第五十四話 国境の病院が、王国の病院になった
王国南部の廃校に、再び人が集まった。
以前は子供たちの声が響いた教室に、今は寝台が並ぶ。
黒板には計算問題の代わりに、当直医と薬の在庫が書かれていた。
「ここは帝国の病院になるのですか」
村長の問いに、セレナは首を振った。
「いいえ。この土地に暮らす人が、続けていく病院です」
救援協定で開設された診療所を、王国側の住民運営へ移す日だった。
開院前の会議で、最初の問題が起きた。
王国の貴族が資金援助を申し出る代わりに、専用病室を要求したのだ。
「費用を負担する者に優先権があるのは当然でしょう」
住民代表の女性が立ち上がった。
「うちの子は、熱が出ても待てと言われました。あの時と同じ病院を作るなら、看板を変える意味がありません」
貴族は顔を赤くした。
セレナは寄付を断るのではなく、条件を示した。
「寄付は受け取れます。ただし診療順は症状の重さで決めます。誰の寄付かは、医師の判断に関係させません」
議事録にその一文が加わるまで、会議は終わらなかった。
開院に合わせて、受付には文字の読めない人のための絵札も置かれた。
熱のある人、けがをした人、付き添いの家族。
順路を分けるだけで、廊下の混雑が少し和らいだ。
看護人は患者の名前を大きな声で呼ばず、番号と照合票を使った。
午後、薬局の窓口に男が割り込んだ。
「領主様の使いだ。先に薬を渡せ」
新任薬師は手を震わせながら、受付札を示した。
「緊急の処方ですか。そうでなければ順番をお待ちください」
「後で困るぞ」
その脅しを聞いた看護人が、すぐ管理者を呼んだ。
薬師一人に対立を背負わせない仕組みが、初めて働いた。
男は不満を残して列の後ろへ戻った。
薬師は深く息を吐いた。
「怖かったです」
「怖くても、あなたは一人じゃなかった」
セレナはそう答えた。
病棟では、王国出身の看護人が患者の呼吸の変化に気づいた。
「昨日より速いです。熱も上がっています」
当直医は記録を見て診察し、治療方針を見直した。
「よく報告してくれました」
看護人は驚いた顔をした。
以前の医療院では、身分の低い者が医師に意見するだけで叱責されたからだ。
「間違っていたら、どうしようと思って」
「報告が間違いなら確かめればいい。黙って見逃すよりずっといい」
セレナは新しい管理者へ、毎月の苦情記録を残すよう頼んだ。
「病院を褒める声より、困った人の声が消えやすいんです」
管理者は頷き、掲示板に意見箱を取り付けた。
制度ができた日より、制度が間違いを直せる日を大切にしたかった。
夕方、会計担当が不足額を読み上げた。
寄付金だけでは冬の薪代が足りない。
アーデリアは帝国の臨時支援を段階的に減らし、王国側の自治組織が予算と監査を引き継ぐ案を示した。
「急に手を離すのではありません。ですが、永遠に帝国の財布に頼るわけにもいきません」
住民たちは負担の割合を議論した。
貧しい家庭の診療費を免除する基準も、玄関に掲示することになった。
最後に、古い王家の紋章が看板から外された。
「名前は?」
誰かが尋ねた。
「南門共同病院」
開院前夜、セレナは教室だった病室を一つずつ歩いた。
窓の隙間から冷たい風が入り、床の一部は雨で膨らんでいる。
「ここに重症患者を置くのは危険です」
エドガーが床板を踏むと、乾いた音がした。
村の大工は明日までに補修すると約束したが、今夜運び込まれる患者を待たせることはできない。
イーナが提案した。
「旧校長室なら床が丈夫です。窓も閉まります。先に四床だけ作りませんか」
セレナは頷いた。
立派な病院を完成させるより、今夜安全な四床を用意する方が先だった。
翌朝、王国側の医師が到着した。
帝国の薬を使うことに反発し、診療記録の様式にも異議を唱えた。
「王国の患者は王国の医師が診るべきだ」
「その通りです。だから、あなた方に来ていただきました」
とセレナは答えた。
「ただし、重症度の判断と感染対策は共通にします」
若い医師は、帝国側の看護人から指示を受けることを嫌がった。
ところが最初の急患が運び込まれたとき、イーナが呼吸数の変化を報告し、医師が処置を決めるまでの時間を縮めた。
処置が終わると、医師は小さな声で言った。
「さっきの報告は助かった」
イーナは手を止めず、「次も同じように伝えます」と答えた。
夕方、村長が会計帳簿を持ってきた。
「薬の費用は誰が払うのです」
帝国の補助金だけでは足りず、王国側の負担金は到着が遅れていた。
アーデリアの署名がある仮払保証書を確認し、エドガーは薬の在庫を二週間分に限定して発注した。
資金が途切れれば、患者に約束した治療も途切れる。
初日の夜、病院の前にはまだ長い列があった。
セレナは看板の下に掲示された当直表を見た。
そこには王国と帝国、両方の医療者の名前が同じ大きさで書かれていた。
二日目の朝、共同病院では薬の名称が王国式と帝国式で異なることが分かった。
同じ瓶に違う呼び名が書かれていたのだ。
イーナが気づかなければ、同じ薬を二重に渡していたかもしれない。
セレナはすべての薬棚に両国の名称と成分を併記するよう命じた。
「名前が違っても、中身が同じなら一つとして数えます」
王国の医師も確認に加わり、古い帳面を持ち寄った。
昼には、病院の食事を誰が作るかでも揉めた。
村の女性たちが手伝いを申し出たが、病室へ自由に出入りすることはできない。
食事の受け渡し場所を決め、洗い物の動線を分けた。
共同という言葉は、看板を掛ければ完成するものではなかった。
夜勤の引き継ぎでは、王国の医師が帝国の看護人に質問した。
「この患者は夕方から水を飲めていますか」
看護人は時刻と量を示した。
国境を越えるのは人だけではない。
患者を見守るための情報も、確かに渡っていた。
開院から三日目、診療所の帳簿に初めて赤字が記された。
無料の診察を続けるには、包帯と薪の費用が足りない。
「寄付を増やす代わりに、寄付した家の名前を診察順に載せるのはどうです」
会計係の提案に、村長は首を振った。
「診察順は病状で決める。そこを売れば、古い病院に戻ってしまう」
代わりに、診療費を払える者からの任意の負担と、村の共同倉庫からの薪の提供を記録した。
寄付額も支出も、誰でも閲覧できるよう掲示する。
翌朝、診察室の前に薪の束が三つ置かれていた。
名前は書かれていなかった。
セレナは会計係に、匿名の寄付も受領日と数量だけは残すよう頼んだ。
子供を抱いた女性の提案に、拍手が起きた。
セレナは鍵を村長へ渡した。
手放すことが、こんなにも誇らしい日が来るとは思わなかった。




