ったときも呼んでいい」
「間違えて鳴らしたら?」
「呼ばなかったことを後悔するより、ずっといいわ」
イーナは鐘の紐を握り、二度だけ引いた。
乾いた音が廊下に響いた。
その夜、セレナは一人で看板を見上げた。
『国境共同施療院』
その下には、小さな文字がある。
『身分と国籍によらず、症状に応じて診察します』
自分を追放した王国の人間も、敵国の兵士も、同じ扉から迎える。
美しい言葉だ。
だが明日からは、それを守るために誰かと争わなければならない。
翌朝、最初に訪れたのは、帽子を胸に押し当てた老人だった。
「ここは帝国の病院だろう。王国生まれでも、診てもらえるのか」
「お名前を教えてください」
「……ハインツだ」
「ハインツさん。今、いちばんつらいことは?」
老人は何度か咳をし、やっと言った。
「夜になると、息が苦しくなる。国の名前を言ったら追い返されると思って、ずっと我慢していた」
イーナが国籍欄を探して手を止めた。
代わりに呼吸の様子と、症状が始まった時刻を聞き取る。
エドガーが診察し、急を要する徴候はないと判断した。
セレナは老人に、息苦しさが強まったらすぐ知らせるよう伝えた。
「追い返さないのか」
「病気は国境を選びませんから」
老人の肩から、わずかに力が抜けた。
昼には腕を切った少年、
夕方には長旅で疲れた母親が来た。
診察を待つ列は途切れず、洗濯場の布はなかなか乾かない。
治癒魔法の光が病室を満たすことはなかった。
その日の受診は二十七人。
「待ち時間が長すぎる。寝具も足りん」
帳面を閉じたエドガーは疲れた顔で言った。
「失敗ですね」
「いや。失敗を数えられるようになった。明日、直せる」
そのとき、病室の奥で鐘が二度鳴った。
イーナが駆けてきた。
「ハインツさんの呼吸が、昼の記録より速くなっています。声をかけても返事が遅いんです!」
エドガーはすぐに立ち上がった。
セレナは観察票を受け取り、変化が始まった時刻を確認する。
二人が処置を始める横で、イーナは震える手で灯りを持った。
怖くないはずがなかった。
それでも、鐘を鳴らすことだけは忘れなかった。
夜更け、ハインツの状態が落ち着いたあと、イーナは廊下の壁に背を預けた。
「私、何も治せませんでした」
「あなたが変化に気づかなければ、私たちは間に合わなかったかもしれない」
「……鐘を鳴らしただけです」
「その『だけ』を、誰でもできるようにしたいの」
セレナは新しい帳面を開いた。
手洗い。
観察。
報告。
明日から三十人の看護人を迎え、同じ手順を教える。
魔法の代わりになる奇跡などない。
ただ、一人の勇気を、次の誰かにも使える技術に変えていく。
窓の外で、夜明け前の風が看板を揺らした。
数日後、開院の報告をベルナへ届ける際、セレナはオルドに手紙を添えた。
帝国側の試験事業へ人を招くとしても、王国の町を空にするわけにはいかない。
ベルナの診療はガレスが責任を持ち、ダンは石鹸の製造を続ける。
ミナは薬草の調達を学ぶため、リゼは受付と記録を学ぶため、本人の希望を確かめたうえで期間を区切って派遣する案だった。
国境の通行許可と滞在資格はアーデリアの担当官が申請し、許可が出るまでは二人ともベルナに残る。
セレナは返事を待ちながら、新しい病院の夜間当番表を整えた。
病院は完成した。
けれど、病院を支える人々を育てる仕事は、まだ始まったばかりだった。




