第十三話 三十人の看護人と、一枚の手洗い表
開院二日目の朝、国境共同施療院の門前に三十人が集まった。
ベルナからの派遣はまだ許可待ちで、今日の研修は帝国側の応募者とイーナたちで始める。
宿屋の娘、畑仕事をしていた男、戦争で夫を亡くした女性。
服装も年齢もばらばらで、全員が医療の仕事を経験したわけではない。
「三十人も、どうやって集めたんですか」
イーナが小声で尋ねた。
「開院前から町の掲示板と配給所で募集していたの。皇女殿下が半日勤務の賃金を認めてくださったから、家族の世話がある人も応募できた」
ただし、応募者全員をすぐ患者のそばに立たせるつもりはない。
今日から数日間は、実習と確認試験を重ねる。
合格するまでは、経験者の付き添いなしに病室を任せない。
イーナは最前列に立った。
昨日、ハインツの呼吸の変化に気づき、鐘を鳴らしたばかりだ。
だが、人に教える自信などなかった。
セレナは黒板に三行を書いた。
『手を清潔にする』
『見たことと時刻を記録する』
『危険な変化を見たら医師を呼ぶ』
「治療や診断は医師の仕事です。皆さんには、患者のそばで起きたことを見逃さない役目をお願いします」
腕組みをしていた男が言った。
「たった三つか。思ったより簡単だな」
「では、試してみましょう」
セレナは男に、汚れた寝具を入れた籠を運んでもらった。
そのまま食事を配る盆を差し出す。
男が盆に手を伸ばした瞬間、イーナが「あっ」と声を上げた。
「その手で、患者さんの食器に触るんですか?」
男は自分の手を見た。
目に見える汚れはない。
「布を運んだだけだぞ」
「だからこそ危ないことがあるんです」
セレナは石鹸を取り出した。
ダンの工房で作られ、使用に問題がないか確認を重ねた品だ。
「目に見えない汚れもあります。病気の原因をすべて説明できなくても、患者から患者へ運ばないためにできることはあります」
流水で手を洗い、清潔な布で拭く。
汚れた布を扱った後、患者に触れる前、食事を配る前。
必要なのは朝夕二回の儀式ではなく、作業が変わるたびの判断だった。
だが、手洗い場には桶が二つしかない。
「三十人が毎回洗えば、水が足りなくなるぞ」
エドガーが指摘した。
「飲み水を削ってまで洗うわけにはいきません」
セレナは頷いた。
そこで水運びの当番を決め、手洗い場に注ぎ口のある容器を置いた。
汚れた水へ皆が手を浸す方式をやめ、少量ずつ流して使う。
飲用水とは保管場所も分けた。
「足りない設備を、気合いで補うのはやめましょう。足りなければ報告してください」
午前の実習は、予想以上に難しかった。
患者役の名前を取り違える者。
手を洗った直後に汚れた籠の取っ手を握る者。
熱があると書いても、何時に確かめたかを記さない者。
「覚えきれません」
年配の女性が肩を落とした。
「覚えきれないから、紙に残すんです」
セレナは壁に一枚の大きな表を貼った。
作業の順番と確認欄を並べ、手洗い場と汚れた布の籠には異なる印を付けた。
「字を読むのが苦手な人もいます」
イーナが言う。
「どうしたらいいと思う?」
イーナは迷った末に、桶と手の絵を描いた。
汚れた布の籠には赤い紐を結ぶ。
「これなら、急いでいても分かるかもしれません」
先ほどの男が表を見て頷いた。
「字は遅いが、絵なら見間違えない」
セレナはその案を採用した。
ただし、患者の名前と観察時刻は絵では代えられない。
書けない人には読み上げてもらい、記録係が復唱して書き、本人が内容を確かめる手順にした。
昼過ぎ、実習室の外から鐘が二度鳴った。
昨日、イーナが引いたのと同じ音だった。
「ハインツさんですか?」
イーナは顔色を変えた。
「違う。西の病室だ」
エドガーが走り出す。
実習中の三十人は、誰も動けなかった。
セレナは一度だけ振り返った。
「訓練は中断します。皆さんは通路を空けて。許可なく病室へ入らないでください」
病室では、入院中の女性が激しく咳き込み、息をするたび肩を持ち上げていた。
付き添いの看護人が観察票を差し出す。
「正午までは会話ができました。十三時を過ぎてから返事が短くなって、今は横になるのも苦しいと」
「よく記録してくれた」
エドガーは診察を始め、必要な処置を指示した。
セレナは器具を運び、別の患者を静かな部屋へ移すよう手配した。
しばらくして女性の呼吸が落ち着くと、廊下に立っていた研修生たちから息が漏れた。
「鐘を鳴らしたのは、誰ですか」
イーナが尋ねた。
付き添いの看護人が手を挙げた。
「昨日、あなたが鳴らしたのを見ていたから。迷ったけれど、呼んでいいと思えた」
イーナは何も言えなかった。
昨日は自分の仕事を、鐘を鳴らしただけだと思っていた。
その音が、別の誰かの手を動かしていた。
夕方、三十人のうち七人がセレナを訪ねてきた。
「明日からは来られないかもしれません」
畑仕事をしていた男が帽子を握る。
「家の収穫を放っておけない。半日なら来られるが、丸一日は無理だ」
別の女性は、家族が病人に近づく仕事を怖がっていると打ち明けた。
セレナは七人の名前を消さなかった。
「勤務時間を分けましょう。ただし、短い当番でも同じ訓練を受けてください。怖いと思うことも、隠さず相談してほしい」
「そんなに都合よく人を使って、回るのか?」
エドガーは厳しい顔だった。
「今のままでは回りません。だから、必要な人数と時間を記録します。無理な当番を組んで、患者の前で倒れる人を出したくないんです」
アーデリアが視察に訪れたのは、その話の最中だった。
皇女は手洗い表と勤務表を見比べた。
「人を増やせば終わり、ではないのね」
「人が続けられなければ、病院も続きません」
「追加の賃金は、無条件には認められないわ」
「承知しています。三か月の試験期間中に、勤務時間と患者の状態の変化を記録します。その結果で判断してください」
アーデリアは少し考え、空白の欄を指さした。
「これは何を書く場所?」
「失敗したことです」
「皇宮に出す書類なら、誰も書きたがらない欄ね」
「ここでも同じです。だから、書いた人を責めるためには使いません」
その夜、イーナは最初の一行を書いた。
『手洗いの後、汚れた取っ手に触れた。
洗い直した。
明日、取っ手の位置を変える』
セレナは翌朝、実際に籠の置き場を変えた。
数日後の確認試験で、三十人全員が一度に合格したわけではなかった。
記録が不十分な者には再実習を用意し、病室で働く者には経験者を付けた。
イーナも、患者の呼吸の変化を報告する実技で一度言葉に詰まった。
「昨日より息が速いです」
「いつから?」
「……それを、聞いていませんでした」
イーナは自分で不合格の印を付けた。
翌日の再試験では、患者役の名前を確かめ、観察した時刻を告げ、相手が復唱するまで待った。
「合格です」
セレナが言うと、イーナは笑わず、深く息を吐いた。
「これで、もう間違えませんか」
「いいえ。間違える日はあります。だから、誰かが気づける仕組みを残すんです」
窓の外では、薬草を積んだ荷車が一台、施療院の門を通った。
荷札を確認したミナが、納品予定の帳面に印を付ける。
セレナはその光景を見て、手洗い表の隣に新しい紙を貼った。
『不足した物は、隠さず記録する』
人の手も、水も、薬も、足りなくなる日は必ず来る。
それでも誰か一人の記憶や善意に頼らず、次の人へ仕事を渡せる病院にしたい。
イーナが新しい患者を迎えに行く。
まず名前を聞き、手を洗い、前の担当者から観察票を受け取った。
その動きを見て、セレナは初めて、教えたものが自分の手を離れていくのを感じた。




