第五十九話 皇帝が、セレナに頭を下げた
帝国宮殿へ向かう階段で、セレナは足を止めた。
王宮から追放された日も、こんな階段を下りた。
あのときは誰も振り返らず、荷物を持つ手だけが冷たかった。
「緊張していますか」
隣のアーデリアが尋ねた。
「少し。今日は患者を診る日ではないので」
「あなたは、診察室のほうが落ち着くのですね」
二人は笑った。
謁見の場で皇帝は、国境の救援と医療改革について報告を受けた。
セレナの名が何度も読み上げられたが、彼女はそのたびに、病院の当直表に並ぶ名前を思い出した。
「そなたが帝国を救った」
皇帝が告げる。
「私は一人では何もできませんでした。薬を運んだ人、井戸を調べた人、眠らずに患者を見た人がいます」
「それでも、最初に動いたのはそなただ」
「最初に動いた人がいなくなっても、続く仕組みが必要です」
皇帝はしばらく黙った。
皇帝は地方医療の予算案に期限と評価項目を付けるよう命じた。
診療所の数だけでなく、通院できない村の数、看護人の離職、薬の欠品日数も調べる。
拍手のための改革ではなく、失敗を見つけるための改革にしたかった。
貴族の一人が、セレナへの名誉爵位を提案した。
華やかな称号と年金。
追放された治癒師にとって、これ以上ない名誉だという。
セレナは礼を述べたうえで、地方の診療所の一覧を差し出した。
「こちらの村には医師が一人もいません。こちらは冬に橋が閉ざされます。称号を頂いても、そこへ薬は届きません」
議場がざわめいた。
「望みを言え」
皇帝が促す。
「地方診療所への継続予算と、看護人の養成費です。議会の審議を経て、来年も使える形にしてください」
皇帝は側近へ目を向けた。
「予算案を作れ。反対意見も含め、議会へ出すのだ」
公開謁見の最後、皇帝は玉座から降りた。
セレナだけでなく、同席したイーナ、リゼ、ガレス、給水係の代表の前に立つ。
「余は、そなたたちの働きを当然のものと思っていた」
そして深く頭を下げた。
会場が静まり返った。
イーナは慌てて頭を下げ返そうとしたが、皇帝は手で制した。
「礼を受け取ってほしい。次は、働きに見合う仕組みで返す」
セレナの胸に、思いがけない熱がこみ上げた。
王宮では頭を下げることさえ許されなかった人々が、今は皇帝の目の前にいる。
イーナは宮殿を出てから、ようやく息を吐いた。
「陛下が頭を下げるなんて、夢みたいです」
セレナは笑った。
「明日、あなたが休める勤務表ができていたら、もっと夢みたいね」
二人は顔を見合わせ、声を上げて笑った。
中庭でアーデリアが尋ねた。
「故郷へ帰りたいですか」
「帰りたい場所はあります。でも、帰れる場所かどうかは、まだ分かりません」
「ここにいてもいいのですよ」
「ええ。今は、そう思えます」
セレナは空を見上げた。
追放された日の空と、色は同じだった。
帰り際、使者が国境からの急報を届けた。
王国東部の街道に、避難民の列が伸びているという。
謁見の前、侍従はセレナに礼法を説明した。
どこで止まり、何歩進み、いつ頭を下げるか。
セレナは何度も頷いたが、最後の質問だけは答えられなかった。
「陛下から褒賞を問われたら、何を望みますか」
王宮を追われたとき、彼女には名誉も職も残らなかった。
欲しいものは山ほどあるはずだった。
それでも、昨夜の病院で毛布が足りず、二人の患者が一枚を分け合っていた光景が頭から離れない。
謁見の間で皇帝は救援の報告書を開いた。
数字を読み上げるのではなく、ページの端に記された看護人の負傷事故に目を留めた。
「帝国は救われた者の数を誇っていた。救う側が倒れかけているとは知らなかった」
セレナは一歩進み出た。
「陛下。救援の費用を特別な恩賞としてではなく、毎年の予算として審議してください」
侍従たちが顔を見合わせた。
褒賞なら一度渡して終わる。
制度なら翌年も責任が続く。
皇帝はアーデリアに尋ねた。
「お前はどう考える」
「支出の監査と成果の報告を条件に、継続予算を提案します。失敗も隠さず報告させます」
「厳しい条件だな」
「患者にも、納税者にも必要です」
皇帝はしばらく沈黙した後、財務官へ審議案の起草を命じた。
決定ではない。
それでも、議論を始める命令だった。
退室後、セレナは廊下の窓辺で息を吐いた。
アーデリアが笑った。
「勲章を断る人は見たことがあります。でも、代わりに監査を求めた人は初めてです」
「監査がなければ、病院は長続きしません」
そのとき国境からの使者が駆け込んできた。
新しい避難民の列は、これまでの救援規模をはるかに超えるかもしれないという。
二人は顔を見合わせた。
今日始まった予算の議論が、明日には足りなくなる。
宮殿を出る前、アーデリアはセレナに一通の封筒を渡した。
中には皇帝の署名ではなく、財務官が作成した審議予定表が入っていた。
「これが今日の成果ですか」
とセレナが尋ねると、皇女は頷いた。
「華やかではないでしょう」
「いいえ。次の会議の日が決まっている。それが嬉しいんです」
セレナは予定表を丁寧に折った。
誰かの善意だけに頼らず、次に集まり、失敗を確かめ、必要なら変える。
その約束は、どんな宝石より重かった。
馬車へ乗るとき、彼女は侍従に深く礼をした。
今日覚えた礼法の中で、いちばん自然な礼だった。
その日の夕方、セレナは国境の病院へ短い手紙を書いた。
皇帝に褒められたことではなく、継続予算の審議が始まることを知らせた。
イーナから返ってきた返事は一行だった。
「では、来年の包帯も数えておきます」
セレナは思わず笑った。
皇帝の言葉は大きな励みだった。
けれど病院の寝台は、言葉だけでは増えない。
セレナは帰りの馬車で、必要な費用を一項目ずつ書き出していた。
宮殿を出る前、アーデリアはセレナに一枚の紙を見せた。
救援予算の継続審議に必要な、病院ごとの月次報告様式だった。
「これでは、数字を集めるだけで看護人が疲れてしまいます」
「では、何を減らしましょう」
セレナは項目を指で追った。
「患者数と重症者数、薬の不足、勤務者の休息。まずはこの四つを確実に。詳しい統計は専門の係を育ててからにしましょう」
アーデリアは紙に線を引いた。
「皇帝の言葉より、報告書の欄を減らすほうが難しいかもしれませんね」
二人は笑った。
宮殿の大理石の床に立っていても、話しているのは明日の病棟のことだった。
セレナは封を切った。
感謝の式典が終わっても、病院の仕事は終わらない。
そのことが、今は少しも悲しくなかった。




