第七十六話 王宮医療院の地下書庫
地下書庫の紙は湿気で貼りつき、無理に開けば文字ごと剥がれた。
記録係は乾いた布を敷き、一冊ずつ運ぶよう指示した。
若い治癒師は火をつけろという命令を受けていたが、松明を置いた。
「患者の名前を二度消すことはできません」
同僚たちも書庫の前に立ち、法務官が到着するまで扉を守った。
マルクが連れてきた法務官は、書庫の封印を確認して保全命令を読み上げた。
誰かが勝手に持ち出せば、証拠を盗んだと主張される。
箱には番号が振られ、運び出す者と受け取る者がその都度署名した。
帝国に届いた診療記録を見たセレナは、すぐに自分の筆跡だと分かった。
シーラを治療した日の時刻が残っている。
だが別の台帳では、その時間帯だけが空白になっていた。
ユリウスは原本と写しを並べ、削除された箇所を確認した。
「空白も、誰かが作った記録です」
セレナは涙を拭わずに記録を閉じた。
自分が正しかったことを証明する紙は、あの日患者を守れなかった人々の沈黙も示していた。
「これを法廷へ」
彼女は箱を渡し、次の診察へ向かった。
紙の上の真実が、今生きている人のために使われることを願った。
地下書庫の扉を開けると、湿った紙の匂いがした。
台帳の一部は水を吸い、頁をめくるだけで破れそうだった。
ユリウスは急いで持ち出そうとしたが、セレナは止めた。
「順番と封印を記録して」
誰が、いつ、どの棚から取り出したか。
それがなければ原本さえ疑われる。
鍵穴に錆が詰まり、オルフェンの手が震えた。
扉が開くと薬品の古い匂いが流れた。
棚には改竄前の処方記録が残っていた。
セレナは最初の一冊を開かず、立会人が揃うのを待った。
王宮から運び出された箱には、封蝋の跡が残っていた。
印章の形は王子のものに似ていたが、それだけでは命令者を断定できない。
セレナは早く結論を出したがる人々を制した。
「間違った証拠で裁けば、同じ過ちを繰り返します」
書記官は発送簿と受領簿を照合し、誰がいつ箱を受け取ったかを追い始めた。
王都地下書庫。
元院長は、地下書庫の構造を説明した。
「私の署名がある書類は、すべてここにある」
元院長は、書庫の棚番号と封印方法を地図に書いた。
その結果、証拠の所在が特定された。
王都市民会議。
都市代表マルクは、王宮への強行侵入に反対した。
「証拠のために市民を巻き込めない」
都市代表マルクは、王宮の監査権を持つ法務官に協力を求めた。
その結果、合法的な保全命令が出された。
王宮医療院。
若い治癒師は、古い記録を焼けと命じられた。
「もう患者の記録は燃やしません」
若い治癒師は、同僚と書庫入口を守った。
その結果、原本の焼却が阻止された。
帝国資料室。
セレナは、届いた箱の中から自分の診療記録を見つけた。
「私の文字です。あの日のまま残っている」
セレナは、魔力測定値と治療時刻を照合した。
その結果、冤罪を覆す決定的な証拠が揃った。
地下書庫の鍵は三本あった。
一つは院長室、もう一つは法務局、最後の一本は行方不明になっていた。
元記録係は鍵を探すより、扉の封印がいつ貼り直されたかを調べるべきだと言った。
搬出した箱の封印番号を一つずつ読み上げ、ユリウスが帳簿に記す。
帝国へ届いた箱には、セレナの診療記録と魔力測定値が残っていた。
改竄された台帳と照らし合わせると、削られた時間帯が一致した。
セレナは勝利を叫ばず、「記録を守った人がいたのね」と呟いた。
地下書庫から運び出した箱は、雨に濡れないよう布で覆われた。
護送する者は箱を開ける権限を持たず、封印が破れていないかだけを確認する。
ユリウスは途中の関所ごとに時刻を記録させた。
証拠が正しくても、途中で入れ替えられた疑いが残れば法廷で争われる。
セレナが診療記録を読んだ夜、彼女は自分の字の癖を見つけた。
急いで書くと最後の線が少し上がる。
あの日も患者を救うことに夢中だったのだと思い出す。
記録は冤罪を晴らすためだけに残ったのではない。
彼女が確かに患者の前にいたことを示していた。
セレナは箱の蓋を閉め、明日の診療に必要な器具を整えた。
書庫を守った若い治癒師は、保全命令の写しを胸に抱えていた。
焼却命令に逆らったことを、まだ恐れている。
ユリウスは彼に、いつ誰が命令を出したかを書き残すよう頼んだ。
勇気だけでは証拠にならない。
けれど勇気がなければ、証拠は燃えていた。
若い治癒師は震える字で時刻を記し、最後に自分の署名をした。
今度は患者の記録を守るための署名だった。
箱を受け取った審問官は、封印の番号を読み上げて記録係に確認させた。
誰もその手順を省こうとしなかった。
書庫を守った人々の勇気を無駄にしないためには、証拠を最後まで守る必要がある。
セレナは記録の写しを見つめ、失われた時間が少しずつ戻ってくるように感じた。
元記録係は封印の付いた箱を見送り、ようやく地下書庫の扉を閉めた。
自分が守った紙が法廷でどう使われるかは分からない。
それでも、燃やさずに残したことだけは間違っていないと思えた。
搬出した箱の一つから、紙片が落ちた。
若い記録係が拾おうとすると、ユリウスが手を上げる。
「触らず、落ちた場所を記して」
紙片には薬の受領番号だけが残り、患者の名前はなかった。
別の台帳を開くと、その番号の欄には赤い線が引かれていた。
廃棄扱いにされた薬が、実際には誰かに使われていた可能性がある。
セレナは番号を見つめた。
シーラを治療した夜、足りない薬を求めて倉庫へ走ったことを思い出す。
だが記憶の中の番号まで確かだとは言えない。
「私が見たのは瓶の色だけです」
と彼女は告げた。
記録係は一瞬、残念そうな顔をした。
それでもユリウスは頷く。
「覚えていないことを、覚えていると言わないでくれて助かります」
その言葉に、セレナは胸のつかえが少し軽くなった。
真実は、誰かの確信だけで完成するものではなかった。
書庫から運び出した箱の底に、患者名簿とは別の支出帳があった。
薬が廃棄された日付の翌日に、同じ数量が王宮の別部署へ送られている。
法務官は不正と断定せず、受領者の署名を調べるよう命じた。
若い治癒師は「今夜、箱を奪い返しに来るかもしれません」と囁いた。
法務官は見張りを増やし、原本と写しを別々の建物に保管した。
セレナは自分の追放に関する一枚を見つけた。
そこには彼女が患者を見捨てたと記されている。
指先が震えたが、紙を破らなかった。
「これも残してください」
間違った記録が存在したこと自体が、訂正の理由になる。
法務官は記録の隅に、閲覧者と時刻を記入した。
過去を消すのではなく、過去に何が行われたかを残す仕事が始まった。
地下書庫の鍵は錆び、扉は一度では開かなかった。
古い帳簿を運び出そうとした書記を、ユリウスが止めた。
「まず棚の位置を記録する」
後から差し込まれた紙かどうかは、綴じ目や埃の跡にも表れる。
灯りを近づけすぎないようにしながら、彼らは発見時の状態を一枚ずつ写し取った。
法務官は証拠箱の封印に自分の印を重ねようとしたが、ユリウスは止めた。
「元の印が見えなくなります」
別の帯紙に立会人の名と時刻を記し、箱を開けた場所と再封印した場所を残すことにした。
セレナは診療記録を手にしても、勝利を宣言しなかった。
誰が原本を守ったのか、その人が報復されないかを先に尋ねた。
若い治癒師が書庫を守った理由を問われ、「怖かったからです」と答えた。
記録が焼ければ、患者を見捨てた責任まで消えてしまう。
法務官はその言葉を調書に残し、立会人の身元を伏せた写しを作った。
セレナは彼に礼を言ったが、勇気を称える演説はしなかった。
明日もここで働けるようにすることが、今は先だった。




