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王子に追放された天才治癒師、隣国で病院を建てたら英雄になりました  作者: レモンティー


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第六話 薬を売るなら、まず値段を下げなさい

薬屋の前で、老人が財布を逆さにした。

石畳に落ちたのは、銅貨が三枚。

老人は震える指でそれを拾い、店主へ差し出した。

「……これで、少しだけでも売ってもらえんか」

店主は秤の皿に載せた乾燥薬草を、無言で棚へ戻した。

「足りねえよ」

「昨日までは五枚だっただろう」

「今日から十二枚だ」

「十二枚……?」

老人の顔から血の気が引いた。

「孫が三日も熱を出しているんだ。夜になると咳がひどくて、眠ることもできん」

「だからって、俺にどうしろって言うんだ」

店主は苛立ったように答えた。

「仕入れ値が上がったんだよ。俺だって慈善事業じゃねえ」

老人の隣で、小さな少女が袖を握りしめた。

「おじいちゃん……」

「大丈夫だ。何とかするからな」

老人はそう言った。

けれど、その声には力がなかった。

セレナが市場に着いたのは、ちょうどそのときだった。

「……どうしました?」

声をかけると、老人が振り向いた。

「薬が買えなくてな」

セレナは店先の値札を見た。

昨日まで銅貨五枚だった薬草が、十二枚になっている。

一度に七枚の値上げ。

決して小さな金額ではない。

「どなたが具合を悪くされているんですか?」

「九歳の孫だ。三日前から熱を出して、咳もひどい」

「今、どこに?」

「家で寝ている」

セレナは老人の目を見た。

「薬を買う前に、お孫さんを診せてください」

老人は戸惑った。

「……診察代も払えんぞ」

「まず状態を確認します。お金の話は、そのあとで」

「治してくれるのか?」

セレナはすぐには頷かなかった。

「治ると約束はできません。でも、何が必要なのか、一緒に考えられます」

少女が顔を上げた。

「……お兄ちゃん、助かる?」

セレナはしゃがみ、少女と目を合わせた。

「今、できることを急いで確かめましょう」

そして、老人の家へ向かった。

家は市場の裏通りにあった。

狭い部屋の中央に、古い寝台が置かれている。

その上で、少年が苦しそうに息をしていた。

「……げほっ、げほっ!」

咳き込むたびに、細い肩が震える。

セレナは寝台のそばへ座った。

「こんにちは。私はセレナ。名前を教えてくれる?」

「……ルカ」

「ルカ。息をするのは苦しい?」

「……ちょっと」

「胸は痛む?」

少年は小さく頷いた。

セレナの表情が引き締まった。

額に触れる。

熱い。

呼吸は速く、胸の動きも浅い。

セレナは呼吸音を確かめた。

単なる風邪とは決めつけられない。

肺に炎症が起きている可能性もある。

「ガレスさんを呼んでください」

セレナは老人に告げた。

「施療所の?」

「はい。胸の痛みと呼吸の速さが気になります。ここで薬草だけを飲ませて様子を見るのは危険です」

老人の顔が青ざめた。

「そんなに悪いのか……?」

「まだ分かりません。だからこそ、早く診てもらいたいんです」

少女が老人の袖を引いた。

「私、呼んでくる!」

「お願いできる?」

少女は力強く頷き、家を飛び出した。

セレナは窓を開けた。

囲炉裏の煙が、低い天井に溜まっている。

冷たい風が直接少年に当たらないよう調整しながら、空気を入れ替えた。

「ルカ。少し楽になった?」

「……うん」

少年は弱々しく頷いた。

老人がセレナの背中に声をかけた。

「先生……」

「はい」

「薬が買えなかったせいで、この子が死んだら……」

セレナは振り向いた。

老人の目には、涙が浮かんでいた。

「わしが、もっと金を持っていれば……」

セレナは静かに首を横に振った。

「必要な治療を受けられるかどうかが、お金だけで決まってしまう。その問題は、あなた一人で背負うものではありません」

老人は唇を噛んだ。

「……それでも、悔しいんだ」

セレナは何も言えなかった。

王宮にいた頃。

貴族の子供には、高価な薬が惜しみなく使われていた。

しかし、この町では。

銅貨十二枚が払えないだけで、家族が絶望している。

セレナは少年の手を握った。

「……変えなければ」

小さく呟く。

薬が高い。

だから買えない。

買えないから治療を諦める。

そんな当たり前になってしまった仕組みを。

変えなければならない。

ガレスが到着すると、セレナは症状と経過を伝えた。

ガレスはルカを診察し、顔をしかめた。

「……施療所で経過を見たい」

「やはり?」

「ああ。呼吸が速い。今夜は悪くなる可能性がある」

老人が慌てて頭を下げた。

「お願いします! 金は必ず……!」

ガレスは片手を上げた。

「その話はあとだ。まず運ぶぞ」

セレナも搬送を手伝った。

ルカが施療所の寝台に横たわると、老人はようやく肩の力を抜いた。

しかし、問題が解決したわけではない。

施療所には、ほかにも患者がいる。

必要な薬草も、残り少なかった。

ガレスは薬棚を開け、ため息をついた。

「……このまま値段が上がったら、うちも薬を買えなくなる」

「どれくらい残っていますか?」

「種類によるが、数日分だな」

セレナは薬棚を見つめた。

昨日まであった薬が、明日は買えなくなる。

それでは、医療を続けられない。

「ガレスさん。町の薬草は、どこから仕入れているんですか?」

「商会の倉庫だ。薬屋も施療所も、ほとんどそこから買ってる」

「……一か所だけ?」

「事実上、そうだな」

セレナは考え込んだ。

仕入れ先が一つしかなければ、価格が上がったときに逃げ道がない。

だが、商会を責める前に確かめることがある。

なぜ、値段が上がったのか。

そして、どこに費用がかかっているのか。

「……調べてみます」

セレナは研究ノートを開いた。

『課題――薬草の供給経路と価格の確認』

その下に、一行を加える。

『安全性を下げずに、患者の負担を減らす』


翌朝。

セレナはダンとともに、町の薬商を訪ねた。

店主は昨日、老人に薬草を売らなかった男だった。

「……何の用だ?」

「薬草の値上げについて、お話を聞きたいんです」

店主は眉をひそめた。

「文句なら聞かねえぞ」

「文句ではありません。理由を知りたいんです」

セレナは静かに答えた。

「仕入れ値が上がったと聞きました。何があったんですか?」

店主はしばらく黙っていた。

やがて、深く息を吐いた。

「……街道が使えねえんだよ」

「街道?」

「先月の大雨で、北の橋が傷んだ。荷車が通れなくなって、遠回りするしかなくなった」

セレナは頷いた。

ベルナでは、井戸の周辺も大雨で崩れていた。

同じ雨が、物流にも影響していたのだ。

「運賃が上がったんですね」

「ああ。それだけじゃねえ」

店主は帳面を開いた。

「山から来る薬草も減ってる。採集する人間が少なくなったうえ、商会がまとめて買い付けてるからな」

「……なるほど」

「俺だって、好きで値上げしてるわけじゃねえ」

店主は苛立ったように言った。

「安く売って赤字になれば、店を畳むしかないんだぞ」

「もし別の仕入れ先ができても、今日から値下げできるわけじゃない。俺には先月の仕入れ代金の支払いが残っている」

店主は帳面の一行を指した。

支払期日は十日後。

新しい薬草が届くより早い。

「それに、商会から仕入れを減らせば、次の冬に卸してもらえなくなるかもしれない」

セレナは言い返せなかった。

安くするという一言は、店主にとっては店を失うかもしれない賭けだった。

セレナは深く頷いた。

「その通りです」

店主は意外そうな顔をした。

「……分かるのか?」

「はい。お店がなくなれば、患者さんはもっと困りますから」

セレナは続けた。

「だから、仕入れ先を増やせないか考えています」

店主の目が細くなった。

「……商会を通さずに?」

「可能なら」

「やめとけ」

店主は即答した。

「山で採った草を、そのまま薬にできると思うなよ」

「……どういうことですか?」

「似た草がある。毒草もある。乾かし方を間違えりゃ傷む」

店主は棚から二つの袋を取り出した。

「見ろ。どっちも同じ薬草に見えるだろ」

セレナは中身を確かめた。

確かによく似ている。

だが、葉の形がわずかに違った。

「……別の植物ですね」

店主は頷いた。

「そうだ。安いからって、何でも仕入れりゃいいわけじゃねえ」

セレナは静かに頭を下げた。

「教えていただいて、ありがとうございます」

店主は拍子抜けしたような顔をした。

「……おい、何だよ」

「薬の値段には、安全を確かめるための費用も含まれているんですね」

「あ、当たり前だ」

セレナはノートを開いた。

運賃。

採集費。

乾燥。

選別。

保管。

品質確認。

そして、店を続けるための利益。

どれも無視できない。

安くするだけなら簡単だ。

しかし、安全を削って安くすれば、別の患者を増やしてしまう。

「……分かりました」

セレナはノートを閉じた。

「安全を守りながら、別の仕入れ方を探してみます」

店主は鼻を鳴らした。

「好きにしな。ただし、事故が起きたら取り返しがつかねえぞ」

「はい」

セレナは頷いた。

「だから、記録を残します」

工房へ戻ると、ダンが腕を組んだ。

「……で、どうする?」

「薬草を採る人に会いたいんです」

「採集者か」

「ええ。直接話を聞いてみたい」

ダンは少し考えた。

「一人、知ってる」

「本当ですか?」

「ミナって女だ。山で薬草を採って暮らしてる」

セレナは顔を上げた。

「紹介してください」

「ただし、あいつは商売が下手だぞ」

ダンは苦笑した。

「いい草を採るくせに、値段の交渉になるとすぐ負ける」

セレナは微笑んだ。

「それなら、なおさら話を聞きたいです」


午後。

ダンが連れてきたのは、二十代前半ほどの女性だった。

名前はミナ。

日焼けした肌に、革の手袋。

背中には、大きな籠を背負っている。

「……あんたが、王都から来た治癒師?」

「元、治癒師です。セレナと呼んでください」

「私はミナ。先に言っとくけど、薬のことは詳しくないよ」

「薬草を採る仕事をしているんですよね?」

「うん。でも、どんな病気に効くかまでは知らない」

セレナは頷いた。

「それで構いません。まず、採っている植物を見せてください」

ミナは籠を机に置いた。

乾燥させた葉。

根。

樹皮。

さまざまな薬草が入っている。

セレナは一つずつ確認した。

「これは?」

「白露草。熱のときに使う人がいる」

「こちらは?」

「それも白露草……だと思う」

セレナの手が止まった。

二枚の葉を並べる。

形はよく似ている。

だが、片方には葉の裏に細かな毛があった。

もう片方にはない。

「……ミナさん」

「何?」

「これ、同じ植物ではありません」

ミナの顔色が変わった。

「……え?」

「よく似ていますが、特徴が違います」

セレナは葉を指さした。

「こちらは白露草。もう一方は、別の植物です。安全性を確認できるまで使えません」

ミナは青ざめた。

「……そんな」

「今まで、混ぜていた可能性はありますか?」

「分からない……」

ミナは唇を噛んだ。

「山では同じ場所に生えてるんだ。ずっと一緒に採ってたかもしれない……」

セレナは静かに答えた。

「今、気づけてよかった」

「……怒らないの?」

「怒っても、間違いが消えるわけではありません」

セレナはノートを開いた。

「大切なのは、次に同じ間違いをしないことです」

ミナは目を見開いた。

セレナは続けた。

「採集場所、葉の形、茎の色、乾燥前後の違い。分かることを全部記録しましょう」

「……そんな面倒なこと、今まで誰もやらなかったよ」

「だからこそ、今から始めるんです」

セレナは紙に植物の絵を描いた。

ミナも隣に座り、不器用な字で採集場所を書き込んだ。


その日、二人は夕方まで薬草を選別した。

種類を確実に識別できないものは除外する。

傷んだものも使わない。

採集日と保管状態が分からないものは、販売しない。

そして、用途や安全性を確認できない薬草については、効果をうたわない。

ミナは疲れた顔で机に突っ伏した。

「……こんなに大変だとは思わなかった」

セレナは苦笑した。

「私もです」

「でも……」

ミナは顔を上げた。

「これなら、私が採ったものに責任を持てるね」

セレナは頷いた。

「ええ」

その言葉が、何より嬉しかった。

次に考えるべきは、値段だった。

セレナはミナとダンを机の前へ呼んだ。

「採集に、どれくらい時間がかかりますか?」

「山まで往復半日。採る時間も入れたら、ほぼ一日だね」

「乾燥は?」

「天気によるけど、数日」

「袋代は?」

「それもかかる」

セレナは一つずつ帳面に書いた。

採集の手間。

乾燥。

選別。

保管。

品質確認。

袋代。

売れ残りの損失。

そして、採集者が生活するための収入。

すべてを足していく。

ダンが帳面を覗き込んだ。

「……いくらになりそうだ?」

「種類によりますが、試算では一包み銅貨四枚程度です」

ミナが目を丸くした。

「……四枚?」

「ええ。ただし、品質確認にかかる費用も含めて、実際に続けられるか確かめる必要があります」

ミナはしばらく黙っていた。

やがて、小さく呟いた。

「……商会には、二枚で売ってた」

セレナは顔を上げた。

「二枚?」

「うん。買い叩かれるのが嫌で、最近は採る量を減らしてた」

セレナは帳面を見つめた。

薬草が不足する理由が、一つ見えた気がした。

採集者が生活できない値段で買い取られていれば、採る人が減る。

採る人が減れば、薬草が不足する。

不足すれば、価格が上がる。

その結果、患者が薬を買えなくなる。

誰か一人の悪意だけで起きている問題ではなかった。

「……採る人が続けられる値段にしましょう」

セレナは言った。

ミナが顔を上げた。

「でも、それじゃ安くならないんじゃ……」

「安くするために、あなたの生活を犠牲にしてはいけません」

セレナは微笑んだ。

「続けられない仕組みでは、結局、患者さんが困ります」

「では、共同薬房は最初から全種類を安く売らないのね」

ダンの問いに、セレナは頷いた。

「まずは採集量と品質を確認できる薬草だけ。薬師が使えると認めたものを、少量ずつ扱います。仕入れ値、選別で捨てた分、保管費を毎週公開して、赤字が出たら価格も計画も見直します」

「寄付で値引きしたら、普通の値段が分からなくなるぞ」

「だから薬そのものの価格と、困窮者への補助を別の帳面にします。支援が尽きても、仕入れ代を払えるように」

ミナは帳面の空白を見つめた。

「安くするって、ただ値札を書き換えることじゃないんだね」

「ええ。明日も同じ値段で売れるようにすることよ」

ダンが腕を組んだ。

「石鹸のときと同じだな」

「ええ」

セレナは頷いた。

「必要な人に届くことと、作る人が暮らしていけること。その両方が必要なんです」

共同薬房の試験運用が始まったのは、それから数日後だった。

場所は、施療所の隣にある空き部屋。

薬草の識別と品質確認を行い、ガレスが用途を確認したものだけを扱う。

診察が必要な患者には、薬だけを売らず施療所へ案内する。

誰でも自由に薬を選べる店ではない。

それでも、町の人々にとっては大きな変化だった。

入口には、セレナが書いた札が掲げられた。

『薬草の種類と品質を確認しています』

『症状によっては、薬草を使用できません』

『必要な場合は、施療所で診察を受けてください』

最初の客は、昨日の老人だった。

「……先生」

「お孫さんの具合は?」

「まだ熱はあるが、ガレス先生が診てくれてる」

「それはよかった」

老人は小さな財布を取り出した。

「……薬を買いに来たんだ」

セレナは首を横に振った。

「ルカに必要なものは、ガレスさんと確認しましょう。薬草を買えば必ず治るわけではありませんから」

老人は頷いた。

そのとき。

「おい!」

大きな声が響いた。

入口に、見知らぬ男が立っていた。

商会の印章がついた上着を着ている。

「勝手に薬を売ってもらっちゃ困るな」

セレナは顔を上げた。

「……どちら様ですか?」

「ベルナ薬商会の代理人だ」

男は机の薬包を見た。

「正規の薬商を通さない品を売るとは、どういうつもりだ?」

セレナは静かに答えた。

「町の許可を得て、品質を確認した薬草を扱っています」

「許可?」

男は鼻で笑った。

「そんなもの、商会が認めると思うか?」

「商会の規則と、町の許可は別のものです」

男の眉が動いた。

「……何?」

「もちろん、守るべき規則があるなら確認します。でも、必要な薬を届ける方法を考えることまで、禁止される理由にはなりません」

男は一歩近づいた。

「……ずいぶん生意気な女だな」

セレナは答えなかった。

男は彼女の顔を覗き込んだ。

そして、突然笑った。

「……ああ、思い出したぞ」

広場の空気が変わった。

「お前、王都で患者を殺した治癒師だろう?」

セレナの指が止まった。

男は声を張り上げた。

「王宮を追放された罪人が、今度は薬を売るのか!」

周囲の人々がざわめいた。

「……本当なのか?」

「王都で人を殺したって……」

セレナは唇を噛んだ。

シーラの顔が浮かぶ。

あの子は生きていた。

確かに、目を開けた。

母親に会いたいと言った。

それなのに。

王宮は死亡したと発表し、セレナを追放した。

「……私は」

声が震えた。

男が笑う。

「どうした? 言い返せないのか?」

セレナは拳を握った。

だが、次の瞬間。

「……俺は、この人を知ってるぞ」

老人が一歩前へ出た。

ルカの祖父だった。

「昨日、孫を診てくれた」

男が顔をしかめた。

「何?」

「薬を買う前に、孫の具合を確かめてくれた。金も取らずにな」

老人は続けた。

「売れればいいって人間なら、そんなことはしねえ」

今度は、ミナが前へ出た。

「私も知ってる」

声は震えていた。

それでも、逃げなかった。

「この人は、私が採った草を一つずつ調べてくれた。間違ったものを売らないようにって」

ダンも腕を組んだ。

「石鹸を作ったときも同じだったな」

そして、男を睨んだ。

「安くするために、安全を削ることだけは許さなかった」

セレナは三人を見つめた。

胸の奥が熱くなった。

王宮では、誰も彼女を守ってくれなかった。

命令一つで、すべてを奪われた。

けれど今は。

自分のために、前へ出てくれる人がいる。

セレナは深く息を吸った。

「……私は、王宮が発表した罪を認めていません」

男を見つめる。

「ですが、今ここで、そのことを証明する資料はありません」

そして、机の帳面を開いた。

「だから、まず私たちが何をしているかを見てください」

薬草の採集地。

採集日。

選別した人。

品質確認の結果。

販売価格。

すべて記録されている。

「間違いがあれば、訂正します。危険が見つかれば、販売を止めます」

セレナは静かに続けた。

「でも、患者さんが薬を買えずに苦しんでいることまで、なかったことにはできません」

男は顔を歪めた。

「……後悔するぞ」

そして、踵を返した。

「商会は、こんな商売を許さない!」

男が去ると、広場に静けさが戻った。

ミナは大きく息を吐いた。

「……怖かった」

セレナは彼女の手を握った。

「ありがとう」

ミナは首を横に振った。

「私も、もう逃げたくなかっただけ」

そして、小さく笑った。

「自分が採った草に、ちゃんと責任を持ちたいから」

セレナは頷いた。

それだけで、十分だった。


夕方。

ルカの呼吸は、朝より少し落ち着いていた。

熱はまだある。

楽観はできない。

ガレスは経過を記録し、夜も様子を見るよう家族へ伝えた。

セレナは老人と少女に、悪化したときの知らせ方を説明した。

「先生」

帰り際、老人が声をかけた。

「……ありがとう」

「まだ治ったわけではありませんよ」

「分かってる」

老人は頷いた。

「でも、もう一人で困らなくていいんだと思えた」

セレナは何も言えなかった。

ただ、静かに頭を下げた。

施療所の隣へ戻ると、共同薬房の入口に小さな木箱が置かれていた。

中には、銅貨が七枚。

そして、一枚の紙切れ。

『うちの子は、石鹸を使って手を洗うようになりました。

今度は、薬を買えない子のために使ってください』

セレナは紙を見つめた。

差出人の名前はない。

それでも、誰かの気持ちが伝わってきた。

「……寄付か」

ダンが呟いた。

「ええ」

セレナは頷いた。

そして、新しい帳面を取り出した。

「でも、寄付だけに頼るわけにはいきません」

「どうする?」

「入ったお金と、使ったお金を記録します。誰でも確認できるようにして、支援を続けられる仕組みを考えたいんです」

ダンは笑った。

「また帳面か」

「ええ」

セレナも笑った。

「数字は、嘘をつかないように残しておきたいので」

そのときだった。

「先生!」

広場の向こうから、女性の声が響いた。

「先生! こっちにも患者がいるんです!」

セレナは顔を上げた。

荷車の向こうに、人の列ができていた。

子供を抱く母親。

杖をついた老人。

包帯を巻いた職人。

顔色の悪い若者。

数えてみると、二十人以上いる。

「……こんなに?」

リゼが呟いた。

セレナは列を見つめた。

薬が安くなったから、突然病人が増えたわけではない。

これまで、診てもらうことを諦めていた人々が、ようやく姿を現したのだ。

ダンが顔をしかめた。

「……どうする? 一人で診るのか?」

セレナは首を横に振った。

「いいえ」

そして、集まった人々に向き直った。

「皆さん、まずお話を聞かせてください!」

広場が静かになった。

「具合の悪い人を、並んだ順番だけで診ることはできません。命に関わる症状がある人を、先に見つける必要があります」

リゼが前へ出た。

「私、名前を聞きます!」

ミナも手を挙げた。

「症状を書き留めるくらいなら、できるよ!」

ダンが腕を組んだ。

「椅子と水を用意すりゃいいんだな?」

ガレスが施療所から顔を出した。

「重症の患者は、こっちへ運べ!」

セレナは仲間たちを見渡した。

王宮では、最高位治癒師として命令すれば、人が動いた。

けれど今は違う。

誰も、彼女に従う義務はない。

それでも人々は、自分の意思で動いている。

セレナは胸元の首飾りに触れた。

「……お母さん」

小さく呟く。

「私、一人じゃなかった」

そして、顔を上げた。

「始めましょう」

その声に、仲間たちが頷いた。

王宮を追放された治癒師の前に、二十人を超える患者が並んでいる。

もう、彼女一人では救いきれない。

だからこそ。

これからは、一人で救おうとしない。

ベルナの小さな共同薬房から、町の医療を変える新しい仕組みが動き始めていた。

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