第八十二話 少女が消された日
シーラは母の手を握って証人控室へ入った。
卓上の死亡記録には自分の名前があり、横に朱色の印が押されている。
「生きている私が、死んだ私を証明するの?」
母はすぐに答えられなかった。
シーラは紙を見続けた。
紙に押された印が、自分の息より重いものとして扱われてきたのだ。
セレナは紙を裏返さずに言った。
「あなたの話を聞く前に、この紙を正しいことにする人はいない」
証言は途中で止められること、母が同席できること、答えたくない質問は裁判官に伝えられることを、一つずつ説明した。
母が保管していた病衣の縫い目から、青い糸で結ばれた小札が出てきた。
札には搬送番号がある。
セレナは見覚えがあったが、記憶だけで断定しなかった。
旧病棟の搬送簿と照合すると、同じ番号が「地下病棟へ移送」
と記されていた。
その日付は死亡宣告の翌日だった。
ただし番号の一致だけで本人と確定できないため、病衣の特徴と当直記録も調べることになった。
「死んだ人を運んだことになっている」
と書記官が呟く。
シーラは首を振った。
「運ばれたのは、私です」
証言の日の朝、シーラは食事に手をつけなかった。
母親が小さく切ったパンを皿に置いても、少女は窓の外を見ている。
「怖いなら、今日はやめてもいいのよ」
母の声は震えていた。
シーラは頷きかけ、首を振った。
「今日やめたら、もう話せなくなる気がする」
セレナはその言葉を急かさなかった。
証言するかどうかは、少女自身が決めることだ。
廊下では護衛の足音が行き来していたが、控室には母娘と、必要な職員しか入れなかった。
書記官は病衣の小札を薄い紙の上に置き、搬送簿の番号と照合した。
番号の末尾が一文字だけ違う。
「これでは一致しません」
と若い係が言う。
セレナも同意した。
記憶の中では同じ札に思えたが、記録はそうではない。
旧病棟の規則を調べると、末尾は搬送時に付け直す識別符号で、番号の本体とは別だと分かった。
さらに札の青い糸と、当時の物品台帳にある「地下病棟用」
の糸の記載が一致した。
決定的な証拠ではない。
しかし、複数の記録が同じ方向を指していた。
法廷で弁護人は尋ねた。
「あなたは運ばれた夜、誰が顔を見せたか覚えていますか」
シーラは「いいえ」と答えた。
「それでは、王子が命じたと知っているわけではありませんね」
少女の唇が震えた。
母が立ち上がろうとすると、裁判官が静かに手を上げた。
シーラは水を飲み、言った。
「誰が命じたかは知りません。でも、私を死んだことにした紙があるのは知っています」
裁判官は証言の範囲を確認し、そのまま記録させた。
休憩時間、シーラは廊下の隅で泣いた。
「みんな、私が王子を悪い人だと言うのを待っていた」
セレナは隣に座った。
「あなたは誰かの期待どおりに話すために来たんじゃない。自分が経験したことを話すために来たの」
少女は袖で目を拭いた。
「知らないことは、知らないって言っていいんだよね」
セレナは頷いた。
証言を終えた後、母親は死亡記録の写しを見せてもらった。
そこには病名と死亡時刻が記されていたが、娘が好きだった歌も、怖がりだったことも、どこにも書かれていない。
「この一枚の紙で、あの子がいなくなったことにされたんですね」
母は怒鳴らなかった。
ただ、娘の手を強く握った。
夜、シーラは自分の名前を新しい紙に書いた。
何度も練習していた文字は少し右へ傾いた。
「これも記録に残る?」
と聞く。
セレナは微笑んだ。
「これはあなたのものよ。残したいなら、あなたが決めていい」
少女は紙を折り、胸元の小袋へ入れた。
その日の夜、母親はシーラの髪を梳きながら、病院から死亡を告げられた日を話した。
「私は泣くこともできなかったの。あなたがいないなら、何をしたらいいのか分からなくて」
シーラは鏡の中の母を見た。
「私は地下の部屋で、ずっと帰りたいと思ってた」
二人はそこで初めて、同じ日の別々の記憶を言葉にした。
母は何度も謝ったが、シーラは首を振った。
「お母さんが悪いんじゃない。私を探してくれたでしょう」
翌日の補充尋問では、病棟の看護人が証言した。
彼女はシーラの顔を覚えていたが、当時は死亡記録を見せられず、搬送先も知らされていなかった。
「私が確かめようとすると、担当から外されました」
弁護人は、看護人が別の少女と取り違えた可能性を尋ねた。
看護人は「あります」
と答え、続けた。
「だから顔だけではなく、病衣の修繕記録を持ってきました」
袖口に縫い直しの跡があり、当時の修繕帳にはシーラの病棟番号が残っていた。
セレナは証拠の束を見て、恐ろしくなった。
小さな紙切れが一枚失われていれば、少女の話は疑いの中に埋もれていたかもしれない。
だからこそ、証言する本人だけに真実を背負わせてはいけない。
記録の保存、証人の保護、訂正の手順。
それらは大人が担うべき責任だった。
シーラは法廷の出口で弁護人に会った。
相手は目をそらさず、「厳しい質問をしてすまなかった」と言った。
少女は少し考えて答えた。
「私の話を疑うのは仕事なんですね。でも、私が怖がっていたことも覚えていてください」
弁護人は深く頭を下げた。
眠る前、シーラは母親に尋ねた。
「私が証言しても、全部が元に戻るわけじゃないんだよね」
母はしばらく黙り、それから答えた。
「戻らないこともあるわ。でも、これからのことは一緒に決められる」
少女は小袋の中の紙を取り出し、そこに明日したいことを書き足した。
庭を歩くこと。
温かいパンを食べること。
母と買い物へ行くこと。
裁判の記録には載らない、小さな未来の予定だった。
証言台でシーラは何度も水を飲んだ。
廊下の匂い、車輪の音、誰かが「名前を呼ぶな」と言った声。
思い出せない部分もあった。
「分からないことは分からないと話していい」
と裁判官が告げると、少女の肩から力が抜けた。
弁護人が記憶の曖昧さを指摘したとき、母が立ち上がりかけた。
だがシーラは自分で答えた。
「全部は覚えていません。でも、私はあの日からずっと生きています」
傍聴席に拍手は起きなかった。
誰も、その言葉を騒ぎで消したくなかった。
翌日の証拠整理では、シーラが覚えていた鐘の音と、当夜の医療院の当直簿が照らし合わされた。
鐘が鳴った時刻に記録された薬の搬出は確かに存在した。
ただし、そこに王子の名はなかった。
ユリウスは「証言が確かめられた部分と、まだ分からない部分を分けよう」と告げた。
シーラは悔しそうに唇を結んだが、母親がその手を握ると、ゆっくり頷いた。
「知らないことまで知っているふりは、したくない」
その一言が、大人たちの記録の取り方を変えた。
証言を終えたシーラは、廊下で待っていた母に「私の話、ちゃんと伝わったかな」と尋ねた。
母は「分からないところは分からないと言えた。それが一番大切だった」
と答える。
書記官は調書を読み返し、少女自身が見たことと、後から大人に聞いたことを別々に記した。
シーラは初めて、自分の記憶が誰かの都合で書き換えられずに残るのだと感じた。
控室を出ると、母親はシーラに外の空気を吸わせた。
少女は街路を行く荷車の音に一瞬身をすくめた。
地下病棟へ運ばれた夜を思い出したのだ。
母は抱き寄せようとして、まず「触ってもいい?」と尋ねた。
シーラは小さく頷いた。
自分の体と記憶を自分で決める。
その当たり前のことを、二人はこれから少しずつ取り戻していく。




