第七十一話 白旗の医療隊
医療隊の先頭に立った看護人は、白旗の結び目を何度も確かめた。
丘の上には両軍の射手がいる。
ガレスは通過する荷車の数と時刻を伝えたが、王国側から返事がない。
「進めば撃たれるかもしれません」
と看護人が言う。
セレナは頷いた。
「だからこそ、返事があるまで待ちましょう。勇気と無謀は違います」
負傷者の一人が痛みにうめいた。
待つ間にも容体は悪くなる。
セレナは荷車の上で応急処置を続け、ガレスはもう一度使者を送った。
ようやく双方の指揮官が停戦時刻を記した紙に署名したとき、看護人は白旗を持ち直した。
野戦病院には王国兵と帝国兵が並んで運び込まれた。
片方の兵が「敵と同じ水を飲むのか」
と拒む。
リゼは水差しを二つ置き、言った。
「器は分けられます。でも治療の順番は傷の重さで決めます」
王国兵は返事をしなかった。
夜更け、帝国兵が手を伸ばして倒れた水差しを拾い、王国兵の枕元に置いた。
言葉は交わさなかった。
翌朝、白旗を持った看護人は、昨日より少しだけ軽い足取りで荷車へ向かった。
休戦はまだ一日限り。
それでも一日分の命を守れたことは消えなかった。
白旗を結んだ竿は、風が吹くたび細く震えた。
医療隊の先頭に立つ看護人は、敵味方の腕章を外すよう求めた。
「運ぶ順番は階級ではなく、呼吸と出血で決めます」
両軍の将校は不満を示したが、倒れた兵士の息が浅くなると口を閉ざした。
セレナは安全な搬送路を指さし、まず一人を運ばせた。
朝の鐘が鳴るより早く、仕事は始まっていた。
白旗の布は雨で重くなり、担架を運ぶ人々の足元には泥が跳ねた。
ガレスは患者の状態を確認する班と通行交渉の班を分けた。
白布が風に裏返り、王国兵が弓を引いた。
セレナは走らなかった。
担架の上の負傷兵が両軍に見える位置まで進み、「この人の所属を決める前に、出血を止めさせて」と叫んだ。
白旗を掲げた担架隊は、橋の中央で足を止めた。
対岸の弓兵が狙いを定める中、ミラは患者の呼吸を数え続けた。
「ここで待てば間に合わない」
護衛は旗をもっと高く掲げ、武器を地面へ置いた。
安全は保証されていない。
それでも医療隊が進む理由を、相手に見える形で示すしかなかった。
国境平原。
セレナは、白旗の先頭で王国軍の騎馬隊を迎えた。
「私たちは兵士を奪いに来たのではありません」
セレナは、負傷者を運ぶ通路の確保を申し入れた。
その結果、前衛指揮官は攻撃をためらった。
王国軍野営地。
王国軍医は、兵士の感染を隠せという命令を受けた。
「黙っていれば、この隊も全滅します」
王国軍医は、発症者数を記した記録を提出した。
その結果、部隊長は独断で診療を許可した。
帝国野戦病院。
リゼは、敵味方の患者を同じ建物で受け入れた。
「寝台は分けても、命の値段は分けません」
リゼは、感染対策と重症度で区画を分けた。
その結果、治療を受けた兵士同士が水を渡し合った。
平原の丘。
ガレスは、休戦を破ろうとする強硬派を押さえた。
「白旗を撃てば、この戦争は終わらなくなる」
ガレスは、両軍の指揮官に停戦時間を署名させた。
その結果、一日だけ砲声のない夜が訪れた。
白旗を掲げた医療隊の荷車には、王国兵と帝国兵が同じように横たわっていた。
ガレスは両軍の見張りに負傷者名簿を見せ、「ここには敵の順番はない」と告げた。
丘の上から矢が一本飛び、荷車の手前に刺さった。
隊列が止まる。
セレナは逃げずに担架の上の患者を覆い、ガレスは指揮官を呼んだ。
停戦時刻と通行路を紙に記して双方が署名するまで、隊は動かなかった。
その夜、砲声は止んだ。
翌朝も続く保証はなかったからこそ、看護人たちは眠らずに薬を分けた。
朝の鐘が鳴るより早く、仕事は始まっていた。
検問所の机に置かれた搬送票には、患者の名前と緊急度だけが記されていた。
詳しい病歴は診療班が封印して持ち運んだ。
荷車を引く馬が砲声に怯え、立ち上がった。
看護人は手綱を握り、患者が転げ落ちないよう体を支えた。
白旗があるから安全なのではない。
双方がそれを守ると約束して初めて意味を持つ。
ガレスは停戦文書に通行路と時刻を明記し、両軍の見張りに写しを配った。
野戦病院では、王国兵が帝国兵のうめき声を聞いて眠れずにいた。
自分の部隊が撃った相手かもしれない。
彼は水を求める声に迷った末、看護人を呼んだ。
リゼは二人の寝台を見比べ、痛み止めの順番を決めた。
兵士は何も言わなかったが、翌朝、隣の寝台に倒れた毛布をそっと掛け直した。
停戦の時刻が終わる前に、最後の担架が野戦病院へ届いた。
看護人は白旗を畳み、血の付いた手袋を外した。
もう一日だけ続けたいという願いは、紙に書かれた約束より強くはない。
ガレスは両軍へ次の交渉を申し入れ、セレナは治療記録を整理した。
明日また砲声が響くかもしれない。
それでも今日救った患者が明日目を覚ます可能性は残った。
看護人はそのために薬を並べ直した。
夜明け前、白旗を洗っていた看護人は、落ちない血の跡を見つめた。
昨日救った兵士のものかもしれない。
誰の血でも、治療の順番は変わらない。
彼女は旗を乾かし、次の荷車へ積んだ。
ガレスから停戦交渉の返事はまだ届かない。
それでも準備だけは止めなかった。
白旗を畳んだ看護人は、次に使うときまで清潔な布を保管した。
敵と味方を区別しないという約束は、旗を掲げる一瞬だけのものではない。
病院の寝台で、それを毎日守り続ける必要があった。
日没まで残り四十分。
王国側の軍医から届いた返書には、負傷兵十二人の搬出を認める代わりに、帝国軍の位置を知らせよとあった。
ガレスは返書を机に置いた。
「医療通行の許可と偵察情報を交換することはできない」
セレナは負傷者の容体と搬出に必要な人数だけを書き直した。
待っている間に一人の熱が上がる。
若い看護人は時計を見つめたが、セレナは「焦って境界を越えれば、次の医療隊まで撃たれる」と言った。
やがて王国側の軍医自身が白い布を掲げて現れた。
彼は軍の上官ではなく患者の名を先に尋ねた。
「私の弟がいる」
名簿にはなかった。
セレナは首を横に振る代わりに、身元不明の負傷者の特徴を伝えた。
軍医は目を閉じ、次に開いたときには医師の顔に戻っていた。
「通路を開けます。ただし双方、武器を持ち込まないこと」
その一言が出るまで、白旗は風の中で揺れ続けた。
停戦の終わりまで、あと十五分だった。
運び出せていない負傷者が一人いると伝令が駆け込む。
崩れた塹壕の底で、王国兵が足を挟まれていた。
ガレスは時計を見た。
「延長の合意がなければ、救護隊を出せない」
セレナは唇を噛んだ。
助けたいという気持ちだけで看護人を危険にさらすことはできない。
彼女は両軍へ同じ文面の延長要請を送った。
返答が届くまでの間、塹壕にいる兵へ声が届く距離まで近づき、止血の方法を叫んで伝える。
兵は震える声で返した。
「俺は、昨日まであんたたちを敵と呼んでいた」
セレナは答えた。
「今日は患者さんです」
帝国側の返事が先に届いた。
王国側の印はなかなか来ない。
最後の一分、王国の若い伝令が泥に滑りながら走ってきた。
署名はあった。
救護隊が塹壕へ下りると、負傷兵は声を出さずに泣いていた。
誰が署名したのか、彼にはまだ分からない。
それでも両軍の時計が同じ十五分を刻んだことを、セレナは忘れなかった。
白旗を掲げた隊列の先頭で、看護人は自分の名札を外しかけた。
捕まれば家族まで危険になるかもしれない。
セレナは止めずに言った。
「名前を隠しても、あなたが運んだ人は覚えています」
看護人は迷った末、名札を胸に戻した。
国境の検問では、患者名簿だけを提示し、病名の詳細は伏せた。
命を運ぶために必要な情報と、守るべき秘密を分けた。
検問の兵士は、白旗の下に積まれた薬箱を開けるよう命じた。
ガレスは拒まず、患者の個人記録だけを別の封筒へ移した。
「運んでいる物は確認していい。病人の秘密まで持ち帰る必要はない」
兵士は封筒に手を伸ばしかけ、上官の目を見た。
やがて薬箱だけを検査し、通行札に印を押した。




