第七十話 王子は疫病より戦争を選んだ
医療崩壊の責任を隠すため、王子は国境紛争を仕掛けた。
兵舎の手紙。
王国の兵舎に、疫病で倒れた家族からの手紙が届いた。
若い兵士は出征の準備をしながら、母親の文字を何度も読み返した。
病院には薬がなく、村の医師も不足しているという。
彼は補給係に尋ねた。
「医薬品の荷車を前線へ回すなら、村へ行く分は?」
補給係は答えられなかった。
命令書には戦場の必要量だけが書かれていたからだ。
兵士は上官に出兵延期を願い出た。
上官は反逆と脅したが、同じ手紙を受け取った兵が他にもいた。
彼らは剣を抜かず、診療所への補給を止めないよう連名で訴えた。
軍規を守ることと家族を守ることの間で、誰も簡単に答えを出せなかった。
中立の道。
セレナは王国兵の負傷者を治療することに反対する声を聞いた。
「敵を助ければ、また攻めてくる」
彼女は問い返した。
「では、敵だと決めた人の子供も治療しませんか」
沈黙が落ちた。
ガレスは中立搬送路を地図に引き、武器の持ち込み禁止と患者の優先順位を定めた。
アーデリアは停戦を求める書簡に署名した。
王子が応じる保証はない。
それでもセレナは診療所の入口に二つの言語で案内を書かせた。
王国の兵士も帝国の農民も、病気なら同じ扉を通る。
戦争を始める命令は一枚で済むが、命を守る道は多くの人の手で作らなければならなかった。
出陣を告げる鐘が鳴ったとき、王都の病院では包帯が足りなくなっていた。
若い軍医は補給馬車を指し、「これを前線に回せば、病棟の薬がなくなります」
と抗議した。
参謀は命令書を読み直したが、病院の欄は空白だった。
セレナが受け取ったのは戦争の宣言ではなく、患者の名が並ぶ不足表だった。
王子の出陣命令が読み上げられると、若い兵士が列から一歩出た。
「母はまだ病床です。薬を届ける道を塞ぐ命令には従えません」
誰も拍手しなかった。
だが隣の兵士も槍を下ろした。
王子の命令書が読み上げられた瞬間、軍議の空気が変わった。
レオニスは疫病対策より国境の軍備を優先した。
将校の一人が「兵にも熱が出ています」
と報告しても、王子は撤回しない。
だが命令書に署名した書記は、医療費の削減額を見て指を止めた。
数字の上では節約でも、寝台から起きられない兵士が増えれば軍そのものが動かなくなる。
王宮軍議。
レオニスは、臣下の制止を振り切り出兵を命じた。
「敵を作れば民は従う」
レオニスは、国境守備隊へ進軍命令を出した。
その結果、参謀の一人が辞表を置いた。
帝国作戦室。
ガレスは、国境への王国軍集結を報告した。
「戦う準備はする。だが最初の一撃は渡さない」
ガレスは、病院と難民居住区を軍事施設から離した。
その結果、救護路の安全が確保された。
診療所の廊下。
セレナは、元王国兵に出征する息子の相談を受けた。
「どちらの国の兵士でも、怪我をすれば患者です」
セレナは、負傷者の中立搬送案をまとめた。
その結果、帝国側の医師団が賛同した。
王都の兵舎。
若い兵士は、自分の家族が黒熱病で倒れたと知らされた。
「家に薬がないのに、どうして剣を持つんだ」
若い兵士は、出兵を拒む仲間を集めた。
その結果、王国軍の一部で命令不服従が始まった。
王子の命令は、黒熱病の流行地域から兵を引き抜き、国境へ集結させるものだった。
兵舎では、家族に薬を送れない兵士が命令書を握り締めていた。
「守る国に、母さんが含まれないのか」
上官は規律を説いたが、補給担当は病院への物資輸送も止まると報告した。
戦争の準備は地図の上では整然としていても、村の診療所から薬を奪っていた。
セレナは軍を攻撃する代わりに、患者搬送のための中立回廊を求めた。
兵士たちの不服従は、剣ではなく通行許可をめぐる抗議から始まった。
王国の病院から届いた補給要請には、包帯の枚数と薬の残量が細かく書かれていた。
セレナはその書類をアーデリアに見せた。
「戦争の準備が進むほど、ここが空になります」
アーデリアは国境の部隊に医療物資を接収しないよう命じ、王国側にも患者搬送のための通行証を提案した。
返事はなかった。
そのころ兵舎では、若い兵士が同僚と手紙を回し読みしていた。
家族を救うために軍を離れれば脱走兵になる。
残れば村の薬がなくなる。
彼らは武器を置き、補給の行き先を問いただす請願書を作った。
上官は紙を破ろうとしたが、兵士たちは同じ文面を何枚も用意していた。
戦争に反対する最初の声は、病院へ薬を返してほしいという願いだった。
出征を拒む兵士たちの請願書は、すぐに王子の耳へ届いた。
王子は反抗の芽を摘めと命じたが、補給担当の将校は病院へ送る薬の不足を数字で示した。
叱責されても、彼は帳簿を閉じなかった。
数字の向こうにいる患者を知っていたからだ。
国境ではセレナが中立回廊の準備を進めていた。
両者はまだ互いの名を知らない。
それでも同じ夜、薬を患者へ届けるために命令と向き合っていた。
請願書に署名した兵士は、処罰を覚悟していた。
それでも紙を渡すとき、手が震えた。
上官はしばらく黙り、補給担当を呼んだ。
病院へ回す薬の量を確認するためだった。
命令が覆ったわけではない。
だが問いが記録されたことで、誰も不足を知らなかったとは言えなくなった。
王宮の軍議で、補給将校は二枚の表を並べた。
一枚は前線に送る食料と医薬品、もう一枚は王都の病院に残る量だった。
「この命令を実行すれば、病院は三日で消毒薬を失います」
王子は机を叩いた。
「国境を失えば病院も守れぬ」
将校は引かなかった。
「国境を守る兵の家族が、今夜その病院にいます」
議場は静まり返った。
王子は出兵命令に署名したが、将校は反対意見を議事録から消さなかった。
王都の軍議で、レオニスは医療物資の不足を「一時的な混乱」
と片づけた。
補給将校は三度目の報告書を差し出した。
「一時的なら、いつ解消しますか」
答えはなかった。
王子が席を立つと、将校の隣にいた若い書記官が小声で尋ねた。
「この数字を残して、何か変わるでしょうか」
将校は首を振った。
「すぐには変わらない。だが、誰が不足を知っていたかは残る」
その夜、国境の医療隊には、軍の移動予定とともに薬品不足の警告が届いた。
セレナは患者の受け入れを増やす準備を始めた。
軍議のあと、補給将校は王子の署名が入った命令書を持って病院へ向かった。
院長は数字を見て顔色を変えた。
「消毒薬が三日で尽きるなら、手術を延期する患者を選ばねばなりません」
廊下には負傷兵の妻と熱を出した子供が並んでいた。
将校は彼らを見て、命令書の写しに不足分を明記した報告を添えた。
書記は「反対意見を残せば左遷されます」と囁いた。
「残さなければ、誰も知りませんでしたと言われる」
彼は報告を正式な受領簿に登録させた。
翌日、軍は出発した。
病院では予定されていた手術が一件延期され、その患者の名が記録された。
戦争を選んだ代償は、戦場より先に診療室へ届いていた。
国境へ向かう軍の最後尾で、補給将校は医療箱の封印を確かめた。
箱の数は命令書どおりだった。
足りないのは、箱の中身ではなく、前線の外に置き去りにされた人々への分だった。
彼は副官に言った。
「明日、病院から不足の報告が来たら、戦闘の報告と同じ便で王都へ送れ」
副官は「握りつぶされます」と答えた。
「それでも控えを残す」
そのころセレナは野戦病院の地図に、敵味方の境界線とは別の線を引いていた。
水を運べる道、担架が通れる橋、夜に灯りを点けられる建物。
戦争が始まっても、病人のいる場所だけは見失わないための線だった。




