第八十四話 救った命の値段
薬師ニナが数え直した薬瓶は、掲示された必要数の半分しかなかった。
行列の先頭には熱の高い子を抱いた母親、その後ろには慢性の痛みを抱える老人がいる。
「先に並んだのは私だ」
と老人が声を荒らげた。
ニナは頭を下げながらも、先着順ではなく緊急度で渡すと説明した。
「あなたの薬を奪うのではありません。今日必要な量と、次に受け取れる時刻をここに書きます」
救われた子の母親に請求書が届いた。
薬の原料代だけではない。
煮沸の燃料、瓶を洗う人の賃金、夜間に働いた看護人の手当。
母は硬貨を並べて泣いた。
「助かった命の値段ですか」
セレナは首を振った。
「これは治療に必要だった費用です。命に値段をつけたものではありません誰がどこまで負担するかは、患者に分かる言葉で説明します」
共同基金が費用の一部を負担する制度があると伝えても、母は施しを受けたように俯いた。
セレナは基金の帳簿を開き、商人も職人も少しずつ負担していることを見せた。
母親の名はレアだった。
彼女の息子は高熱で三日間眠り、目を開けたとき最初に「お腹がすいた」と言った。
レアはその声を聞いて泣いた。
ところが翌朝、会計係から渡された紙には、見たこともない額が並んでいた。
彼女は針仕事で暮らしている。
二十日働いても払えない。
助かった喜びのすぐ後に、息子を病院へ連れてきたことを後悔しそうになった。
セレナは会計係を責めなかった。
燃料も薬瓶も、どこからか無限に湧くわけではない。
「誰が払うかを決めないまま無料だと言えば、薬を作る人に負担を押しつけるだけになる」
薬師ニナは空の棚を指した。
必要な薬草は前月より値上がりし、洗浄用の薪も不足していた。
しかも急患が来れば、決めていた配分を変更しなければならない。
議会の小委員会では、商人代表が反対した。
「基金を作れば、金のある者ばかり負担する」
ニナは一枚の表を広げた。
治療費の未払いで患者が来院を遅らせ、重症化してから搬送されると、結局はより多くの薬と人手が必要になる。
数字は小さな病院の半年分しかなく、全国に当てはめることはできない。
それでも議論の出発点にはなった。
「無料にしたら、軽い怪我でも人が押しかけるぞ」
と議員が言った。
セレナは答えた。
「だから診察の順番は必要です。でも、お金を持っている順番ではありません」
重症度の判定は医師と看護人が共同で行い、判断の理由を記録する。
異議があれば別の担当者が見直す。
慢性の病を持つ人には、薬が切れる前に再診日を知らせる。
仕組みは複雑になるが、曖昧な善意に頼るより確かだった。
採決前、レアが発言を求めた。
彼女は議員たちの前で硬貨を一枚ずつ机に置いた。
「払える分は払いたいです。でも、息子の命と引き換えに家を売れと言われたら、私は次に病気になったとき病院へ来られません」
議場に沈黙が落ちた。
商人代表はしばらくして尋ねた。
「それなら、収入が戻ったら少しずつ返せる仕組みはどうだ」
レアは頷いた。
ただしセレナは、返済を条件に救急治療を認める制度にはしないと明言した。
議案には、緊急治療の費用を共同基金で立て替えること、所得に応じた負担、薬品価格の公開、四半期ごとの監査が盛り込まれた。
議決はぎりぎりだった。
ニナは可決を喜ぶ前に、翌朝の薬の注文書を書き始めた。
制度は紙に署名した瞬間ではなく、必要な薬が患者の手に届いたときに初めて意味を持つ。
レアは帰り際、息子の小さな手を見せた。
「この子、大きくなったら薬を作る人になりたいって」
ニナは笑った。
「それならまず、元気になって学校へ行かなくちゃ」
制度が決まった翌日、薬局の前には昨日より長い列ができた。
無料になったと聞いた人々が、遠い村からも集まってきたのだ。
ニナは青ざめた。
「今日の分が足りません」
セレナはまず、重症患者の診察を優先し、軽症の人には別の日の予約票を渡すようにした。
だが予約票だけでは、遠くから来た人の旅費は戻らない。
村ごとに巡回診療日を設ける必要があった。
薬草商の老人が、値下げを求められて怒った。
「畑を守る人間の暮らしも考えてくれ」
ニナは老人の手を見た。
爪の間に土が入り、指先には冬のひび割れがある。
薬を安くするために生産者を追い詰めれば、来年の薬草は育たない。
議会は最低購入量を保証する代わりに、品質検査と価格の公開を求める契約を結んだ。
レアは基金の申請書を前に困っていた。
文字が読めないのだ。
会計係は忙しそうに「ここに名前を」
と指した。
セレナは書類を簡単にし、口頭で説明して代筆できるようにした。
誰が代筆したかを記録し、本人が内容を理解したことを確認する。
制度を作るだけでなく、使える形にすることが必要だった。
一か月後、基金の最初の報告が貼り出された。
支出は予想より多く、議会には不満の声も上がった。
しかし重症化してから運び込まれる患者が減り始めたという現場の報告もあった。
まだ短い期間で、制度の成功を断言することはできない。
セレナは数字の横に、患者の声を匿名で掲示した。
「早く来てよかった」
「薬を受け取る日が分かるようになった」
ニナは夜遅く、薬瓶を洗いながら言った。
「救った命の値段を聞かれたら、まだうまく答えられません」
セレナは隣で布を絞った。
「答えを急がなくていい。明日も薬を作れるようにすることから始めよう」
レアの息子が退院する日、会計係は新しい説明書を渡した。
治療費の内訳、基金から支払われた額、本人の負担、問い合わせ先。
レアはすべてを理解できたわけではなかったが、分からないところを尋ねると、係は椅子を引いて丁寧に説明した。
以前なら、その時間すらなかった。
病院の扉を出ると、息子が手を引いた。
「お母さん、今日は空が青いね」
レアはようやく、請求書ではなく空を見上げた。
採決の翌週、共同基金の窓口に最初の苦情が届いた。
無料診療の対象から外れた荷運び人が、薬代を払えば家賃が残らないと訴えたのだ。
ニナは収入の証明を求めかけ、彼が避難の際に書類を失ったことに気づいた。
暫定給付と後日の審査を分ける手続きを設ける。
セレナは議会への報告書に、救えた患者の数だけでなく、窓口で帰された人の数も記載した。
制度は作った日ではなく、断られた人が現れた日に試される。
採決後、薬師ニナは基金の帳面に「未払い」
と書かれた欄を見つめた。
救済を決めたからといって、費用が消えるわけではない。
調達係は翌月の納入量を確約できず、議員たちは追加支出を渋っている。
ニナは在庫が減った時点で早めに報告する仕組みを求めた。
「足りなくなってから、患者に謝るのはもう嫌です」
セレナはその言葉を予算委員会の議事録に残した。
議会でニナは空瓶を机に置いた。
「無料にすると決めるだけでは、明日の薬は増えません」
セレナは優先順位の公開、原料の共同調達、費用の監査、収入に応じた負担を提案した。
反対派は「際限なく金が出ていく」
と言う。
彼女は頷いた。
「だから支出と効果を公開します。それでも、支払えない人を門前で帰す仕組みには戻しません」
採決は僅差だった。
病院に戻ると母親が薬を受け取っていた。
セレナはその姿を見て、ようやく息をついた。




