第五十六話 一枚の死亡診断書が、王国を変えた
「この署名は、私のものではありません」
審問会場でセレナが告げると、記録係の筆が止まった。
机の上にはシーラの死亡診断書が置かれている。
かつてセレナを追放する根拠とされた一枚だった。
「筆跡が違う、というだけですか」
王子側の代理人が尋ねた。
「いいえ。私はその日の診療記録を残しています。シーラの状態、投薬、次の診察予定。死亡を確認した記録はありません」
セレナは控えを提出した。
ユリウスが保管していた原簿の記載とも照合される。
証言台に立った元書記官は、診断書を作成したことを認めた。
「王子の側近から、形式を整えろと言われました」
「誰から、いつ、どのような指示を受けましたか」
審問官は一つずつ尋ねた。
書記官は覚えていることと、記憶の曖昧なことを分けて答えた。
「私は……あの子が生きていると、知っていました」
声が震えた。
「知っていて、死んだと書きました」
傍聴席のシーラの母親が、娘の手を強く握った。
シーラはその手を握り返した。
診療記録には、訂正するとき元の記載を読める形で残すことが定められた。
間違いを消し去るのではなく、いつ誰が何を直したかを示す。
セレナはその手順を見て、追放の日に自分の言葉が記録から消されたことを思い出した。
オルフェン院長も証言した。
死亡診断書に不自然な点があると気づきながら、確認を止めたこと。
セレナの異議申し立てを取り次がなかったこと。
「命令に逆らえば、医療院が閉じられると思いました」
「それは、患者を守るためでしたか」
セレナの問いに、院長は顔を上げられなかった。
「自分の地位を守るためでもありました」
会場には誰も拍手しなかった。
真実を認めたからといって、失われた時間が戻るわけではない。
審問官は診断書の真正性に重大な疑義があると判断し、正式な訂正手続きを命じた。
同時に、セレナの資格剥奪処分について独立した再審査を勧告した。
「今日、すべてが終わるのですか」
廊下でシーラが尋ねた。
「いいえ。まだ調べることがあるわ」
セレナは答えた。
「でも、あなたが死んだと書かれた紙は、もうそのままにはされない」
シーラは小さく頷いた。
シーラは母親と一緒に訂正通知を受け取った。
「これで私は、学校に戻れる?」
母親はすぐに頷けなかった。
噂は紙より遅く消える。
それでも、二人は学校へ事情を説明するための書類を整え始めた。
臨時評議会では、治癒師の資格を王族一人の命令で奪える制度が問題となった。
ユリウスは独立審査会、異議申し立て、診療記録の保全義務を提案した。
「一人の名誉を回復するだけでは、次の犠牲者を防げません」
反対する議員もいた。
王家の権限を制限することになるからだ。
だが、遺族代表は静かに言った。
「うちの子は戻りません。だから、次の子を守る決まりを作ってください」
その言葉は議場に残った。
夜、セレナの宿舎へ資格回復の内示が届いた。
彼女は封筒を机に置き、翌日の診療表を広げた。
審問に先立ち、監督官は三種類の書類を並べた。
医療院が保管していた死亡診断書、当時の当直表、薬品の払出記録だった。
「署名が違うだけで偽造と決めることはできません」
と書記官が言う。
「ええ。だから照合します」
とセレナは答えた。
当直表には、彼女がシーラの病室から離れた時刻が記されていた。
だが死亡診断書の作成時刻はその後で、署名欄には彼女の名があった。
記録が正しければ、署名したはずの時間に彼女は別の患者を診ていたことになる。
王子側の弁護人は当直表そのものの信用性を争った。
ユリウスは原本の保管経路と、当時の看護人二人が同じ勤務交代を覚えていることを説明した。
「私は署名していません。ただし、誰が書いたのかは知りません」
セレナは言い切った。
怒りに任せて名を挙げれば、今まで守ってきた記録の意味がなくなる。
休憩中、シーラの母親が彼女に尋ねた。
「もし資格が戻ったら、王国へ帰るのですか」
「まだ決めていません」
「あなたが帰らなくても、私たちは感謝しています」
セレナは返事に詰まった。
王国で暮らした年月を思うと、戻りたい気持ちがないわけではなかった。
だが、追放された自分だけが救われて終わるなら、次の医療者が同じ目に遭う。
審問の最後、監督官は死亡診断書の作成経路を調べる別の調査を命じた。
資格回復については独立した審査に付す。
傍聴席では拍手が起きかけたが、セレナは首を振った。
「まだ、シーラがどうして死者にされたのか分かっていません」
少女は母の手を握り直した。
今日取り戻したのは結論ではなく、真実を調べてもらう権利だった。
その晩、セレナは古い治癒師の徽章を箱から出した。
追放された日に外された留め金には、小さな傷が残っていた。
資格が戻れば、この徽章をまた胸につけるのだろうか。
イーナは箱を見て尋ねた。
「嬉しくないんですか」
セレナは笑った。
「嬉しいわ。でも、あの日に戻れるわけではないの」
彼女が帝国で出会った患者や看護人は、追放がなければ知らなかった人々だ。
「戻る場所が二つあるのは、困りますね」
とイーナが言う。
セレナは徽章をしまった。
「だから、急いで決めない。まずは明日の患者を診る」
箱の蓋を閉める音は、追放の日よりずっと静かだった。
翌朝、シーラは診療所でセレナの徽章を見つけた。
「また付けるの?」
と聞く少女に、セレナは「正式な結果が出たらね」と答えた。
「じゃあ、その日を待つ」
少女は笑った。
セレナも今度は素直に笑い返した。
審査官は最後に、再発防止策を文書にするよう求めた。
診断書には署名者だけでなく、作成日時と確認者を残す。
セレナはその提案に強く頷いた。
審問の休憩中、セレナは廊下でシーラと出会った。
少女は紙袋を差し出した。
中には、不格好な文字で「生きています」
と書かれた小さな札が入っていた。
「お母さんと作ったの。私の名前も書いた」
「大切なものね」
「先生にも、持っていてほしい」
セレナは受け取る手を止めた。
「これはあなたのものよ。私が預かるより、あなたが持っていて」
シーラは少し考え、札を胸に抱き直した。
「じゃあ、先生の名前が戻ったら、二人で新しい札を作ろう」
「ええ。今度は、誰にも勝手に消せないように」
少女が去った後、セレナは診断書の写しを見つめた。
取り戻すべきなのは名誉だけではない。
人の名前を奪う権限が、誰にも無制限には与えられない仕組みだった。
奪われたものが戻る。
それは嬉しい。
けれど、紙一枚で人生を壊せる仕組みを変えなければ、喜びは長続きしない。
セレナは返答欄に、再審査の正式な結果を待つと書いた。




