第五十八話 王国の兵士が、帝国の看護師になった
元王国兵の男が、担架の片側を握ろうとして手を止めた。
向かい側に立つのは帝国の退役兵だった。
二人とも相手の軍服を見たことがある。
戦場で。
「こいつと組めというのか」
「患者を落とさず運べるなら、誰とでも組んでもらう」
ガレスは厳しく答えた。
看護学校の訓練場には、武器を置いた男たちが集まっていた。
元衛生兵もいれば、戦場では負傷者を運んだ経験しかない者もいる。
「治癒魔法が使えません」
一人が小さく言った。
セレナは包帯と清潔な水を机に並べた。
「魔法が使えなくても、傷を清潔に保つことはできます。患者の変化を見つけて医師へ伝えることもできます。ただし、知らない治療を勝手にしてはいけません」
元兵士たちは初めて、剣を持たない手の役割を教わった。
リゼは包帯を巻く練習を見て回った。
「きつすぎます。指先の色を見てください」
「これでは敵を縛るほうが簡単だ」
男の冗談に笑う者はいなかった。
彼はすぐ口を閉じ、包帯を巻き直した。
実習記録には、処置ができたかどうかだけでなく、患者へ説明したか、拒否されたときに無理強いしなかったかも記された。
トルンは最初、命令が通らないことに戸惑った。
「患者は兵士ではありません」
リゼの言葉を、彼は何度も書き直した。
実習の日、元王国兵のトルンは、負傷した帝国兵の寝台を担当した。
「お前、南の戦場にいただろう」
患者が言った。
トルンは頷いた。
逃げることも、言い訳することもできなかった。
「俺の仲間は、あそこで死んだ」
「……俺の仲間もです」
沈黙が落ちる。
「水を取ってくれ」
患者が頼んだ。
トルンは医師の指示した飲水量を確認し、杯を差し出した。
患者は受け取り、短く言った。
「ありがとな」
その一言で過去が消えるわけではない。
それでも、今夜の仕事を続けることはできた。
翌週、訓練場で担架を運んでいた二人が足を止めた。
帝国の退役兵が、負傷した膝をかばっていたのだ。
「交代しますか」
トルンが尋ねた。
「いや。少し歩幅を合わせてくれ」
二人は同じ速さで歩き直した。
ガレスは何も言わず、その様子を見ていた。
夜勤を終えたトルンは、昔の軍靴を箱にしまった。
捨てるつもりはなかった。
あの戦場で起きたことを忘れたくなかったからだ。
ただ、明日の朝は別の靴を履く。
音を立てずに病室を歩ける、柔らかい靴だった。
修了判定では、知識試験だけでなく、患者の変化を報告できるか、無理な処置をしないか、夜勤を引き継げるかが確かめられた。
合格できなかった者には再訓練の機会が与えられた。
「兵士なら命令を聞くだけでよかった」
トルンが言うと、リゼは首を振った。
「看護人は、患者のために疑問を口にする仕事でもあります」
修了の日、男たちは武器の代わりに看護用の鞄を受け取った。
「俺は、守る仕事をやめたと思っていた」
トルンは鞄の留め具を確かめた。
訓練の初日、トルンは担架を持ち上げる合図を無視した。
力任せに持ち上げれば早いと思ったのだ。
人形を載せた担架が傾き、反対側の帝国退役兵が膝をついた。
「戦場なら置いていくところだったぞ」
と相手が吐き捨てた。
「ここは戦場じゃない」
とガレスが言った。
「だから、やり直す」
トルンは唇を噛んだ。
かつて命令に従って敵を追い立てた腕が、今は人を安全に運ぶために役立たない。
二日目は患者への声かけだった。
担架に乗った役者が「痛い、下ろしてくれ」
と叫ぶ。
トルンは黙って運ぼうとしたが、イーナに止められた。
「聞こえているのに無視されたら、もっと怖くなります」
「運ぶのが先だろう」
「危険を伝えて、必要なら医師に確認する。患者は荷物ではありません」
夜、トルンは訓練場の隅で、帝国退役兵に話しかけた。
「俺の隊が、あんたの村を通ったことがある」
相手の表情が硬くなった。
「謝れば済むと思うな」
「思っていない。ただ、明日も同じ担架を持つなら、黙っていたくなかった」
退役兵はしばらく返事をしなかった。
やがて、「明日は俺の合図を待て」と言った。
それだけだった。
最終試験では、模擬患者の呼吸が急に悪くなる設定が加えられた。
トルンは担架を止め、イーナに状態を伝えた。
退役兵は自分の判断で毛布を敷き直した。
二人の動きはまだぎこちなかったが、患者役は揺らされずに処置室へ運ばれた。
「合格です」
とイーナが言った。
トルンは笑わなかった。
代わりに、担架の握り手を丁寧に拭いた。
明日、本物の患者を運ぶためだった。
修了証を受け取った後、トルンは訓練場に残っていた。
ガレスが理由を尋ねると、「本物の患者が俺を怖がったら、どうしたらいい」と答えた。
「怖がる人もいるだろう。制服を脱いでも、過去は消えない」
「それでも、働けますか」
「患者に選ぶ権利がある。ほかの担当者に代わることも仕事のうちだ」
トルンはその言葉を何度も繰り返した。
赦されるために看護をするのではない。
必要な人に必要な助けを届けるために、できないことまで学ぶのだ。
翌日の配属表には、彼の名の横に指導担当者の名が書かれていた。
初めての勤務で、トルンは患者に名前を尋ねられた。
元兵士だと知った患者は顔を曇らせ、別の看護人を希望した。
トルンは黙って交代した。
悔しさはあったが、その人が安心して治療を受けることの方が大切だと、ようやく理解できた。
イーナは新しい看護人たちに、分からないことを隠さないよう伝えた。
トルンは最初に手を挙げた。
「薬の名前を、まだ全部覚えていません」
教室に小さな笑いが起き、すぐに復習が始まった。
実習の終わりに、トルンは帝国の退役兵に声をかけた。
「今日の担架、右へ傾いていた。俺の歩幅が大きすぎた」
「知っている。言おうと思った」
「次は先に言ってくれ」
退役兵は眉を上げた。
「命令するな。お前も気づいたら言え」
二人はしばらく睨み合い、やがて担架の持ち手を握り直した。
歩幅を合わせて廊下を一往復すると、上に置いた水の入った器はほとんど揺れなかった。
「明日も組むか」
「患者が嫌がらなければな」
トルンは頷いた。
過去を消すことはできない。
けれど、過去を言い訳にして目の前の人を落とすことも、もうしたくなかった。
「違ったんだな」
セレナは頷いた。
守る相手を選ばないことは、簡単ではない。
だからこそ、訓練し、支え合う場所が必要なのだ。




