第七十五話 消えた証人を探せ
元院長の護衛が戻ったとき、荷車には誰も乗っていなかった。
関所の帳簿には「身元不明の老人」
とある。
ガレスはすぐに追撃を命じず、車輪の跡と通行時刻を確かめた。
追手が偽の情報を流している可能性もある。
河原に残る靴跡は一人分だった。
「連れ去られたなら、こんな歩き方にはならない」
と斥候が言った。
廃屋で見つかった元院長は、泥だらけで座っていた。
彼は追手を見かけ、自分から隊列を離れたのだと説明した。
ガレスは叱った。
「一人で動けば、あなたも護衛も危険になる」
元院長は反論せず、護衛に謝った。
勇気だけでは人を守れないことを、彼は遅れて学んでいた。
シーラは院長を前に、長い間黙っていた。
「あなたは私が生きていると知っていたの?」
元院長は頷いた。
「知っていた。怖くて、助けなかった」
少女の手が震えた。
セレナは間に入ろうとしたが、シーラが首を振った。
「私が聞きたいの」
院長は許しを求めなかった。
知っていることを証言し、処罰を受けるつもりだと告げた。
シーラは「まだ許せない」と答えた。
その言葉を誰も訂正しなかった。
セレナは少女の肩に上着をかけた。
救われた命が、すぐに傷つかなかったことになるわけではない。
検問所の名簿には、元院長の名がなかった。
代わりに「身元不明の老人」
と記されている。
護送された時刻と薬の処方記録を重ねると、同じ日に持病の発作を起こしていたことが分かった。
セレナは救出隊に、まず薬と医師を同行させるよう頼んだ。
証人を連れ戻す前に、生きて帰してもらわなければならない。
証人が消えた部屋には、争った形跡よりも手つかずの薬が残っていた。
消えた証人の寝台には、逃走の痕跡がなかった。
残された靴だけが泥で濡れている。
シーラは靴底の赤土を見て、旧街道の診療所を思い出した。
追手より先にそこへ着かなければならない。
地下書庫の階段には、長年積もった埃が残っていた。
古い台帳の綴じ糸が切れかけていたため、書記は頁をめくるたび番号を読み上げた。
見つけた文書を持ち出せば、改竄を疑われる。
ユリウスはその場で写しを作り、立会人二人に署名を求めた。
証拠は見つけるだけでなく、後から確かめられる形で残さなければ意味がない。
国境街道。
ガレスは、馬車の轍が脇道へ逸れているのを発見した。
「護衛が逃げた跡じゃない。連れ去られた」
ガレスは、馬車の荷物と足跡を調べた。
その結果、廃関所が監禁場所と判明した。
廃関所。
元院長は、証言を撤回するよう迫られた。
「もう一度嘘をつけば、私は本当に医師ではなくなる」
元院長は、尋問官の書類に署名しなかった。
その結果、監禁は長引いた。
帝国救護隊。
セレナは、武装救出を提案されて首を振った。
「彼を救うために誰かを殺したくありません」
セレナは、現地の停戦監視員を通じ引渡しを要求した。
その結果、王国側の地方指揮官が交渉に応じた。
関所前。
シーラは、解放された元院長と向き合った。
「どうして、あの日助けてくれなかったの」
シーラは、院長の謝罪を最後まで聞いた。
その結果、許すかどうかは決めず、彼女は背を向けた。
証人が消えたと聞き、護衛隊は裏切りを疑った。
だが関所に残された車輪の跡は、王都へ戻る道ではなく川沿いの小道へ続いていた。
ガレスは兵を二手に分け、一方には捜索を、もう一方には病人の搬送を続けさせた。
元院長は廃屋で見つかった。
追手から逃げるため、自ら隊列を離れていたのだ。
関所で待っていたシーラは、彼を見つめて尋ねた。
「どうしてあの日、助けてくれなかったの」
院長は言い訳をせず謝った。
少女は許すとは言わなかった。
証言と赦しは別のことだった。
見つかった証人の傷を診る間も、護衛の配置と面会者の記録を確認した。
救出された元院長には足の傷があった。
セレナは傷を洗いながら、逃亡の理由を聞いた。
「追手が近づいた。護衛まで巻き込みたくなかった」
彼女は包帯を巻く手を止めずに答えた。
「一人で消えたら、みんながあなたを捜して危険になる」
元院長は目を閉じた。
誰かを守るつもりで、自分だけで決めてしまう癖が、過去の沈黙にもつながっていた。
シーラと向き合う前、元院長は謝罪の言葉を何度も練習した。
しかし少女を前にすると、用意した言葉はすべて空虚に思えた。
「怖くて助けられなかった」
とだけ告げる。
シーラは涙を拭わず、「私は怖くても、生きたかった」と答えた。
セレナは二人を急かさなかった。
証言を得ることと、傷ついた人の時間を尊重することは、どちらも必要だった。
元院長が休んだあと、シーラはセレナに尋ねた。
「許さない私は、悪い子なの?」
セレナは即座に否定した。
「許すかどうかは、あなたが決めていいことよ」
少女は窓辺に座り、庭の木を見つめた。
春になれば葉が戻る。
けれど折れた枝の跡は残るだろう。
セレナは隣に座ったまま、言葉を重ねなかった。
沈黙を共有できることも、回復の一部だった。
元院長を安全な家へ移した夜、ガレスは護衛の交代表を二枚作った。
一枚は移動を担当する者へ、もう一枚は連絡を受ける法務官へ渡す。
元院長は「私のために、こんなに人を使う必要があるのか」と尋ねた。
「あなたのためだけではありません」
とガレスは答えた。
「あなたが知っている患者の名前と、あなたの証言を待つ人々のためです」
元院長はうなだれた。
彼は自分を守ることが、責任から逃げることのように感じていた。
翌朝、シーラから短い伝言が届いた。
『まだ許せません。
でも、知っていることを全部話してください』。
元院長は紙を折り畳み、胸元にしまった。
許しを得るための証言ではない。
少女が奪われた日々を、正しく記録するための証言だ。
彼は法務官に頼んだ。
「私が黙った日のことも、調書から省かないでください」
元院長は避難先へ向かう途中、何度も振り返った。
「私は証人ではなく、共犯者だ」
ガレスは否定しなかった。
「だからこそ、あなたが見たことを隠さず話してもらう」
元院長はシーラの顔を思い浮かべ、歩みを止めた。
「謝れば許されると思っていた」
ガレスは馬の手綱を握ったまま答えた。
「許すかどうかは、あなたが決めることではない」
追手が近くの橋を封鎖したとの報告が入る。
ガレスは護衛を増やす代わりに、通行人を危険に巻き込まない迂回路を選んだ。
到着は遅れたが、元院長は初めて逃亡ではなく出廷のために歩いていると感じた。
宿で彼は自分の署名した書類を一枚ずつ書き出した。
記憶違いがあれば、法廷で訂正するためだった。
シーラは元院長の謝罪を聞いた夜、いつもより早く寝台に入った。
母親は灯りを消す前に尋ねた。
「話してよかった?」
少女は少し考え、「聞きたいことは聞けた」と答えた。
許せるかどうかはまだ分からない。
それでも自分の疑問を口にできたことが、今日の小さな前進だった。
行方不明の証人を探す途中、ガレスは市場で一人の子供に呼び止められた。
「あの人、昨日はパンを二つ買ったよ」
大人が見落とした小さな手掛かりだった。
だが彼は子供の名を記録から外した。
証人の居場所が分かっても、教えた子まで狙われては意味がない。
証人の隠れ家に辿り着いたガレスは、すぐには扉を叩かなかった。
周囲に同じ紋章の馬がいないか確かめ、連絡役だけを先に送る。
証人は「助けに来たと言う者を、どう信じればいい」と尋ねた。
ガレスは王都で交わした合言葉を伝え、避難先を選ぶ権利は本人にあると告げた。
証人は荷物を一つだけ持って出てきた。




