第七話 追放者の診療所に、百人が並んだ
最初に倒れたのは、列の七番目に並んでいた老人だった。
「おい、じいさん! しっかりしろ!」
共同薬房の前で悲鳴が上がった。
セレナは振り向いた。
石畳に崩れ落ちた老人の周りに、人々が集まっている。
「道を空けてください!」
「前の人から診るんじゃないのか!」
列の後ろで誰かが叫んだ。
セレナは振り返りかけたが、まず倒れた老人の呼吸を確かめた。
並んだ順番より先に、命に関わる徴候を見なければならない。
その説明を、ここにいる百人全員へ伝える役目も必要だった。
駆け寄って膝をつく。
「聞こえますか?」
老人は薄く目を開けた。
呼吸は速く、顔色も悪い。
額には汗が浮かんでいた。
「……朝から、何も食べてなくて」
「胸は痛みますか?」
老人は首を振った。
だが、それだけで安全とは言えない。
セレナは脈と意識を確認した。
「ガレスさん!」
「おう!」
「施療所へ運んでください。すぐに状態を詳しく診てもらいたいんです」
「分かった!」
セレナはリゼを呼び止めた。
「列の全員に、息苦しさ、意識の変化、ひどい出血がないか先に聞いて。該当する人は順番を変えて、すぐガレスさんに知らせてください。私は一人で百人を診られません」
「私にできるの?」
「診断はしなくていい。危険そうな人を見逃さず、伝える仕事です」
リゼは頷き、列の先頭から一人ずつ声を掛け始めた。
ガレスが担架を持ってくる。
老人を運び出したところで、列の後ろから怒鳴り声が響いた。
「ちょっと待てよ!」
振り向くと、大柄な男が腕を組んでいた。
「俺は夜明け前から並んでるんだぞ!」
「申し訳ありません」
セレナは頭を下げた。
「でも、今の方は急いで診察する必要があります」
「こっちだって具合が悪いんだ!」
男は包帯を巻いた腕を突き出した。
「三日前から痛くて仕方ねえ!」
セレナは腕を見た。
包帯の隙間から、赤く腫れた皮膚が覗いている。
「熱はありますか?」
「昨日の夜から少しな」
「傷を見せてもらえますか?」
男が包帯を緩める。
傷の周囲が腫れ、赤みが広がっていた。
セレナの表情が変わった。
「……あなたも、すぐにガレスさんに診てもらってください」
「は?」
「傷が悪化している可能性があります。放置すると危険です」
男は口を開けたまま固まった。
セレナは列を見渡した。
子供を抱く母親。
咳き込む老人。
腹痛を訴える若者。
傷を押さえた職人。
昨日、共同薬房の前に集まった人々の噂が、荷車で行き来する商人を通じて近隣の村まで広がった。
「銅貨がなくても相談できる」
「王宮の治癒師が誰でも治してくれる」
後半は誤解だった。
だが、その噂を頼りに、東の職人街や北の農村からも患者が押し寄せていた。
リゼが駆け寄ってくる。
「先生……大変です」
「どうしたの?」
「人数を数えました」
リゼは受付用の紙を握りしめた。
「……百人です」
セレナは言葉を失った。
「百人……?」
「はい。今朝から並んでいる人だけで、百人います」
広場の端まで続く列を見つめる。
王宮にいた頃なら、治癒魔法で次々に患者を治せたかもしれない。
だが、今は違う。
治癒師の資格を剥奪され、魔法の使用も禁じられている。
何より、百人全員を一人で診ることなどできない。
資格を失ったセレナに許されるのは、緊急性を見極めるための聞き取り、応急手当、衛生指導と記録まで。
診断や処方は、町の認可を受けたガレスら診療担当者の責任で行う必要があった。
セレナは唇を噛んだ。
助けを求める人が、こんなにいる。
なのに、自分の手は二本しかない。
「……先生?」
リゼが不安そうに呼んだ。
セレナは深く息を吸った。
「……やり方を変えましょう」
セレナは広場の中央に立った。
「皆さん、聞いてください!」
ざわめきが少しずつ収まる。
「今日は、大勢の方が来てくださっています。でも、全員を並んだ順番で診ることはできません」
人々の表情が険しくなった。
「何だと!」
「朝から待ってるんだぞ!」
「また金持ちから先に診るのか!」
怒鳴り声が飛ぶ。
セレナは首を横に振った。
「違います」
そして、はっきりと告げた。
「命に関わる危険がある人から、先に診ます」
広場が静かになった。
「順番を決めるのは、お金でも身分でもありません。今、どれだけ急いで診察が必要かです」
一人の女性が手を挙げた。
「でも、見ただけで分かるんですか?」
「分からないこともあります。だから、一人ずつ状態を確かめます」
セレナはリゼに向き直った。
「受付の紙を三種類に分けて」
「三種類?」
「今すぐ診察が必要な人。早めに診察が必要な人。少し待てる可能性がある人」
リゼは頷いた。
「分かりました!」
「ただし、最後の人たちも、症状が変わったらすぐに知らせてもらうわ。待てると判断しても、放っておいていいわけではないから」
セレナは板に大きく絵を描いた。
赤い丸。
黄色い丸。
青い丸。
文字が読めない人にも分かるようにするためだった。
そして、説明を続けた。
「息が苦しい人、意識がはっきりしない人、大量に出血している人は、すぐに知らせてください」
子供を抱いた母親が、おそるおそる手を挙げた。
「……この子、昨日からおしっこが出ていないんです」
セレナはすぐに近づいた。
「下痢や嘔吐は?」
「あります。水もあまり飲めなくて……」
子供の顔を覗き込む。
目が落ちくぼみ、呼びかけへの反応も弱い。
「ガレスさん!」
セレナは声を上げた。
「この子も、すぐに診察を!」
母親の顔が青ざめた。
「……そんなに悪いんですか?」
「強い脱水が疑われます。早く処置が必要です」
母親は子供を抱きしめた。
周囲の人々が、静かに道を空けた。
誰も文句を言わなかった。
セレナは胸の奥で、小さく息を吐いた。
理解してもらえる。
理由を伝えれば、人々は協力してくれる。
ただし、その信頼に甘えてはいけない。
判断を誤れば、命に関わる。
セレナは自分に言い聞かせた。
急がなければならない。
でも、焦ってはいけない。
診療所の仕事は、すぐに混乱した。
「先生! こっちの人も熱が!」
「薬草が足りません!」
「受付の紙がなくなりました!」
「担架をどこに置けばいいんだ!」
四方から声が飛ぶ。
セレナは一瞬、目を閉じた。
このままでは、誰が何をしているのか分からなくなる。
「……役割を決めましょう」
セレナは皆を集めた。
「リゼさんは受付をお願いします」
「はい!」
「名前、年齢、症状が始まった時期を記録してください。ただし、詳しい病状を周囲に聞こえる声で読み上げないで」
リゼは真剣な顔で頷いた。
「分かりました」
「ミナさんは薬草の在庫管理を」
「私が?」
「ええ。何が何包み残っているか、使った分を記録してほしいんです」
ミナは少し不安そうだった。
「……間違えたら?」
「一人で判断しないで。薬を患者さんに渡すかどうかは、ガレスさんが診察して決めます」
ミナはほっとしたように息を吐いた。
「それなら、できる」
「ガレスさんは診察と処置をお願いします。私は最初の状態確認と記録を手伝います」
ガレスが腕を組んだ。
「運搬はどうする?」
「町の人に協力を頼みます。ただし、患者さんを運ぶときは、必ずガレスさんか私が状態を確認してからにしましょう」
「分かった」
セレナはさらに続けた。
「それから、受付の人にも、危険な症状の目安を覚えてもらいたいんです」
リゼが顔を上げた。
「私にも分かるでしょうか?」
「診断する必要はありません。気づいたら、すぐに知らせてくれればいいんです」
セレナは板に絵を描いた。
苦しそうに呼吸する人。
呼びかけても反応しない人。
大量に出血している人。
水を飲めず、ぐったりしている子供。
「こういう様子が見えたら、順番に関係なく声をかけてください」
リゼは何度も頷いた。
「……覚えます」
ミナも板を覗き込んだ。
「私も覚えたい」
ダンが横から顔を出した。
「俺にも見せろ。荷車を運んでる途中で倒れられたら困る」
セレナは思わず笑った。
「……皆さん、ありがとうございます」
その瞬間だった。
「先生!」
受付から声が響いた。
「こっちの人、急に息が苦しくなったって!」
セレナは顔を上げた。
「すぐ行きます!」
そして、駆け出した。
診療所は、もう彼女一人の場所ではなかった。
昼過ぎ。
一人の女性が、受付の前で泣いていた。
「お願いです! 娘を先に診てください!」
リゼが困った顔をしている。
「でも、今はほかに急いで診る人が……」
「この子、昨日から熱があるんです!」
女性の腕には、五歳ほどの少女が抱かれていた。
少女は母親の肩にもたれ、目を閉じている。
セレナはすぐに近づいた。
「お名前を教えてください」
「……エマです」
「エマ。聞こえる?」
少女は薄く目を開けた。
「……うん」
呼吸は落ち着いている。
顔色も極端に悪くはない。
セレナは症状を確認した。
熱はあるが、水は飲めている。
意識もはっきりしている。
今の時点では、すぐに処置が必要な兆候は見られなかった。
「お母さん。心配ですよね」
セレナは静かに言った。
「でも、今は息が苦しい方や、意識が弱くなっている方を先に診ています」
女性の目から涙がこぼれた。
「……じゃあ、この子は待てって言うんですか?」
「はい。ただし、放っておくわけではありません」
セレナはリゼに向き直った。
「エマちゃんの様子を、定期的に確認してもらえる?」
「はい!」
セレナは母親へ説明した。
「息が苦しくなる、反応が悪くなる、水が飲めなくなるなど、様子が変わったらすぐに教えてください。順番を見直します」
女性は唇を噛んだ。
「……分かりました」
そのとき。
後ろに並んでいた老人が、静かに言った。
「……わしは、明日でもいい」
女性が振り向いた。
「え?」
「腰が痛いだけじゃ。長く待つのはつらいが、今すぐ死ぬわけじゃない」
老人は小さく笑った。
「その子を、ちゃんと診てやってくれ」
セレナは胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
だが、すぐに首を横に振った。
「ただ、順番は症状を確認して決めます。エマちゃんも、おじいさんも、必要な診察を受けられるようにします」
老人は頷いた。
「……そうか」
セレナは微笑んだ。
「はい」
優しさだけでは、医療は続かない。
誰かの善意に頼りきってしまえば、いつか限界が来る。
だからこそ、仕組みが必要だった。
夕方。
リゼが帳面を抱えてやって来た。
「先生……今日の人数です」
セレナは顔を上げた。
「何人でした?」
「受付した人が、ちょうど百人です」
リゼは紙をめくった。
「そのうち、ガレスさんが診察を終えた人が四十七人」
「はい」
「別の医師へ引き継いだ人が六人」
ベルナには、ガレスの施療所以外にも小さな診療所が二つあった。
普段は料金が高く、貧しい人々には利用しにくい。
だが、今回は事情を説明し、緊急の患者を受け入れてもらっていた。
「残りは?」
「四十七人です」
セレナは頷いた。
全員を診察できたわけではない。
しかし、受付時に状態を確認し、緊急性が低いと判断された人には翌日以降の予約を渡していた。
症状が悪化した場合の連絡先も伝えてある。
「……百人来たのに、全員診られませんでしたね」
ミナが悔しそうに呟いた。
セレナは静かに答えた。
「ええ」
そして、帳面を見つめた。
「でも、診ていない人を、診たことにはできません」
ガレスが壁に立てかけた担架を直しながら言った。
「今日の百人を、あんた一人で抱えようとしたら、もっと危なかったぞ」
セレナは顔を上げた。
「……そうですね」
ガレスは続けた。
「明日は俺が先に来る。運ぶ人間も二人増やす」
「私は受付の紙を作り直します!」
リゼが言った。
「症状が変わったときに、すぐ分かるようにします」
「私は薬草の在庫を朝に数える」
ミナも頷いた。
「足りなくなる前に知らせるよ」
ダンが腕を組んだ。
「椅子も増やしておく。立って待つだけで倒れそうな年寄りが多いからな」
セレナは皆を見つめた。
誰も治癒魔法を使えない。
誰も王宮の称号を持っていない。
それでも、今日助かった人がいる。
セレナは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……皆さん」
声が少し震えた。
「ありがとうございます」
リゼが笑った。
「何言ってるんですか、先生」
そして、当たり前のように言った。
「ここは、私たちの診療所でしょう?」
セレナは目を見開いた。
私たちの診療所。
その言葉が、胸に深く響いた。
王宮の医療院は、王家のものだった。
患者も、治癒師も、すべて王宮の命令に従っていた。
けれど、ここは違う。
誰か一人のものではない。
町の人々が、必要だから作った場所だ。
セレナは静かに頷いた。
「……そうですね」
そして、壁に大きな紙を貼った。
『診療所の約束』
一、命に関わる危険がある人を優先する。
二、順番を決めた理由を説明する。
三、できない処置は、できないと伝える。
四、患者の名前や病状を、むやみに広めない。
五、記録を残し、間違いがあれば直す。
セレナは皆に向き直った。
「私がいなくても、これを守れる場所にしたいんです」
ガレスが眉をひそめた。
「……いなくなるつもりなのか?」
セレナは少しだけ笑った。
「王宮が、私を放っておくとは思えません」
広場に沈黙が落ちた。
ダンが低い声で言った。
「……来ると思ってるのか?」
「分かりません」
セレナは正直に答えた。
「でも、もし私がここにいられなくなっても、診療所は続いてほしいんです」
リゼが拳を握った。
「……続けます」
ミナも頷いた。
「私も」
ガレスは深く息を吐いた。
「……ったく」
そして、笑った。
「勝手にいなくなるなよ」
セレナも微笑んだ。
「……はい」
そのときだった。
カツン。
カツン。
広場の向こうから、馬の蹄の音が響いた。
セレナは顔を上げた。
夕闇の中を、鎧を着た騎士たちが進んでくる。
先頭の男の肩には、王家の紋章があった。
アルディス王家の紋章。
セレナの心臓が大きく跳ねた。
「……王宮の騎士?」
リゼが呟いた。
騎士たちは診療所の前で馬を止めた。
先頭の男が、冷たい声で告げる。
「セレナ・アルヴェインは、ここにいるか!」
広場が静まり返った。
セレナは一歩前へ出た。
「……私です」
男は彼女を見下ろした。
「王命により、貴様を拘束する」
リゼが息を呑んだ。
ダンが拳を握る。
ガレスは無言で前へ出ようとした。
だが、セレナは片手を上げて止めた。
そして、騎士を見つめた。
「……理由を聞かせてください」
男は冷たく答えた。
「無資格診療、および王族への反逆容疑だ」
セレナは唇を噛んだ。
王宮を追放されてから、初めて。
過去が、目の前に追いついてきた。
けれど。
彼女の背後には、もう誰もいないわけではなかった。
リゼが立っている。
ガレスがいる。
ミナがいる。
ダンがいる。
そして、今日ここで助けを求めた百人の患者がいる。
セレナは静かに息を吸った。
逃げるわけにはいかない。
だが、ここで争えば、患者たちを危険にさらしてしまう。
「……分かりました」
セレナは答えた。
「ただし、一つだけ確認させてください」
騎士が眉をひそめた。
「何だ?」
セレナは背後の診療所を指した。
「ここには、今も治療を必要としている患者がいます」
そして、はっきりと告げた。
「私を連れていくとしても、この人たちの診療を妨げないでください」
騎士は答えなかった。
ただ、腰の剣に手を置いた。
セレナは一歩も引かなかった。
百人の患者が並んだ日。
ベルナの診療所は、ようやく一つの形になった。
そして、その日の終わりに。
王宮は、その中心にいた女性を奪おうとしていた。




