第五十七話 死者の名前を、誰が数えるのか
王都の広場には、名前を書いた木札が並んでいた。
「父は、数字じゃありません」
遺族の青年が言った。
手にした札には、父親の名前と、好きだった焼き菓子の絵が描かれている。
死亡台帳の数字が訂正されても、家族にとっては一人の人生が失われたままだった。
記録室でリゼは三種類の帳簿を広げた。
医療院の死亡記録、埋葬許可、村の届け出。
記載の形式が違い、同じ人物が二度数えられている例もあれば、どこにも載っていない例もあった。
「これを足し算するだけでは、正しい死者数になりません」
若い役人が眉をひそめた。
「では、いつまで調査を続けるのですか」
「分からないものを、分かったことにしないためです」
リゼは同一人物の照合方法を示した。
名前だけでなく年齢、居住地、家族の届け出、埋葬場所。
確認できた件数と、調査中の件数を分けて公表する。
調査班は身元不明者の情報を掲示する際、病状や家族の事情をむやみに公開しないようにした。
名前を取り戻すための調査が、生き残った家族を傷つけてはならない。
リゼは閲覧できる情報を分け、問い合わせには担当者が応じるよう決めた。
市議会では、一部の議員が飢餓による死亡を疫病の統計から外すよう求めた。
「王国の名誉に関わる」
「原因を分けて記録することには意味があります」
ユリウスが答えた。
「しかし、原因を隠すために分けるなら意味が違います」
食料不足で衰弱した人が感染症で亡くなった場合、単純な分類では実態を表せない。
医師の判断と調査中の扱いを明記する方針が決まった。
墓地でシーラは、番号しかない墓標の前に花を置いた。
「名前がないと、誰も会いに来られないの?」
墓守は困った顔をした。
「探している家族がいるかもしれない。だから番号も消さずに残すんだ」
その時、年配の女性が一枚の木札を指さした。
「その子は、死んでいません」
記録係の顔色が変わる。
女性は避難先の村と、今も届く手紙を示した。
セレナは即座に削除を命じなかった。
誤記の理由を残し、本人の所在を確認したうえで訂正する。
記録の誤りを隠してしまえば、また同じことが起きる。
「生きている人の名前が、ここにあってはいけない」
女性は泣きながら頷いた。
墓守は毎朝、札の文字を確かめていた。
雨で薄れた名前をなぞるとき、彼は必ず声に出して読むという。
「忘れないためです」
セレナはその手を見つめた。
大きな改革より先に、誰かが一人を忘れまいとする仕事がある。
夕暮れ、広場で遺族たちが名前を読み上げた。
途中で声が詰まる人には、隣の人が続きを読んだ。
セレナも一人の名を口にした。
治療したが、助けられなかった患者だった。
「覚えているだけでは足りないのでしょうか」
リゼが尋ねた。
「覚えていることから、始めるの」
セレナは答えた。
訂正窓口が開いた初日、列の先頭にいた女性は書類を出せなかった。
手には古い靴が一足だけあった。
「息子のものです。入院した日、これを預かりました。ほかに証明できるものはありません」
担当の書記官は困った顔をした。
入院札も身分証もなければ、別人の記録を誤って訂正する危険がある。
「靴だけでは受け付けられません」と言いかけたとき、ユリウスが止めた。
「申請は受け付けてください。確認が済むまで訂正を保留すればいい」
女性はその場で泣き崩れた。
拒絶されなかっただけで、膝から力が抜けたのだった。
午後、医療院から運ばれた入院台帳と埋葬記録の照合作業が始まった。
名前の綴りが違う者、年齢が一年ずれている者、同姓同名の者。
数字を直すより、一人を特定する方がずっと難しい。
若い記録係が尋ねた。
「確認できなかった人は、どうしますか」
「不明のまま残します」
とユリウスは答えた。
「勝手に埋めてはいけません」
夕方、広場の木札を片づけようとした役人に、遺族たちが抗議した。
雨に濡れれば文字が消える。
だが、片づけられれば名前まで消されるようで怖かった。
セレナは、木札を屋根のある回廊へ移すことを提案した。
移動先を掲示し、家族がいつでも訪ねられるようにする。
記録と追悼を別の仕事として守るためだった。
靴を持ってきた女性は、閉所時刻まで待ったが、その日のうちに息子の記録は見つからなかった。
ユリウスが謝ると、女性は首を振った。
「明日も探してくださるんでしょう」
「はい。見つからなければ、その理由もお伝えします」
女性は靴を胸に抱いた。
まだ答えはない。
それでも、答えを求める場所ができたことだけは確かだった。
夜、記録係たちは訂正申請の束を机に広げた。
一枚ごとに、誰かが長い道を歩いて持ってきた名前がある。
若い係は疲れた目をこすりながら、空欄を埋めたくなる衝動と戦った。
「分からないと書くのは、仕事をしていないみたいです」
と漏らすと、年長の係が首を振った。
「分からないと正しく書くのが、いちばん難しい仕事の日もある」
二人は未確認の札に日付を付け、翌日の照合先を記した。
広場の回廊には、雨を避けた木札が静かに並んでいた。
灯りを消す役人は、一枚も倒れていないことを確かめてから扉を閉めた。
窓口には、訂正できた件数だけでなく、調査中の件数も掲示された。
進んでいない仕事を隠さないためだった。
遺族は数字を見てため息をついたが、翌日も窓口が開くことを確かめると、静かに列を離れた。
帰り道、遺族の青年が木札の前で立ち止まった。
父の好きだった焼き菓子の絵は、まだ残っていた。
青年はそっと埃を払い、明日も来ると約束した。
記録室の戸口で、年配の女性が小さな布袋を差し出した。
中には、息子が幼いころ身につけていた木の笛があった。
「名前が分からない人の持ち物を並べる場所はありますか」
リゼはすぐには答えられなかった。
遺品を公開すれば身元確認の手がかりになるが、誰でも触れられる場所に置けば、取り違えや盗難も起こる。
「袋の特徴を記録して、鍵のかかる場所で保管します。確認を希望する方には、係員が立ち会います」
「それなら、預けます」
女性は笛を一度だけ吹いた。
音はかすれていた。
「あの子、上手には吹けなかったの」
リゼはその言葉まで記録しようとして、やめた。
帳簿に残す事実と、家族が胸にしまう思い出は、同じではない。
翌月から死亡記録の訂正窓口と、身元不明者の照合所が常設されることになった。
誰が数えるのかという問いへの答えは、一人の役人でも、一人の医師でもなかった。
家族と、医療者と、記録係と、名を知らない誰かが、間違いを直せる仕組みを持つこと。
それが死者の名を守る第一歩だった。




