第六十話 十万人が国境へ向かった
国境の丘から見下ろす街道には、夜になっても灯りが続いていた。
「十万人、という報告です」
ガレスが地図を広げる。
「正確には、王国東部から移動を始めた人々の推計です。今ここに十万人いるわけではありません」
セレナは頷いた。
数を取り違えれば、水も食料も足りなくなる。
恐怖に駆られて門を閉じれば、道の上で病人が倒れる。
王国の村では、ユリウスが高齢の男性を訪ねていた。
「避難する気はない」
男は畑を見つめた。
「ここで生まれた。ここで死ぬ」
ユリウスは無理に荷車へ乗せなかった。
「では、薬と食料を届ける方法を考えます。ただし、病状が悪くなったときの連絡先だけは決めさせてください」
男は長い沈黙のあと、隣家の名前を告げた。
十万人が移動するという数字の陰には、移動しないと決めた人もいる。
彼らを統計から消してはいけなかった。
街道の各拠点から届く人数は、同じ家族が二度数えられている可能性もあった。
ガレスは到着数と通過数を別々に記録させ、推計の幅を報告書に残した。
正確な数字がまだないことを、隠す必要はない。
帝国の国境会議では、守備隊長が流入制限を求めた。
「門を開けば、食料庫が尽きます。兵も疲れています」
アーデリアは反論を急がなかった。
「何日分の備蓄があり、何人を安全に受け入れられるのか。まず数字を示してください」
ガレスは給水地点、仮設診療所、家族照合所を地図に記した。
到着した人々を一か所へ集めず、街道沿いの拠点で段階的に受け入れる案だった。
「十万人を一度に通す門はありません」
セレナが言った。
「だから、一人ずつ助けるための道を何本も作ります」
仮設居住区では、水を巡って言い争いが起きていた。
「子供がいるんだ。先にくれ!」
「こちらにも病人がいる!」
リゼは配給係を呼び、残量と次の補給時刻を掲示させた。
乳児や重症者には必要に応じた追加配分を行い、その理由も説明する。
「同じ量を配れば公平、とは限りません」
怒鳴っていた男は、水筒を握ったまま黙った。
その横で、母親とはぐれた少年が木札を握りしめていた。
「お母さんは、あとから来るって」
リゼは少年の名前と村を記録し、照合所へ連れていった。
人を数えるだけでは、家族は見つからない。
アーデリアは門衛へ、武器を持った者の確認と病人の救護を別の係に任せるよう指示した。
安全を守る仕事と命を守る仕事が、同じ狭い入口で衝突しないためだ。
セレナはその図面を見て、ようやく小さく頷いた。
夜、ガレスは第一拠点の受け入れ可能人数を報告した。
医療者の数、寝床、水の供給量。
どれも限界があった。
「門を開ければ全員助かる、とは言えません」
「ええ」
セレナは答えた。
「でも、閉じれば助けられた人まで失います」
アーデリアは翌朝の会議に、段階的な受け入れ条件を提出すると決めた。
帝国民の生活を守る条件も、避難民の安全を守る条件も、同じ紙に書く。
翌朝、ガレスは街道を三つの区間に分けた地図を広げた。
移動を始めた人数、各村に滞在する人数、国境へ到着した人数を混ぜないためだった。
「推計十万人という言葉だけが先に走っています。今朝、門前で確認できたのは六千余り。残りは途中の村や別の道にいます」
「それでも、六千人分の水は今ここで必要です」
とイーナが言った。
最初に問題になったのは井戸だった。
村の住民も同じ水を使っている。
避難民だけに水を配れば村人が不足し、村人を優先すれば門前で倒れる者が出る。
セレナは村長を会議に招いた。
「井戸を借りる代わりに、汲み上げと運搬をこちらで負担します。水位は毎朝一緒に確認してください」
村長は腕を組んだ。
「井戸が枯れたら誰が責任を取る」
「その前に取水量を減らす判断をします。足りない分は上流から運びます。ただし、約束できない量は約束しません」
門前では、若い父親が子供を抱いて列から飛び出した。
守備兵が槍を構える。
セレナが近づくと、子供の唇は乾き、呼びかけへの反応が鈍かった。
「この子は先に診ます。順番を変える理由は記録してください」
父親は泣きながら謝った。
「割り込むつもりじゃなかったんです」
セレナは頷いた。
「分かっています。ここまで連れてきてくれて、ありがとう」
午後、帝国議会から使者が来た。
門を全面開放すれば治安維持が難しく、閉じれば人道上の問題になる。
アーデリアは一度に入れる人数と、国境外で提供する医療を分けた案を示した。
「開けるか閉じるかだけでは、今夜を越せません」
会議の終わり、ガレスは夜間の照明、仮設便所、飲み水の運搬、迷子の照合所を担当ごとに書き出した。
十万人という推計を前に、彼らが最初に決めたのは、今夜の六千人をどう守るかだった。
日が暮れると、門前の列で小さな騒ぎが起きた。
食事の配給場所を知らない人々が、別の列へ何度も並び直していたのだ。
リゼは木札に絵を描き、水、食事、診察の場所を示した。
文字を読めない者にも伝わるようにするためだった。
一人の老婆が絵を見て「これなら孫にも分かる」と笑った。
隣の少年はすぐに配給所へ走ろうとしたが、祖母の手を取り直して歩き出した。
セレナはその様子を見て、計画書に一行を書き足した。
「案内係は、各区画に必ず配置する」
十万人を受け入れる仕組みは、巨大な門より、迷わず水にたどり着ける道から始まるのだった。
見張り台では、兵士が灯りの数を数えていた。
どれほど数えても、道の先にはまだ光が続く。
ガレスは兵士の肩を叩いた。
「全部を今夜数えなくていい。今ここにいる人を見失わないことだ」
兵士は頷き、門前の列へ視線を戻した。
避難民の一人が、門の向こうにある灯りを指さした。
「あそこまで行けば、休めますか」
リゼは答えた。
「まず水を飲んで、体調を見てもらいましょう。休む場所も案内します」
国境の仮設受付で、一人の少年が名簿の前から動かなかった。
「父さんは、別の列にいるんです。名前を書いたら、もう会えなくなる気がして」
リゼは受付番号を二枚に分け、片方を少年に渡した。
「同じ番号で探せるようにします。移動先が変わったら、ここへ記録を戻します」
「絶対に見つかる?」
「絶対とは言えない。でも、探すのをやめないための仕組みを作ります」
少年はようやく名前を告げた。
字を知らない父親のために、荷車の絵も添えてほしいと言った。
リゼは名簿の余白に小さな車輪を描いた。
大勢を守るための制度は、たった一人を探す約束から試されるのだと、彼女は思った。
丘の下で灯りが一つ消え、また一つともった。
十万人という数字は、決断を難しくする。
けれど、門の前に立つのは、いつだって名前を持った一人だった。




