第五十五話 医療を買い占めた商会の末路
王都市場の薬屋から、価格札が消えた。
値下げされたのではない。
売る薬がないと告げられたのだ。
その日の午後、ユリウスのもとに一人の薬師が訪れた。
袖の中から取り出したのは、商会の倉庫番号を書いた伝票だった。
「在庫はあります。病院へ卸すなと命じられたんです」
薬師は震えていた。
告発すれば職を失う。
それでも、診療所で薬を待つ子供の顔を忘れられなかった。
ユリウスは監督官へ伝票を渡した。
倉庫の捜索には正式な許可が必要で、噂だけで扉を破るわけにはいかない。
調査官は仕入れ記録と出荷記録を照合した。
数日前に入荷した箱が、市場には一つも出ていない。
「保管上の都合だ」
商会主は言い張った。
「ならば温度と湿度の記録を見せてください」
薬師の問いに、商会主は黙った。
許可を得て開けた倉庫には、確かに薬が積まれていた。
しかし全てが使えるわけではない。
雨漏りの跡がある棚、封の破れた瓶、変色した薬液。
「急いで病院へ!」
職員が叫ぶと、セレナが止めた。
「検査を通ったものだけです。焦って危険な薬を配れば、患者をもう一度裏切ることになる」
検査に合格した薬は病院ごとの不足に応じて配分された。
商会の倉庫から見つかった箱をすべて市場へ放出すれば、別の混乱が起きる。
ガレスは配送予定を公開し、優先順位への異議を受け付ける窓口を設けた。
商会主は王宮の独占許可証を突きつけた。
「これは正式な特権だ。お前たちに奪う権利はない」
臨時評議会は許可証の有効性を調べ、供給停止が緊急医療を妨げた事実を確認した。
特権の停止と損害の調査は、公開の手続きで進められた。
「商会を潰せば、従業員が路頭に迷います」
若い倉庫番が訴えた。
ガレスは頷いた。
「だから倉庫番まで敵にするつもりはない。薬を届ける仕事は必要だ」
不正を指示した者の責任と、働いていた者の生活を分けて考える。
そのために、新しい共同配送組合への参加を募った。
市場の端で、母親が処方箋を握りしめていた。
「昨日、値段が三倍だと言われました。払えないと伝えたら、明日にはもっと上がると」
セレナは謝罪の代わりに、薬局の在庫表を見せた。
今日渡せる薬と、まだ検査中の薬。
分からないことを分からないまま伝えた。
「明日、必ず入りますか」
「必ずとは言えません。でも、入荷したら順番に連絡します。今夜必要な分は別の診療所から手配します」
母親は泣きそうな顔で頷いた。
告発した薬師は職場へ戻るのを恐れていた。
ユリウスは証言者の名前を不用意に広めず、監督官に保護を要請した。
「正しいことをした人が、次に職を失う仕組みでは困る」
薬師は初めて肩の力を抜いた。
数日後、価格と在庫を公開する共同配送所が動き始めた。
複数の仕入れ先を確保し、病院ごとの不足を一覧にする。
商会の元従業員たちは、以前より忙しく働いた。
商会主の責任追及はまだ終わっていない。
だが、薬を待つ患者に裁判の結論まで待てとは言えない。
倉庫へ向かう前、ユリウスは薬師に確認した。
「この伝票をどこで手に入れましたか」
薬師は自分が荷受けに立ち会ったこと、箱数を帳面へ記したことを順番に話した。
「私も黙っていました。子供がいるんです。商会を敵に回せば仕事を失う」
「証言を強制しません。まず患者に薬を届ける方法を考えます」
ユリウスは伝票の原本を預からず、保管場所と作成者を記録した。
証拠を急いで持ち出せば、商会は盗難だと騒ぐだろう。
翌日、監督官立ち会いのもと倉庫が開かれた。
箱は確かに積まれていたが、すべてが使える薬ではなかった。
湿気を吸った包み、期限の分からない瓶、封が破れた袋が混ざっている。
「ほら見ろ、すぐには出せない」
と商会主は言った。
「だから検査するのです」
とユリウスは返した。
薬師たちは品目ごとに仕分け、封の状態と保管温度を確認した。
使用可能と判断したものだけを病院へ回す。
足りない分は他の商会から調達することになった。
市場では、子供を抱えた女性が薬屋の前で泣いていた。
「昨日は売れないと言われたのに、今日はあるんですか」
店主は値札を戻す手を止めた。
「あります。ただ、処方が必要な薬は診療所で確認してください」
女性は安堵したが、怒りも消えなかった。
「昨日の夜、熱が下がらなかったんです」
ユリウスは謝った。
薬を取り戻したことと、失われた一夜が戻らないことは別だった。
調査では、商会が価格操作を図った疑いが記録された。
しかし責任者の処罰はまだ決まっていない。
ユリウスは公表文の末尾に、次の入荷日と苦情の受付先を加えた。
裁きより先に、患者が明日の薬を探せるようにするためだった。
倉庫の外では、商会の荷運び人たちが仕事を失うのではないかと怯えていた。
ユリウスは調査官に頼み、検査を通った薬の運搬には従来の人員を使えるよう調整した。
不正を疑われているのは取引の仕組みであって、荷を運んだ者全員ではない。
一人の若者が尋ねた。
「俺たちも悪者なんですか」
ユリウスは首を振った。
「知っていたこと、知らなかったことを一人ずつ確かめます」
若者はほっとした顔をしたが、すぐに「なら、知っていたことを話します」と言った。
価格操作の調査は、その言葉から新しい段階に進んだ。
病院へ届いた最初の箱には、検査済みの印が押されていた。
薬師は封を開ける前に印と帳簿を照合し、患者ごとの処方箋を確かめた。
買い占めを暴くことだけが目的ではない。
安全な薬を必要な人へ渡すまでが、今回の仕事だった。
ユリウスは翌日の巡回先を確認した。
薬が届いた病院にも、まだ届いていない診療所がある。
地図に印をつけ、一つずつ配送状況を確かめた。
倉庫から運び出された薬箱の一つに、雨でにじんだ封印があった。
「これを急いで病院へ送れば、足りない分が埋まります」
若い役人の言葉を、薬師が遮った。
「封が傷んでいます。中身の保管状態を確かめるまで、患者には渡せません」
「待っている人がいるんだぞ」
「だからです。薬が届いたせいで具合が悪くなったら、何のための救援ですか」
ユリウスは箱を別の棚へ移させ、検査待ちと記した。
使える薬は先に届ける。
使えない可能性がある薬は、必要数に数えない。
商会の罪を暴くことと、目の前の患者を守ることは、同じではない。
だが、どちらも省くわけにはいかなかった。
ユリウスは市場の新しい札を見上げた。
そこには価格だけでなく、入荷日と問い合わせ先が書かれていた。
命を値札から解放することはできない。
それでも、値札を隠して命を脅かす商売は、終わらせられる。




